第129章―死にゆく人の音色その1―
なんとなく私たちは無口なまま、それでも車に乗った。志生の車は私の車にぴったりと寄り添うように縦列駐車をしていて、文字通りほんの少しだけ私の駐車スペースからはみ出すだけになっていた。
「昨夜車で来たんだな・・・そりゃそうか。」と、妙に納得をして思う。逢った時はどうやって来たのかなんて考えるゆとりはなかった。
「俺の車でいい?」
と志生が言うので、小さく首を縦に振る。冷え切ったエンジンが鈍い音を立て、ゆっくりと発進する。
「腹減ったよ。」
また彼が誰にともなく口を開く。私に気を遣っているのはわかっている。
「そうね。」
私も誰に返事するでもなくそう言った。子供じゃないのだから、感情にもこだわる所と流せる所と割り切れる方が結局自分を守ることにつながるのだと、大人のずる賢い知恵がいつの間にか身についた。いつかこの行き場のない感情の苛立ちを微笑ましく思える日が、志生と私に来るとはとても思えなかった。いや、それを望んでいるわけではなかった。ただ、この苛立ちに慣れる勇気が欲しかった。慣れてゆく惰性が欲しかった。それが唯一私たちを救う気がした。
それでも二人でいるのはあたたかい。私は思う。一人が淋しいのは、二人でいることを知ってしまったからだと。分かち合いたい人が自分以外にいるのにそれが叶わない。それを嘆くことを孤独というのだと。そう、あの日、マスターの病室で聞いた言葉だ。素直に生きろと言ってくれたマスター。
お互い何も話さないままあの喫茶店が近づいてきた。私たちは多分互いに期待をしていた。あの喫茶店で話すことで、今二人を囲む空気が少しでも和むことを。あの店のサンドイッチにはそれくらいの魔力があるのだ。少なくとも志生にとっては。たとえマスターの作ったものでなくても。
駐車場が見えてくると果たして車が一台も止まっていない。嫌な予感がした。
「・・休業日か?」
志生が言いながらそれでもハンドルを切って車を駐車場に止めた。私たちは行き止まりにあったみたいに途方にくれながらドアを開けて外に出た。ふたりで店の前まで歩く。店は静まっていて、明らかに営業してないのがわかる。と、そこへ後ろから一台の車が止まった。振り向くとマスターの娘さんが降りてくるところだった。そして私たちと目が合うと心底驚いた顔をした。
「こんにちは。あの、今からですか?」
「いえ、あの、お店は昨日から休んでるんです。」
それを聞いた途端、その言葉の意味することがわかった。
「マスター、具合悪いんですか?」
私の問いかけに娘さんの表情が迷い、曇る。一瞬の間があく。
「・・・よほどあなたと父は縁があるのかしら。不思議ですね、出会ってろくに間もないのに。」
「あの・・・。」
「つい、一昨日かな、父と言ってたんです。あなた方の事。どうしてるのかなって。でも昨日の夜、危篤状態になりました。」
「!!」
「今、集中治療室にいます。でも、そんなに長くは持たないと思います・・・。」
「そんな・・・。」
それは職業上あたり前にわかる、ごく普通に辿る病状の流れだった。でも私は揺らいだ。頭でわかっていても、理屈でわかっていても受け入れられないものがある。
「・・・・。」
「私はちょっと要るものがあって店に来ただけなので・・。ごめんなさい、せっかく来ていただいたのに。」
「あの、会えますか?マスターには。」
ずっと黙っていた志生が訊いた。娘さんはちょっと考えていたが、
「一応、集中治療室なので中に入れるのは身内だけです。本人の意識があったりなかったりになってますし。ただ・・、」
もっともだ。普通集中治療室にはごく近い身内しか入室を許可しない。
「私もすぐまた病院に戻るので、よかったら行ってみますか?会えるかどうかはわからないし、仮に会えたとしても話せるかも約束できませんけど・・・。」
「はい、行きます。」
私は職業柄、そんなのは無理だと思って返事をしなかったけど志生が躊躇いなくそう言ったので何も言えなかった。
「では向こうで。」
彼女はそう言うと店の中に入っていった。
「行こう。」
志生が私の手を引いて歩きだした。どうして志生が私の手を引っぱったのか分からない。でもその手は私の心にある大きな冷たい壁を同時に押した。その音が聞こえた。実際それまで、私は自分の足が地面にくっついてしまったんじゃないかと思うくらいに身動きが出来ない心地がしていた。マスターの、というより、自分にとって大切だと思う人の死が、遠いさざ波がやがて水辺の砂に近づくように忍び寄ることが私を凍らせていた。また私は愛すべき人を失うのか。そうして自分では気づかないうちにしていた激しい動揺を、私の手を引いた志生の手が止めた。
そしてまた車は走りだした。二人無言、いや、無音のまま。マスターが人生の幕を引く場所に選んだ山の高台のホスピスに向かって。
私はまた自分に問う。何度も問いかける。・・・耐えられるの?死にゆく人を見ることに。遠い世界に旅立とうとしている人を、静かに見ることに。この焦燥感を微塵にも出さないと?萌?本当に?本当に?
「ねえ、志生、私やっぱり・・・」
震え始めた膝を志生に気づかれないように必死で押さえながら私はつぶやく。何を言おうとしているかわからなかった。ただ怖い。怖い。
「逃げるのはやめよう。ここで逃げたら、もうこの先ずっと逃げ続けるしかなくなる。」
・・・!志生はそれだけ言うと膝を抑える私の手を左手で押さえて、右手だけでハンドルを持った。その視線はまっすぐに前だけを向いていた。