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まぼろしの跡  作者: 樹歩
136/141

第136章―白いセダン―

 「6○75」

その数字を見た時、私は確かに全身が硬直する音を聞いた。私の身体を一瞬にして瞬間接着剤が固めたように。いや、固めたのだ。それはおそらく。


 私は出勤するのにとても急いでいた。いつもはそんなことないように身支度をするのだが、逆を言えばその日はいつものように支度をしてはいけなかった。午前一番に検査が入っている患者さんがいて、私は普段よりも早く出勤する予定になっていたのだ。でもそのことをすっかり忘れてしまっていて、それを思い出したのがついさっきだった。

 のんびり食べていたトーストを一気に紅茶で流し込む。最後にゆっくり飲むと決めている野菜ジュースも一気飲み。あわててバッグを手に取り、ハンガーにひっかけているカーディガンをひったくって玄関を飛び出る。アパートの階段の上から自分の車を視野に入れ、ますます急ぐ気持ちに拍車がかかる。私は階段も一気に駆け降り・・・、地面をとらえたあたりでその偶然の事態のきっかけが起きた。

 私の手にしていたバッグ(ファスナーのついた小さめのトートバッグ。そこへ荷物をぎゅうぎゅうづめに納めていた。もう一回り大きいバッグを持っていたら、あるいはこの偶然はなかったかもしれない)の口が大きく開いていて、そこから携帯が階段を駆け降りてきた勢いに揺れて飛び出したのだ。あっ、と思った時には携帯は空を舞い、道路の手前まで落ちるのがわかった。

「やばっ・・、」

携帯を追いかけた私の耳に、キキーッと車の急ブレーキの音が響いた。見ると右から来た白い乗用車が急停車したところだった。私が飛び出してくると思ったのだ。実際は携帯は道路まで行ってなかったけれど、走行中の車からはこの駐車場は見通しが良くてしかも道路に面している。私が飛び出してくるように見えても不思議じゃない。

「すみません。」

と私は運転席の人に向かって謝った。と同時に何気に車のナンバーに目が行った。6・・その瞬間、私の全身の時間が止まり、私の身体のすべてがぴくりとも動かなくなった。その音(のようなもの、と言った方が正確かもしれない)をきいた。そして次の瞬間、運転席からその人が現れた。

「あなた・・・。」




 一瞬、すべてを忘れたふりをしようかと、全く気付かなかったことにしてしまおうかと・・・。でもその前にすでに私は防御態勢に入ることで精一杯だった。自分の身と立場と嘘を守ることにだけしか浮かばなかった。そして大げさに驚いた顔をした。

「あ・・、ご無沙汰してます。」

「びっくりしたわ、勢いよく出てくるかと思って。そうじゃなかったのね。」

その人は私が携帯を拾い上げたのを見てそう言った。

「急いでて・・、バッグから飛び出ちゃったんです。」

「あなたとはよほど縁があるのね。」

「・・・・。」

私はそれには聞こえないふりをして携帯をバッグに収めた。急がなくてはいけないのもあったが、一刻も早くこの場から逃れたかった。でもさすがにこのままじゃまずいと思って、

「すみませんでした。」

と努めて明るく言った。努めて明るく。

「・・気をつけて。」

何か言いたいのを飲み込んでその人がまた車に乗り込む。ちらっとこちらを見てサイドブレーキを解除する。その音も私は知っていた。何度も聞いた音。

 車が走り出す。それを確かめて私も自分の車に向かう。ふっとあの人が運転席のルームミラーから私を見ている視線を感じる。この車が私の車だとわかっただろうか。わかったからと言ってそんなことは問題じゃない。もっと問題なのは・・・。私はアパートの自分の部屋を思う。窓辺のサボ子を。



カノジョニココガワタシノイエダトシラレテシマッタ。



世界で一番私の居場所を知られたくない人に。

世界で一番私が恐れている人に。

運転しながらも私の全身には気味の悪い感触がまとわりつく。真夜中の海、砂に呑みこまれてゆく蟻が脳裏に浮かぶ。と思うと人間の私が砂から首だけ出して、満天の星を見あげて泣いている。口の中にざらざらとした砂が溜まっている。

私はかろうじて運転に集中しながら何度も口の中で舌を舐めまわす。本当に砂の感触がする。何もないとわかっていてもそれは私を怯えさせる。 

・・・まだあの車があったのか。まさか残していたとは。あの白いセダン。周りが高級車に乗るなかでただ一人、ごくありふれた国産車に乗っていた。品のいい茶色のシート。その助手席に一番に乗せてくれとわがままを言った。・・・とっくに処分されたものだと・・・。どうしてそう思ったのだろう?懐かしいと言える立場じゃないくせに、それでもその光景は一瞬私を思い出へと連れ戻す。現実のおぞましさを取り残して。


 あの人・・。今の季節に合ったきれいな薄黄緑のニットだった。薄いベージュのスカート。髪が幾分短かったかもしれない。切っても不思議じゃない。あの時は冬だった。今はもう・・・。

 何か言いたそうだった。あんな風にしたのはかえって不自然で余計まずかっただろうか。でもあの時私の頭にはあの人が持っているであろうメモ用紙のことで頭がいっぱいになった。匿名の手紙とあの人の残したMと書かれたメモ。

 ぐるぐると目まぐるしく色んな場面や回想が私を取り囲んだ。おかげで職場に着く頃にはぐったりとしてしまった。時計を見る。ちょっと遅れたけれど患者さんの検査には間に合う。気持ちを切り替えようと思う。うまく切り替えねば。そしてすべてを切り抜けねば。



カノジョニワタシノイエヲシラレテシマッタ。

彼女に私の居場所を知られてしまった。



白い車。あの人が乗ってたセダン。あの人の美しい奥さんに。





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