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まぼろしの跡  作者: 樹歩
128/141

第128章―美しい星―

 私はなだらかな波間に漂い、時折り訪れる緩やかな大波にのまれ、温かな甘い水しぶきを浴びていた。そしていつか、予め決められていた約束のようにやってきた深い深い眠りという森に堕ちていった。 私達はお互いに一言も言葉らしい言葉を交わすことなく、ひたすら甘美な果実を貪りながら戯れた。やがてその果実も轟音響く滝つぼに落下していったんだと思う。私は自分が眠ったことにも気づかなかったけれど、志生のことも気づかなかった。次に目が覚めた時、独り寝では絶対に感じ得られない安堵という温もりがそこにあった。

 志生はまったく無の寝息で眠っていた。その寝顔は私の胸を強く締め付けた。彼と初めて出会った夜、「こんなに綺麗な寝顔は見たことない」と思ったあの顔がここにある。手どころか、すぐ指先が触れるほどくらいの距離に・・・。

 ほんの少しだけ開いたカーテンの隙間から見える空は、星達がだんだんとその役目を終えて帰ってゆくところで、暗い夜空がゆっくりと薄紫になろうと一枚ずつ衣を脱いでいく様だった。 あの美しい星と比べたら人の一生はなんて儚いのだろう。そしてなんて尊いのだろう。あと100年も経てば、私も志生もこの世界の何処にも存在しない。塵にもならず、あの人のいる世界と同じ所へ逝く。

 私はまた志生の顔を見た。静かな寝顔。その顔はあの瞬く星のようにやはり綺麗だった。志生も今、私と同じように安堵の温もりという海にいるのだろうか。そんなことを思っていたらふいに志生が寝返りをうって私を引き寄せた。起きていたのかと思ったけどそんなことはなく、それは無意識な行為だった。そして私たちの肌は自然にまかせたままピッタリと触れ合った。密着したところがますます二人の体温を一つに溶かして、それはまた私の瞼を泥の海に沈めさせていった。私は流れにまかせてまた眠りの森にさまよい始めた。でも今度は長く続かなかった。志生が目を覚ました。その気配で私も目を覚ました。

「萌・・・」

「・・・・。」

 私たちはまだ半分深い森をさまよっているようにお互いぼんやりとした目で見つめ合った。志生が声に出さずに小さく唇を動かした(ようにみえた)。私が見たのがそうならばその唇は「ごめん」と言った。その「ごめん」という唇の動きを見たあと、私は一層切ない気持ちになった。安堵の温もりの海にいるのは私だけかもしれない。志生は後悔の崖に立っているかもしれない・・・。だからといってなんと言えばいいのだろう?私でさえ自分の心を持て余しているのに?・・・それでも二人でいるとこんなにも温かい・・・。


 


 カーテン越しにも日が登ったのがわかるくらいの時刻になると、私達はどちらからともなくベッドから出て、もそもそとその辺に散らばった互いの服を身につけ始めた。志生は頭の後ろの方にできた寝癖が気になるようでしきりに手をやっていたけど、ふいに手を止めてこちらを見た。

「ごめん、本当に。」

「何が?」

私はブラジャーをつけ、肌着を着ようとしながら返事をした。

「・・・こうなってしまって。」

「・・・・。」

志生の言い方がなんとなく気に入らなかった。

「後悔してるの?」

その言葉は自分でもちょっと驚くほど乾いた声だった。

「してないよ!」

彼の語気が強張った。

「後悔なんかしてない。萌を抱きたかったんだ。ずっと・・・こっちに帰った時から・・・。」

「・・・・。」

「・・・萌は俺を受け入れてくれた。嬉しかったよ。俺が謝ってるのは、萌の気持ちを確かめる前に行動に出たことだよ。」

「それだけ?」

肌着をつけ、セーターを手に取りながらも、私は志生の顔をじっと見つめて言った。その返事に志生の顔が一瞬引き攣った。

「本当にそれだけなら志生は謝らずにまずありがとうって言ってくれると思う。」

「それは・・・。」

「だってあなたをあんな時間に部屋に入れた時点で私があなたを拒んでいないってわからなかった?わかったでしょう?・・・だってちゃんと身体もそういう反応してたでしょう?」

志生は私の言葉をただ黙って聞いていた。下を向いて。それがますます私を苛立たせた。

「・・・何とか言って。」

「・・・うん。」

でも志生の言葉はそれ以上続かなかった。私はため息をついてセーターを着込み、キッチンで手を洗ってお茶を入れる準備をした。

「萌、ごめん。」

後ろから声がした。

「萌の言う通りだ。」

「・・・・。」

私は小鍋に沸かした湯の様と湯気をただ見降ろしていた。後ろを見る気にならなかった。

「萌と寝たかった。後悔はしてない。乾いたのが満たされた。でもやっぱり後ろめたい気持ちがある・・・。」

「・・・・・当り前よ。」

私は下を向きながら言った。

「当り前よ、そんなこと。私だって同じだもの。そうじゃなきゃおかしいわよ。」

言いながら涙が出てきた。

「でも、淋しかったの。ずっと一人で淋しかったの。友達でも家族でも埋められない淋しさだった。私は・・・」

志生が後ろから私を抱きしめた。私は胸に(つか)えていたものを吐き出すように泣き出した。大粒の涙がボロボロと落ちていった。

「ごめん、ごめん萌。本当にごめん。」

志生は何度も何度もそう言っていた。それは多分、私だけに向けられた言葉ではなかった。嗚咽しながらもそれだけはわかった。それは天国にいって美しい星になった彼女にも向けられた言葉だったに違いない。

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