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まぼろしの跡  作者: 樹歩
135/141

第135章―返事―

 「やっぱり遠い・・・。」

泳ぎが終わった後の余韻に身を沈めたまま、ふいにつぶやく。

「・・新幹線だと2時間くらいだよ?逢おうと思えば逢える。」

「でも、」

「今日だってずいぶん久しぶりだっただろ?近くに住んでたって逢えない時は逢えないんだよ。同じだよ。」

言われてみればその通りだと思っても、女にとっては距離というのがとても重要だったりする。男性はだいたいにおいて中身を重要視するのに対し、女性は条件だとか、すでに整った環境だとかを重要視する傾向にあると思う。臨機応変な行動や考えが得意な女性は少ないのではないか。かと言ってそんな議論を志生とする気にはならない。彼が行くと決めたら行くのだ。

「・・・そうね。」

私はもうそれ以上口にしなかった。今、この腕にある確かな感触だけ考えようと思った。




「一緒になろ。」

唐突に暗闇に放り出された声にウトウトし始めていたのが一気に醒める。

私に腕枕をしたままじっと天井を見つめながら志生はため息をつく。私は今自分の耳に聞こえた言葉が、確かにそう言ったのかにわかに信じられずに、だから返事もできずに、志生の鼓動の音だけを聞いていた。

「な、萌。俺と一緒になろう。」

その言葉と同時に鼓動が急に速まる。志生のも私のも。

「寝た?」

「・・・ううん。」

そう言うと、

「返事したくない?」

と志生が言うので、私のちょっと悪戯な気持ちがこう言った。でもそれはある意味素直な気持ちだったかもしれない。

「・・・聞こえないフリしたかったの。何度も言ってもらえるように。」


私は言いながらゆっくりと身を起こし、あおむけに寝ている志生の顔を見降ろした。暗がりの中でそれでも志生が私を見つめているのはわかる。そして静かに私の頬に手を伸ばす。

「何度も言えないよ。」

「・・・・。」

「嘘も苦手だけど、こういう言葉も苦手なんだ。」

私の頬を涙が流れる。志生の指がその涙を拭いながら髪を撫でてゆく。ああこのまま時間が止まればいいのにと思う。すべてを静止させて過去の事実を遠い彼方が飲み込んでいってくれたら。

「倖せになろう。」

・・・・・“倖せになっていいんだよ”。何度も木霊したマスターの声。

「本当に?・・・・本当に倖せになってもいいの?ずっと志生といてもいいの?」



それは素直に口から出た言葉だった。でもとても頼りない声に聞こえた。危なげな、他人事のような声。多分その感情の方が真実(ほんとう)で、志生もそれは気づいたに違いない。

「俺は萌といたいよ。・・・俺なりにこの何日か考えたけど、やっぱりこれからの人生を君と歩きたい。ちょっと前までは“君がいればいい”だったけど、今は違う。君といたい。」

「・・・・。」

「・・名古屋に行くのは来月からだ。それまでに返事してくれればいい。待てというならそれでもいい。大事なことだ。以前の時とは全く違う。・・・あまり時間がないけど、しっかりと考えてくれ。」

「・・・・。」



 そして志生と別れ、部屋に一人になる。昨日の夜から今日はずっと一緒だったけど、志生はあれから一度も結婚の話には触れなかった。

 返事をしてしまえば楽になるだろうとわかっていた。

 どんなに前向きに人生を歩もうと思っていても、背負ってる十字架はあまりにも重く、精神論だけでは必ずしも思うようにならない、いつかは限界が来ると思っていた。それと比べて具体的にことを進ませることが一つあると人の気持ちはがらりと変わってくる。精神的だけではなく、肉体的、視観的にもその方向へ向くようになるからだ。

 私にとってこれからの人生を共に歩める男性が志生以外にいないのは確実だった。彼は十字架を背負った私をすべてわかっていて、その私自身を背負おうとしてくれている。私という人間を理解しようとし、さらにわかろうと努力してくれている。正直、志生と一緒にはなれないと思った頃、まったく違う人とこれから恋愛することになるのは想像できなかったが、もしそうなったらきっと自分はこの十字架のことは相手に言えないだろうと思っていた。誰が好き好んでこんな重すぎる話を聞いてくれるだろう?まして受け入れてくれるなど、それこそおこがましいことこの上ない。そして何より。・・・志生を倖せにしたい。私をここまで救ってくれた彼に、倖せという、本当はその辺に咲いている小さな花のようなものを味あわせたい。してあげたいという高飛車な気持ちじゃなくて、「したい」。私がしたい。そんな祈りにも似た気持ちがあった。もう、謝ることすら叶わなくなったあの人への鎮魂歌を抱きながらでも、志生に私のありったけの愛情を注ぎ続けたい。愛であり、感謝であり、菩薩でありたい。


 一人であたたかい紅茶をゆっくりと口に入れながら、私はいつの間にか泣いていた。泣いてることに気がつかなかったくらい自然な涙だった。窓辺にはサボコがじっと私を見守っていてくれた。あんなに泣きながらあの人と別れた日にうちに来たサボコ。あの頃の私は、今思えばずいぶん幼かったように見える。あの頃なりに苦しんだり悩んでいたのに。




 ラッキーなことに次の週は日曜日に休みが入っていた。志生が名古屋に行くまで、週末はあと2回しかなかった。多分志生は私が返事を遅らせても待っててくれるだろうとわかっていたけれど、その一方できっと返事をもらってから出発したいのだともわかっていた。そして志生の願いならば叶えさせてあげたいと思った。

 そう、私の返事は決まっていた。ただじかに伝えたいだけだった。

「今度の日曜日は休みです。ご都合いかがですか?」

志生にメールをした火曜日の夜。彼からも「土曜日の夜から逢うか日曜日の朝からにするか萌が決めていいよ」と返事が届いた。





 その次の日の朝、その偶然は起きた。あの偶然をもしかしたら運命と呼ぶのかもしれない。

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