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まぼろしの跡  作者: 樹歩
125/141

第125章―ふたりの夜―

 「今夜は一緒にいようか。」

志生が不意にそう言ったので私はぽかんとしてしまった。その言い方はまるで私たちがあの頃の二人になったかのようにも聞こえたし、逆に全く初対面で知りあった軟派の男が女を口説こうとしているようなセリフにも聞こえた。とにかく志生の言い方はあまりにさらっとしていて不自然さがなかった。そこが不自然だったので、私は自分のやましい気持ちを棚に上げ、この人は一体何を言っているの?と思ってしまった。

 傍から見た私はさぞかし口をあんぐり開けてぽかんとした顔をしていたに違いない。でも志生は優しく笑って

「今夜は一緒にいよう。」

もう一度そう言ってくれた。



 一緒にいたいとさっきまで思っていたくせに部屋へ向かう階段を志生が上がる後姿を見ていたら、今自分の部屋が男性を招き入れるのにふさわしくない状態であることを思い出した。・・・どうしよう・・・。と思っているうちに部屋の前に着いてしまい、志生が「鍵。」と普通に言う。

「志生、ゴメン。あのね、」

「もうダメ。もう俺帰る気ないし。」

「違うの、あの、・・・散らかってると思う。まさか今夜志生が来ると思わなくて。」

「いいよ、そんなの。」


 酔いが廻ってるのか醒めたのか、その判断もつかない頭で「ええーい、ままよ」と鍵を開ける。しんとした暗い室内。玄関脇の明かりをつける。

「そんなに散らかってないじゃん。」

志生が気を使ってくれたのか分からないがそう言ってくれた。時計の針はもう宵ではなく夜中に近い時刻をさしていた。

「何か飲む?」

私はぎこちなく冷蔵庫を覗いた。何もないのを知ってて。私は一人でアルコールは飲まない。志生と別れてからは私の部屋に誰かが来ることもなく、アルコールを買う理由もなかった。でも二人で小さな空間にいるのがなんだかおかしくて。照れくさいのとも違うし、まるで初めて彼氏と呼ぶ人を部屋に入れた女子高生みたい。もっとも今は女子高生の方が色んな意味で潔ぎいいかもしれないし、そもそもアルコールの心配をすること自体女子高生ではない。

「何も要らないよ。」

志生がそう言いながらテレビをつける音が聞こえた。私はその音を冷蔵庫を見ながら聞いた。コーラがあったので、それを出してグラスをもった。


 二人でひとしきりテレビを見て、その内容で会話をつないだ。私は内心、志生がいつシャワーを貸してと言うかとそればかり思っていた。そして本当に今夜そうなってもいいのか考えていた。

 志生に抱かれる?本当に?志生は本当に私を抱きたいのだろうか?私が知る限りなら、志生と富田さんはセックスもろくにできない夫婦だったと思う。富田さんにはもうそんなに体力がなかっただろうし、第一ずっと入院生活だった。私の予想が正しければ、志生はずいぶん長い間生身の女性と肌を重ねてないはずだ。それとも旅先で行きずりに女性と寝ることもあったのだろうか?いや、ないだろう。旅に出たのも富田さんを失った悲しみのあまりだったのだから。・・・だとしたら?志生が最後に寝た女は私か?

「・・・・・。」

「何考えてる?」

志生が私を見つめる。ふいに沈黙が流れる。私は今考えていたことを口にしようか迷う。


 でも結局それは言葉として口から出ることはなかった。志生の手が私の髪に伸びて静かに私を引き寄せたから。一気に鼓動が高鳴り、のどもとで脈打つ命の波を感じる。速い鼓動。我慢できずに私は眼を閉じる。流れに任せるまま身をゆだねる。次に私が感じたのは志生のくびの匂いだった。懐かしい匂い。腕枕で寝かされていた時に何より安心した私を包んだ感触がそこにあった。 私たちはそのままベッドになだれ込む。志生がギュウッと私を抱きしめる。私は好きな人に抱きしめられてるという恍惚で気が遠くなる。地の果てくらい遠くで汽笛が聞こえる気がする。実際私には汽笛が聞こえている。私も精一杯志生の背中に腕を伸ばす。手を開き、指を伸ばし、自分の触感を最大限に生かそうとする。服の上からも志生の素肌を感じる。きっと志生も今私の肌の感触を思い出してるはずだ。それは富田知紗子ではなくて、暁星萌の肌。暁星萌の細胞。そして私の脳はドーパミンという盲目の物質で満たされてゆく。そのホルモンが一気に私の脳を充満して支配してゆく。限りないドーパミンとアドレナリン。私はここ、ここにいる。



 ずいぶん長いことそうやって私たちは一言も発することなくただ抱きあっていた。私は多分キスを待っていたのかもしれないけど、それにも気がつかないほど抱擁だけで満たされていた。そしてだんだん頭の中が朝もやが晴れてゆくように落ち着いた頃、志生が寝息を立てていることに気がついた。あるいは寝息をわざと立てていたのかもしれない。どちらにしろ、私たちはそれ以上お互いを求めることなく、ただ布切れの上からお互いを温め合っていた。それから私はやっと気がついた。志生は最初から今夜私と寝る気はなかった。一緒に過ごしても私を抱く気はなかったと。私が迷ったように志生も迷ったのだ。でも志生が迷ったのはおそらく私と会う前だ。今夜私の顔を見る直前、あるいは店で飲んでた時も迷っていたのかもしれない。だけど、いつ決めたかはわからないけど、少なくとも今夜は一緒にいても私とセックスはしない。一緒に寝たとしてもそれは眠るだけで寝ることはしない。そう決めたのだ。だからこそ私の淋しさにつきあってくれたのだ・・・。

 志生の、相変わらず静かすぎる寝息を感じながら私はそう思った。なんて優しい人。なんて強い人。ただ憤りのまま身体を求めないことがどれだけ苦しいか。流されてしまえれば一瞬でも楽になるのに。・・・でもその後の苦しみを後悔と呼びたくない。今私たちが肌でなく素肌を重ねてしまえば、その時は快楽の階段の頂上うえに昇れるだろう。それはあまりにも自然な欲求に見えた。だけど得る快楽は本当に一瞬で、きっとその後やってくる苦い津波は、お互いを必要な存在とわかっていながらも淋しさを埋めるだけの戯れに制裁のごとく襲うだろう。志生はそれをわかっていた。迷いながらもわかっていたのだ。今それに気がつく私と、その前に気がついた志生には、人間としての器の大きさに違いがあるのを認めざるを得ない。 私は泣きたい気持ちになった。大きな声をあげて泣きたくなった。私たちの愛はどこへ行くのだろうと。でも泣けなかった。志生の寝息の、あるいは眠りの邪魔をしたくなかった。そうしているうちに私にも深い眠りが来た。一人ではない、二人でしか得られないおおらかな眠りへのいざない。私はその中へ素直に身を落としてゆく。

 そうして次に目が覚めた時、志生はそこにはいなかった。

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