第130章―死にゆく人の音色その2―
小高い丘が見え、高台も見え、やがて白い建物が姿をあらわした時、またもや私は怖じ気づき始めた。怖い。ただ怖い。何か怖いのか分からない。分からないからなおさら怖い・・・。その負の連鎖が頭の中をぐるぐると回った。見たことのない光景が広がる―――それは大きな白い壁、階段の踊り場で、今薬を口に入れようとしているあの人だ。「今から自分が逝くところは、この地球上で生きている人、自分も含めて誰一人も知らない未知の所。」
手には白い錠剤を大事そうに乗せて、目は空ろに何も見えていない・・・無表情という言葉さえ不釣り合いなその表情は、むしろ恍惚と言った方が近いように思えた。
「萌。萌、着いたぞ。」
ハッ。志生の声に我に返る。・・・何?今のは?私は今何を見ていた?
「萌。真っ青だぞ。大丈夫か?」
「・・・・。」
私は荒くなっている呼吸を整えようと必死で空気を吸った。冷汗が背中にじっとりと感じる。
「・・・どうしても無理か?」
志生が心配そうに私の目を覗きこむ。目が合うと途端に泣き出しそうになった。
「・・・大丈夫。ここでマスターに会わないときっと後悔するよね。」
そう言うと志生は深く頷いた。
多分いないとわかっていたけれど、一応先日来た時の病棟に行ってみた。
「○○○さんは今ICU(集中治療室)にいらっしゃいます。」対応した看護婦は少し深刻そうな表情でそう言った。
「・・失礼ですが、御身内のかたですか?」
「いえ、違います。・・知人です。」
「そうですか・・・。ICUは御家族以外の面会は出来かねるんですが。」
そりゃそうだ、と胸の中で思った。普通ICUには身内、それもごく近い家族しか入れないのはだいたいどこの医療機関でも常識だった。
「はあ・・そうですよね・・。あの、病状は・・」
そのやり取りの最中に娘さんが姿を見せた。
「あ、○○○さん、こちらのかたが御面会に・・」
「ええ、私の知り合い。そうよね、私がいないと無理よね、ICUだもん。でも、父とはもっと仲のいい方なの。」
「そうでしたか。」
「面会は厳しいかしら?」
「うーん、普通は・・。ここでは何とも。ICUで看護婦から先生に訊いてもらってみたらどうでしょう?」
「そうね、そうします。すみませんでした。・・・じゃあ、行きましょう。」
娘さんはそう言って歩き出した。私たちも看護婦に一礼をして後ろをついていった。
「・・ちょっと待っててくださいね。」
娘さんはそう言って私たちを残してICUの中に入っていった。
ICUの待合室には何人か人影があった。やはりホスピスなだけに、「そろそろ時間の問題」と告げられた家族や知人などが日常的にいるのだろう。どの人も顔色がさえず、時折小さい囁き声が響く以外は皆ぼんやりと空の一点を見つめている。どんなに美しい言葉で飾ろうとしても、ここは遠からず必ず訪れる死を待つ場所・・・見慣れているはずの私でも、その重い空気と独特の匂いは胸を重苦しくさせた。
彼女がいない間、私と志生は待合室の大きな窓から下に見える景色を眺めていた。沢山の花壇が並べられ、真冬だというのにいろんな色の花が咲いている。部屋の中から見ると冬であることを忘れそうなくらいの穏やかな陽の光が、そこに燦々と注がれていた。・・・あの小さな花の一つ一つが沢山の人の心のなぐさめになっているのだ。きっと患者さんだけじゃなくてこうしてここにいる人にも。・・私は?あの花に比べ自分は患者さんやその周りの人たちにとってどんな存在なんだろう?私は患者さん一人一人をしっかり看ていたつもりでいたけれど、いつのまにか病気だけ見ていなかっただろうか?
「疾患じゃない。人間を診るんだよ。僕たちの商売はその患者にとっていい人生は何なのかを考える仕事なんだよ。」・・・あの人の言葉が蘇る。私は今まで・・・本当に今まで何を・・・。そう思っているところへ後ろから声がかかった。
「お待たせしました。許可が出ましたのでどうぞ。父、喜んでます。」
ICUに入ると、途端に沢山の機械の音が降ってきた。人工呼吸器、心電図や心音図などのモニター、自動血圧計やらの装置、点滴とシリンジポンプ(ごく少量ずつ体内に入れる薬を管理する装置)のアラーム音・・・あちらこちらであらゆる音が木霊している。まるで何か不格好な曲を演奏しているかのように。そしてマスターのベッドに行くと、彼の周りにもたくさんの機械が置かれ、身体には沢山のチューブが入っていて、もちろんのように酸素マスクをつけられていた。
「やあ・・また来てくれたんだね・・。」
マスターは私たちを見ると小さい声でそう言ってくれた。でも私にはその光景が、まるであの人のところにお見舞いに来たような錯覚を起こしそうだった。マスターだとわかっているのに、あの人の面影がだぶって見えた。