第132章―「いい人だった」と誰もが言った―
マスターの身体が燃えている証の煙が、火葬場の煙突からまっすぐに空へ上がってゆく。風がないと言えばそれまでだけど、それはあまりにまっすぐに伸びていってた。光が射すように。
「よほど迷いがないんだな。」
ぽつりと志生が言って、私も黙って頷いた。
私が思っていたより多くの人がマスターを見送りに来ていた。会話の内容を聞いてると、なんとなくマスターとの繋がりがわかる。親戚、身内、そして客や店の関係で付き合いのある人たち。私がわかったのは、マスターの死を悲しんでいるのが明らかに店の関連の人が圧倒的だったということ。
「いい人だったのに。」
と、誰もが言った。そして「淋しくなるね。」と。マスターの娘さんは彼を見送りに来ていた人たち一人一人に、丁寧に頭を下げて廻っていた。私は誰かの葬儀に出る度に思うのだけど、本当は誰よりも悲しいはずの、故人に一番身近な人はいつも、すべての儀式を終えるまで忙しくて文字通り泣く暇もない。
・・・今、あの優しい人は、荼毘に付されている。きっと、もう自分の魂を包んでいた肉体はただの入れ物に過ぎず、消耗品の塊がただ焼かれているだけなのだろう。本来の彼は今頃、長年待っていた愛しい妻と永遠の抱擁に堕ちているに違いない。私はぼんやりと窓から見える煙の行き先を眺めていた。志生も近くにはいたけれど、あまり話をしたくないようだった。きっと志生には志生の、マスターへの思いが去来しているのだ。そして、火葬場、というより葬儀一切が富田さんの事を志生に思い出させないはずはない。
「暁星さん。」
振り向くとマスターの娘さんだった。
「こんなところまで見送りに来ていただいて・・。父がどれだけ喜んでいるか。本当にありがとうございました。」
「いえ、こちらこそ・・。残念です。」
「いいえ。父はやっと母に会えるのですから、残念じゃありません。」
「・・・・。」
娘さんは毅然とした顔でそう言った。それは自分に言い聞かせているように。
「暁星さんのこと、私は父から詳しく訊いてないけれど、よほど父のお気に入りのお客様だったんだと思います。だって、病院まで来てもいいって方は本当にごくわずかで。弱っている自分を見せたがらない人だったんで・・。お客様の中にはお見舞いに行くって何度も言って下さっているのに、父の許可が出なくてとうとうお断り続けた方もいらっしゃったんです。」
「そうなんですか?・・・私、てっきり・・。」
「女性のお客ではあなたとあと一人しかいないんですよ。母の友人のかた。」
「なんだか申し訳ないみたい・・・。」
「そんなことないですよ。父が会いたがっていたんですから。本当にありがとうございました。」
「・・・こちらこそ、本当にありがとうございました。」
私の方が感謝したいくらいだったので、彼女より先に頭を下げた。彼女も頭を下げ、近くにいた志生にも礼をして、またほかの客人の方へ歩いていった。彼女の後姿を見ていると、切ないとしか言いようがなかった。これから一人であの店をやってゆくのだろう、それは決して楽で容易な道ではないはずだ。それでもきっと、彼女は父親から、いや、しいては母親から引き継いだあの店を、大事に守ってゆくに違いない。
守るものがある。守りたいものがある。それは本当に幸せなことだと。本当は稀有なことだと。マスターの言いたかったことはそういうことなんじゃないかと、彼女を背中を見送りながらふと思った。
私の守りたいもの。守るべきもの。本当に失いたくないもの。それは・・・。
その日、志生は私をまっすぐ家まで送った。私たちは最小限の会話しかしなかった。マスターの思い出話さえ出なかった。アパートの前に車を止めた時、
「今日は帰るよ。萌も疲れただろし・・・、ちょっと一人になりたい。考えたいことがある。」
と志生は言った。それを聞いた私は小さな不安に襲われた。
「もう、ないよね?」
「?・・何?」
「もう、あんなふうに急にいなくなったりしないよね?」
一瞬私の言ってることを志生が理解するのに間があった。そして笑った。
「ゴメン、ゴメン。そうだよな、萌にしてみれば心配するよな。」
「・・・もう、嫌だよ。あんなことはもうやだ。」
「うん、もうないよ。絶対ない。どこへも行かない。」
「・・・。」
「今日は俺なりに一人で彼の事を偲びたいだけだよ。」
「うん。」
「これ以上勝手気ままなことをしたら誰からも相手にされなくなるし、それに、ちゃんと仕事も始められたし。」
「うん。」
「・・・近いうちに連絡するよ。」
「・・・うん。」
そう言うと志生は私の髪をちょっとだけ撫でて手を離した。私も車を降りた。
志生の車が遠ざかってゆく。志生は何か私に伝えたいことがあるのに迷っているように見えた。そして私もその言葉を期待していながら聞くのが怖いと思った。
・・・守りたいもの。本当に守るべきものは何だろう。
「倖せになっていいんだよ。」・・・マスターの声がする。
「・・いい人だったのに。」
ふいに出た言葉。そしてそれは彼を知っている人、誰もが言った。