表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
まぼろしの跡  作者: 樹歩
126/141

第126章―真冬の月―

 


 次に志生から連絡があったのは「久しぶりに会社に行ったけど何とかなった」という、出社報告のメールだった。あの夜から2日経っていた。しばらくは工場勤務だけどいづれはまた元の部署になりそうだともあった。

 もとの部署・・・。それを読んだ時、少し胸がじんわりと痛んだ。元の部署ということはまた出張業務になるということだ。思うように逢えなくなる。どうしても、淋しいという感情を覚える。そして同時に否がおうにも距離を置くことに安どする気持ちもあった。今のままでは冷静さを失い、淋しさと恋しさで志生を求めてしまうだろう自分が容易に予想づいた。それも近いうちにそうなってしまいかねないと思った。

  

 ・・・・薄れてきている?私はあの人を暗闇へ追いやったことやあの人の奥さんに背負わせている重たい荷物への贖罪の意識が?自分の目の前から過ぎ去ってしまえば薄れてゆくのか?忘れるとは思わない。そんなことはあり得ないしあってはならない。でも・・・・。私はそれ以上考えるのをやめた。考え始めるとどんどん砂場に足をとられそうになる気がした。あの人を思い続けることと志生を思うことは違う。人は一人では生きてゆけない。わかっていてもどうしてもドロドロした鉛を排除することができない。裏切ったつもりはないけれど、志生を一人の男性として思う時、あの人が私の知らないところでどう思っていただろうと思うと、裏切りという言葉に近い表現しか自分の中に浮かばない。いや、正確に言うと表現というより感覚だ。後ろめたく、後ろ暗い。

 それでも志生と抱き合えたあの瞬間の感触とぬくもりを、私は大切に抱きしめていた。認めざる得ない想い。志生を愛おしいと思う気持ちを。


 次の週末が近づいた金曜日、志生から電話がかかってきた。

「元気か?」

「元気よ。この前逢ったばかりじゃない。」

「1日1日が長いんだ、労働してると。」

携帯ごしの志生の声は、ちょっと疲れていながらも、久しぶりに社会復帰した充実感がうかがえた。駅でスーツ姿で歩いていた志生が浮かんだ。

「久しぶりだから疲れるでしょう。でもいい声してる。」

「そうか?萌がそう言うならそうなんだろう。・・今週末は休みある?」

「明日は日勤だけど、日曜日は休み。月曜が夜勤。」

「じゃあ日曜日にしようかな。」

「?」

「マスターの顔見に行こうよ。サンドイッチも食べたい。マスターの娘さんのでもいいから。」

「・・わかったわ。」

「じゃ、日曜に。」

電話が切れると少しがっかりしてる自分に舌を出した。何期待してるの?明日の夜逢えると思うなんて。




 明日は志生に逢えると思いながら床につく。寝坊しちゃいけないから早めに寝ることにした。誰かと約束をしていることがこんなに甘美なんて。そして目を閉じる。今日も忙しかった・・・。気持ちとは裏腹に疲れた身体はまたたく間に眠りに落ちてゆく。

 眠りについたはずの遠くなっていた意識に少しづつ(もや)が晴れてゆく。何か音がする。何か・・・何の音?ハッと目が覚める。携帯のバイブ。・・・志生。

「・・もしもし。」

「ゴメン、寝てたね。」

「うん、夜中だし。どうしたの?」

「外にいる。」

「え?」

「今、萌んちの玄関の前なんだ。」

!!と同時にバッとベッドから起き上がり、携帯を持ったまま玄関の鍵を開ける。白い吐息。色のない頬。私は慌てていて部屋の電気もつけていない。寒い夜空。冬の月がさえざえとしている。

 玄関に無言で向かい合った途端、志生は私を抱きしめた。私はこの前の夜のデジャヴを見ている気がした。それともこれは夢なんだろうか。・・・冷たい手。冷気が混ざった志生の匂い。現実。そして、






・・・・冷たい唇が私の口を塞いだ。多分彼は眼を閉じていただろう。でも私はその瞬間眼を見開いて、今自分に起こっている、自分の意思を押しのけて起ころうとしていることを何とかしてその一瞬で整理しようとしていた。でもそれもほんの、ほんの一瞬だった。一瞬という刹那の時間さえなかったと思う。

 あっという間に私はその柔らかい温かな泥を撫でているような感触に酔い、全身の力を自ら抜いていった。眼を閉じて、塞がれてゆく唇の感触だけに集中した。その甘い唇は私の唇に迷いなく触れた後、ちょっと動きを止めて本当に迷わないか確かめるような間があったが、すぐにまた強く私の唇を求め始めた。私もされるがままにすべてを任せた。いや、きっと私もそれを強く求める動きをしたと思う。志生の両手が私の頚から背中を這っていた。私も志生の背中に精一杯両手を回した。指先が冷えた志生の背中をとらえて、それはなお一層愛しさをつのらせる理由になった。

 もう止められないと思った。もう抑えきれない。私たちはそのまま一言も交わさずにまだ私一人のぬくもりが残るベッドに転がり、ほんの少し寒い部屋の中で少しずつお互いの身につけているものを脱いでいった。志生の激しい呼吸が私の耳を撃って、それはそのまま彼が私を求める気持ちの強さに感じた。私はそれでだんだん性的に興奮した。男という生き物が、志生という生き物が、私という生き物を求めている。どうしようもないくらい欲しがっている。この世に私一人だけを探してくれている。それが呼吸(いき)の荒さに表れている。まるで小さい子供がおもちゃを強請(ねだ)るようにあと先なく。前触れもなく。女として、これ以上の幸福はないんじゃないだろうか。

「ん・・・ん・・・。」

私は声を押し殺していた。でもどうしても喘ぎが漏れてしまう。そして涙があふれてきた。この涙が幸せの涙なのか、あの人への懺悔の涙なのか、後悔の涙なのか、それとも何の意味さえない涙なのか・・・私にはわからなかった。志生の重さを確かめながらふと窓辺に目がいくと、カーテンが少しだけ空いていて、そこには真冬の透明な月が冷たくきらめいて私の涙を照らしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ