第127章―泥の海(愛情と性欲は志生の場合は比例する)―
・・・本当はこんな風に抱くつもりはなかった。こんな風に求める気はなかった。俺にとって萌の存在は身体のつながりなどなくても絶対的なものだと思っていた。今でもそれはそう思う。だけどどうしても彼女の肌の匂いを嗅ぎたかった。柔らかい白いババロアの感覚をこの手にしたかった。
一人で旅に出てあちこちをふらふらと彷徨っていた時、ずっと考えてた疑問。
「どうして俺は知紗子には性欲が湧かなかったのか?」
男として生まれたからには男の生理からは逃れられない。その欲求は時に俺の自意識も自我も・・正義感さえ超えてしまう。とにかく溺れたいと思う。もちろんそれを大人の(大人じゃなくても多分そうだろうな)俺はちゃんと抑制するし、実際そうしてきた。理性が支配できるように頭を冷めさせようとして。時にはそれが本当に辛いこともあったけど、一時的な動物的感情で誰かのぬくもりを得ても、きっとその後とてつもない苦みを味わうことは目に見えていた。
それに俺が憧れ求めたぬくもりは萌だけだった。彼女以外は受け入れられない。いや、彼女以外の人でも、生身のあたたかい肉の塊という点は受け入れられただろう。女という生肉。でもそれは本当に俺の求めているものではなかった。
知紗子と一緒になって、それはそれで本当に俺の人生で最も素晴らしい時間を過ごせたと思う。彼女は最後まで精一杯俺を愛してくれていたし、俺も彼女に俺という人間のすべてをささげていた。一緒に死んでくれと言われれば死んだと思う。俺はあの世に二人で行けば永遠に一緒になれるなんてまやかしは信じないけれど、知紗子がそれを望むなら喜んで添い遂げようと思った。それくらい知紗子を愛おしかった。だけど。知紗子の病室から帰って一人になってふと自分に返った時、俺は萌の身体を思い出すことがあった。それは俺にとって性欲だった。ちゃんと反応するところもそう主張していた。でもそれは俺にとって納得できないものだった。知紗子を愛していて、彼女と逢っている時は萌の存在など俺の中には全くない。いや、性欲を覚える時以外は全くないと言うべきか。本当にこれは萌にはとても言いにくいし言う気もないし、つまり言えないことなんだけど、その時以外は萌の存在自体が俺の中になかった。あんなに愛していたのに、自分の心に疑心暗鬼になってしまうくらい。だけど俺はむしろその方がいいと思った。誰かを想いながら千沙子の残りわずかな人生を共に背負うなんて、それこそおこがましいことだと思ったから。
だけど男の生理と共に気がつくと萌を思い出す。あたたかな柔らかな優しいぬくもりを。俺にとって萌はそれだけの対象なのか?身体しか彼女を思い出すことがないのか?その程度の愛情だったのか?・・・否。絶対そんなことはない・・・。
最初それに気づいた時は俺なりに混乱したし、萌にすごく申し訳ない気分になった。こんな事態になっただけでも普通なら慰謝料ものなのに、それどころか彼女を唯一思い出す時が生理的欲求を覚えた時だけなんて。
だけどその一方で俺は俺なりの価値論があった。女・・、女性の生理はわからないし、男の生理は一応自分のことだからわかっているけど、俺個人的の生理的欲求の基盤として、どんなにそういう気分が高まっていても、いや、そういう気分が高まっているなら尚更、好きな女を思い描く人間だと自負している。惚れた女が一番「女」として愛おしく思う。すぐそこにいなくても、たとえ手が届かなくても。こういう話を誰かとしたことがないからわからないけれど、少なくとも俺にとっては性欲と愛情のバロメーターが比例していることは間違いないと思う。ずっと昔からそうだった。・・・そういう意味では萌は俺にとって特別な、愛情の対象の女ということになる。そして知紗子はそういう対象ではないことになってしまう。
萌を断ちきれないならそれで仕方ない。何かのきっかけでふたりの人を愛してしまうこともあると思う。だけどそうだとしても今の俺の愛し方はおかしい。相手への想い方、求めるものがあまりに違いすぎる。何故なんだろう?どうしてなんだろう?
でもそれに答えが見いだせないまま時間が流れた。そして知紗子は死んでしまって土に還った。俺はいたたまれず、誰にも、萌にも会いたくなくて逃げ出すように街を出た。
色んな気持ちに整理をつけて帰ってきた。その頃は萌に対しても身体のつながりは要らないと思った。それよりも大事なことを二人で持ち寄りながら生きていこうと思った。ただ生きていこうと。
だけど萌と逢う度にどんどん自分の中に積んでた壁が崩れた。知紗子を偲ぶ一方で、萌の笑顔に焦がれた。一緒に時を過ごす時、グラスを持つ手、小さい歩幅の脚の運び、優しく語られる口元・・。見る度に自分の中でその存在感が大きくなっていった。
今夜彼女に電話した時も「今すぐ逢おう」という言葉を飲み込むのに苦労した。萌はおそらく俺を求めている。声を聞いてるとそれがわかる。でも俺に抱かれたいとは思っていないんじゃないか。むしろ知紗子を大事に思っている俺を信じているんじゃないか。そう思うと悪戯に夜逢うのはしんどいと思った。酔えば自分を抑えるのがもっとつらくなる。どんなにうまく隠そうとしても本性が出てしまうのを止められないんじゃないかと。
眠れなくて、すごい孤独感が襲ってきた。眠ったらそのまま凍りついてしまうんじゃないかと思うくらい遠い孤独で、どうしても萌のそばにいたかった。この空虚を埋めてほしかった。もしかしたら酷い奴だと責められるかもしれない。それ以前に拒まれたら立ち直れないかもしれない。だけどこのまま来ない夜明けを待つことができなかった。ふらふらと家を出て、近くを通ったタクシーを捕まえた。
そして今。彼女は俺の腕の中にいる。あの恋い焦がれていた唇と肌の香り。何も言わずにただ受け止めてくれている。それでなお一層愛しさが募る。でも俺は思っている。すべてが通り過ぎた後、彼女にどう説明しよう?どう言い訳しよう?君だけを愛していないと。でも君も愛していると。抱きたい女はずっと君だけだったと。でも性欲を覚える以外は君を忘れていたこともあったんだと。
でもその大波が来るとしても、今俺は幸せだ。萌を求める気持ちが、身体が先か心が先かはこうしていても答えられないけど、でも俺は幸せだ。萌に埋もれていくこと。萌がここにいること。それだけがこんなにも俺を満たす。満たして、満たして、沈んでゆく。
「まぼろしの跡」をお読みくださる皆様、いつもありがとうございます。今年ももうすぐ終わろうとしています。もっと更新を早くしたいのですが、本来の仕事がかなり忙しくてなかなか書けません。話も佳境に入って時間が経っているのですが、遠回りしても納得できる作品を仕上げていきたいと思います。どうぞもうしばらくお付き合いくださいますよう、お願い申し上げます。どうか皆様よい年末年始をお過ごしください。そして皆様にとって来年が一生に残る思い出ができる素敵な年になりますように。 樹歩