第131章―死にゆく人の音色その3―
想像していた通りだったが果たしてマスターは顔色も悪く、ずいぶん痩せ細ってしまっていた。ついちらっとベッドわきにぶら下がっている尿の入っているバッグを見てしまう。色が濃く、少量しか入っていない。腎臓の機能が落ちているのは明らかだ。「ずいぶん進んでしまっている・・・。」私が最初に思ったのはそれだった。
マスターは酸素マスクを外したがった。娘さんがナースコールをし、来た看護婦が「じゃあ、少しだけ。」と、口元のマスクを外していった。そして私と志生を見上げ、弱々しながらも笑みを浮かべ、
「また・・来てくれたんだね・・。」
もう一度言ってくれた。
「お加減はいかがですか?」
「・・ふふ・・、君は看護婦さんだ・・、この状態がどういうことか、わかってるだろう・・?」
マスターは冗談を言うようにそう呟いて、娘さんに「少し・・はずしてくれ」と言った。娘さんはうなずき、私たちに小さく会釈をしてベッドから離れた。
ICUの中は思っていたより(少なくとも私の勤めている病院より)広く、一人一人のベッドの間隔が大きく仕切られていて、各個人のプライバシーが充分保てるスペースを確保していた。こういうところもホスピスならではなのかもしれない。ここでは、死は、おそらく私の知っている病院や他の医療機関よりも身近で日常のものなのだ。
娘さんが行ってしまうと、マスターがぽつりと話し始めた。
「もう・・、あと少しで女房に会えるんだ。」
「そんなこと・・。」
「・・いや、俺は待ってたんだ・・・。女房に会える日を・・、どれだけ夢見たことか・・。」
「・・・。」
「ちゃんとわかる・・。自分の身体だ・・。俺はもうすぐ向こうへ逝く・・。娘には言いにくいけどね・・・。」
「・・・。」
涙が溢れ出てくるのを抑えられない。嗚咽を漏らすのだけは避けたいのに。泣き声が聞こえたらほかの患者さんにも動揺や不安を与えてしまう。
「・・君は・・、君たちは・・、あれから・・正直な心で生きているか・・?」
あれからというのは、この前マスターに会った時のことだと思った。
「正直な心・・・。」
「そうだよ・・。自分にとって・・、本当に必要なもの・・、失えないものは何なのか・・。よく考えたかな・・?失ってからわかっても・・もう・・取り戻せないことの方が多い・・・。」
「・・正直に生きることにも勇気が要て、俺たちは今その壁をよじ登っているところです。」
私の代わりにそう返事をした志生をマスターが見つめた。
「そうか・・。でもそんなものは・・本当は小さいことなんだ・・・。素直になればいいんだ・・。男の君が・・それを早く越えなきゃだな・・・。」
「・・はい。」
「・・君たちを見てると・・・痛い・・。・・俺が一人で苦しんでたことを・・二人で苦しんでるようで・・・。もう・・許してあげなさい・・自分を・・。」
「マスター・・・。」
「どうか・・倖せになっておくれ・・・。あのサンドイッチは・・、倖せな気持ちで食べたら・・本来もっと美味いんだ・・。俺はもう作ってやれないが・・、娘でもきっと同じ味のはずだから・・・。」
それを聞いて私は思わず何度も何度も首を縦に振った。涙で声が出せない。
「きっと食べます。いつかきっと倖せな気持ちで。二人で食べます。約束します。」
志生が半分涙声になりながら返事をすると、マスターはにっこりとうなずいた。
きっとこれがマスターに会う最後になるだろう。私も志生も、そして何よりマスターがそう思っていたに違いない。面会を終えて別れる時、マスターは私に手を伸ばし、私もその手を握った。何か言いたげだったので口元に耳を傾けるとマスターは小さな声で言った。
「どんな人でも倖せになっていいんだよ。」
私にはその声があの人の声に聞こえた。あの人がマスターの声を借りてそう言ってるように聞こえた。もちろんそれは錯覚で、言葉はマスターが語った、マスターの想いに違いない。でも私にとってはそれはマスターの言葉であり、またあの人の言葉にしたかったのかもしれない。
だんだん白い建物が遠ざかる。志生は黙って運転をし、私も黙って今の自分の心に想いをはせる。
「倖せになっていいんだよ。」
その言葉が何度も胸の中を去来する。それは、長く人生という道程を歩んできた人だからこそ発せられる、聞いたもの誰もが素直に信じられる言葉。理由とか理屈とか納得とかではなくて、ただ砂に水が浸みいるように心に沁みてゆく概念。
ICUを出たところで私たちに頭を下げた娘さんは、
「私にはわかりませんが、きっと父はあなた方に何か遠い幻影を見ているのでしょうね。」
と言った。
「・・・どうでしょう。」
そう返事したけれど、きっとそうなのだ、と私も思う。何か、マスターにとって忘れられないものを、私と志生に見てるのだろう。
私と娘さんはお互いの携帯番号を交換して別れた。
「そんなに遠くない未来に、きっと父は母のもとへ戻ります。その時は・・見送りに来て下さい。」
震える声でそう言うと、また頭を下げた。きっとこんな時、何をどう言っても何も慰めにはならない。愛する人を失うという事実の方が余程大きくて、どんなに相手を思ったことを伝えても、それは空中を漂う塵の重さもない薄さだと思う。
そしてそれは2日後の朝にやってきた。あの優しいマスターは、星が消えゆく明け方に息を引き取ったと。