第137章―前夜―
・・・まだあの車があったなんて。いや、あの奥さんなら大事に乗っていたとしてもおかしくない。処分されたものと勝手に思い込んでいた私の方がおかしいのだ。
胸がドキドキする。すごく追い詰められている気がする。きっと奥さんはあのアパートが私の家だと気付いただろう。胸がドキドキする。手のひらには汗がにじんでいる。
「大丈夫?」
そう声をかけてくれたのは主任だった。私が以前倒れて以来、さりげなく気遣ってくれている。
「大丈夫です、すみません。」
「謝ることないけど、点滴に入れる薬剤はしっかり確認してね。」
「はい。」
あれから3日がすぎていた。今日私は点滴番で、午後から患者に使う点滴の準備をしていた。
“こんな時にぼーっとするなんて。”
苦虫を噛んだ気持ちで注射液の一つ一つを処方箋(医師が処方した点滴(薬)の内容が書いてある用紙)と照らし合わす。
明日は志生に逢える。明日、私は返事をすることになっている・・・というより、返事をすることにした。
「これから先の人生をよろしくお願いします。」
それを思うと暗闇に小さく灯りが灯るような気持ちになった。きっと志生は、私を人生という長い道程において間違いに行かせることなく、そして病ませることなく導いてくれるはずだ。
その一方でどうしてこのタイミングであの人の奥さんに再び出会ってしまったのかと思う。あれから私は自分でもどうしようもないくらいびくびくしながら自分の部屋にいる。いつ奥さんが私のところに来るんじゃないかと気が気ではないのだ。いっそ実家に帰ろうかと思った。志生に相談してホテルにでも泊まりこもうかとも考えた。だけどそんなことをしても私の不安がぬぐえないのは確実だった。場所さえ変えればいい問題ではない。それにこれ以上志生に奥さんのことも言いたくなかった。1度だけ富田さんが生きている頃話したことがあった。あの空しい抱擁の夜。あの時富田さんのことで精一杯だった志生に奥さんのことを話して苦い思いをしたのだ。もちろん今の志生ならあの時よりも懸命に私の話を聞いてくれるだろうし、心配してくれるだろう。でももう話す気にはならないし、これから単身赴任に出る彼にこれ以上心配もかけたくなかった。いや正直に言うと、おそらく私はこの問題に誰の介入もしたくないのだ・・・。
実家に戻るにはそれなりの理由を用意しなければならなくて、それはそれで私は面倒だった。それに私は怖かった。もし奥さんが私の実家まで知って、もしも私とあの人のことがバレたら・・・。両親にバレるのだけは勘弁してもらいたい。何としても避けたい。おそらく私の本音はそちらだった。
私はその晩職場からじかに自分の実家へ帰った。突然の娘の帰宅に母親はとても驚いてたが、それでも嬉しそうに「夕飯、食べていくでしょ?」と訊いてきた。
「お父さんは?」
「もうすぐ帰ってくると思うけど・・。なに?特別な話?」
「うん・・・。穂村さんのこと・・。」
母はそれだけで私の言いたいことを理解してくれたようだった。
「落ち着いたってことなのね?」
私は首を縦に振った。
「お父さんもずいぶん心配してたから・・、ちゃんと謝りなさいね。」
アパートに着いたのは夜の11時だった。泊まっていけばいいのに、と言ってくれた母をなだめて出てきた。泊まってもよかったのだが、着替えはあっても化粧品とかがない。やはり明日の勤務を考えるとアパートの方が楽だった。
志生と結婚を決めたことを父親も了解してくれた。淋しそうな、でも安心したような顔を見た。母も笑みさえ浮かべてはいたけど、その話の時は何となく下を向いていた。親のあの顔を、あの表情を、私は忘れないだろうと思った。
「明日勤務が終わったらすぐ連絡して。」
志生からのメールを何度も読み返した。明日。私がその返事をした時、彼はどんな顔を見せるだろう。どんな表情をして、どんな言葉を返してくるだろう。
私は一人の静かな部屋の中でゆっくりと両手を前にあげた。そこに愛しい人がいるように。
小さく、小さく、つぶやく。
「これから先の人生をよろしくお願いします。」