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まぼろしの跡  作者: 樹歩
134/141

第134章―初めての情事―


 志生から単身赴任(結婚しているわけじゃないので、この言い方でいいのか疑わしいが)の話を聞いた時、私は心底驚いた。

 マスターの葬儀から1ヶ月と1週間が過ぎていた。久しぶりに会った花金の夜の居酒屋。外は霧雨のような小雨が降り始めていた。


 久しぶりの再会を喜び乾杯をして、最初にオーダーした料理に手をつけた時、まるで今日の出来事を話すように志生は単身赴任が決まったと話し始めたのだ。

「・・・本当なの?」

面喰った鳩のごとく、現実感のない声で私は言った。

「本当。上司が俺を会社に推薦してくれたんだ。経験を買われて。」

「どこ行くの?」

「名古屋。」

「どれくらい?いつ帰ってくるの?」

私はどうしたらいいの?・・その言葉がのど元までこみあげきて、でも飲みこむ。

「萌、名古屋だよ。近い方だし、新幹線一本だよ。」

「でも行きっぱなしになるんでしょ?」

「うん、三ヶ月はかかるかな。もしかしたら半年とか。」

「半年・・・。」

「いや、まだそれはわからない。ゴメン、とりあえず三ヶ月と思ってくれればいい。」

「・・・・・。」

あっけなく言う志生に私は微妙に腹を立てそうになっていたが、どこかでそれを必死で抑えようとしていた。事を荒立てるほどの自信がない。今になって思う。自分の思った気持を迷いなく吐き出せる間柄とは、なんて怖いもの知らずで幸福なことか。

 意気消沈し、次に出す言葉も選べずにいる私に志生が言った。

「萌。ちょくちょく帰ってくるよ。それに、遊びに来いよ。」

行く?私が名古屋に?

「・・・行ってもいいの?」

「もちろん、他の誰れを呼ぶんだよ。」

「本当に私行ってもいいの?」

「よかったらおいで。」

志生が静かに、でもはっきりそう言った。そういう話し方をする時は、遠まわしに私に「落ち着いて」と言ってることが多い。

「・・・・・。」

それでもう私はこれ以上今は何も言わない方がいいかな、と思って、それ以上はそのことに触れなかった。ちょっとだけバツの悪い空気が流れたけど、志生が出された料理の事から全く別の話にしてくれたので、暗黙の了解でその話に乗った。 お互いが3杯ずつもグラスを空けた頃、

「今日泊まるから。」

と志生が言った。酔いに任せた言い方だった。

「泊まる?」

「今日は一緒にいる。まだ話もある。」

酔いに任せながらも、その言い方には強い意志があった。私の顔をわざと見ないで言ったのには、私の反応を見るのが怖いのか、それとも私の反応などどうでもいいのか、とにかく有無を許さない言い方だった。正直私はちょっと戸惑ったけど、それよりも「話がある」に興味をそそられたのでそのまま返事をしないで放っておいた。黙っていることで承知したことをわかってほしかった。


 居酒屋を出るとまだ霧雨だったが雨が降り続いていた。濡れた道路が、煤けた街灯のぼんやりした光を映していた。

 志生が歩きだし、私はただ後ろをついていった。しばらくすると彼の方から私の歩調に並んで私の肩に手を回した。

“え?”

私はちょっと驚いてちらっと彼を見たけれど、彼はそのまま無表情に前を向いていた。ぴったりくっついて歩くのはちょっと歩きずらかったけどそれも言わなかった。

 駅の前にタクシーを見た時、急に私は今夜志生と寝ることになるだろう事を思った。そして志生の話というのは、きっとその場で語られることなのだと。私たちはそのままタクシーに乗り込み、志生は私のアパートの名前を運転手に伝えた。タクシーは静かに濡れた道の上を走りだした。

 私の部屋に着いた途端、志生は私の服を脱がせ始めた。

「ねえ、何なの?どうしたの?」

「一緒にシャワー浴びよう。」

「ええ?狭いよ、だって」

「二人でも大丈夫だよ。」

そうして志生はどんどん自分も裸になり、恥ずかしくてもじもじしている私を引っぱり浴室に入った。蛇口をひねり、熱めのシャワーを流すと周りが一気に湯気で真っ白になった。湯気の中に志生の優しい顔がぼんやり浮かんだ。そしてその顔が私に近づく。私は目を閉じる。

 そうして気がつくと私と志生は、甘い果実を小さく味わいながら、なだらかな丘の上をゆっくりとはっきりと堕ちていってた。遠くで汽笛が聞こえる。白い雲が流れる。私の腕はシルクの羽となって愛しい人の背中を撫でる。すぐ耳元であなたの息遣いを感じる。志生のすべてが私を包む波と波間になる。




 愛してる。




 言葉という音を交わさなくても重なり合った体温はそれを伝える。とてもストレートに。頭にも心にも大きな稲妻のようにそれは降り注ぐ。セックスでしか表せない感情が確実にある。正直、女は言葉が好きで、どんなに深い情事の中でも愛しい口元から囁かれるわずかな単語をしっかりと覚えている。身体と心の両方に快楽と共にそれを刻み込もうとする。

 でも今はむしろ言葉が邪魔に思えた。その無言の息遣いだけに込められた感情は、それを越えて私の身体の奥深くを貫き、大きなうねりとなって私の全身を打っていた。その中で志生がたった一つ紡いだ単語。ただ一つ、ただ一度だけ言葉にしたこと。






「離さない。」




それはある意味初めての情事だった。すべて失ってから、初めての。

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