第122章―心の水たまり―
家についてため息をつく。帰り道、志生は結局昨日の続きを話さなかった。明日の私の勤務を確かめただけだった。私も訊かなかった。
“あなたの決心を聞きたい。”
そう思っても今夜訊くのがなんだか野暮ったくなった。さっきの志生から聞いた話が影響してるのかもしれない。でも彼はマスターに言っていた。
「お互いを必要としている。とても酷く。」
あの言葉を聞いた時、私の胸の中にはっきりと小さな灯がともった。もう一人じゃない。そういう感覚。志生は志生なりに何か思った。一人でいる時にもただ時間だけ流れたわけじゃなかったはずだ。それがわかった。それだけで今はいいと思う。いいと思おう。
でもどこかで小さなわだかまりがあるのを私はわかってる。長く降った小雨でできた、誰も気づかないくらいの小さな水たまりのようなもの。この場に及んでもなおその呪縛から逃れられないもの。・・・知紗子さんと私と・・・。頸を振る。わかってる。彼女と争おうなんてもともと意味がない。ふと気付く。頬が濡れている。私は泣いている?・・涙が流れている。
何の為の涙なのだろう?誰の為の涙なのだろう?何が哀しくて、こんなに切ないのか。志生のこと?私のこと?二人のこと?・・・そもそも二人とは誰と誰のことなの?
私はそれから3日続けて日勤でその次の日が夜勤だった。志生は職業安定所に行くつもりだと言っていた。日勤の間の3日間、私たちは日に1度くらいのメールのやり取りはしたけれど、特別な言葉はお互いなかった。でも明日が夜勤という日の午後、志生から来たメールには
「今夜逢おう。仕事終わったら電話して。」
とあった。何となくそう言われるんじゃないかと思っていたけど、一気に動悸が激しくなる。
きっと今夜だ。今夜“つづき”が語られる。
果たして仕事が終わったのは、定時を15分ほど過ぎた頃だった。早い方だったのでスタッフみんながちょっと喜んでいた。私もさっさとステーションを出る。病棟の階段を下るところで上の階にいる同期の看護婦と会う。富田さんの情報を教えてくれた子だ。
「暁星、お疲れ。」
「うん、お疲れ。」
「今日早かったあ、そっちも早く終わったんだね。」
「うん、久しぶりだよ、こんな時間に帰れるの。」
「ねえ、たまには一緒に夕飯どう?もうずっとご無沙汰よ。」
彼女の誘いは志生と会う約束をしていても魅力だった。が、
「ゴメン、今日はちょっと。」
小さく手を合わせてゴメンねポーズをとる。
「あら、残念。でもその顔ならいい先約みたいだから許してあげるわ。」
同期はそう言ってほほ笑んでくれた。
車に乗り、すぐ携帯電話を取り出す。呼び出し音が聞こえた瞬間、
「もしもし、早かったじゃん。お疲れ。」と志生。
一気に緊張がほぐれる。仕事から解放されたと実感する。まだ目の前は病院なのに。
「うん。今日は早かった。・・どうしようか。」
「車あると飲めないから、駅で待ち合わせようか。」
それを聞いて一瞬気が沈む。また外なんだ・・。でもよく考えれば当たり前か。彼は私の恋人じゃなくて、最近愛する奥さんを亡くしたばかりの男性なのだ。女性の部屋に簡単に行こうとするはずがない。たとえそれが志生で、たとえそれが私だとしても。
「うん、わかった。」
電話を切る。気を取り直してエンジンをかける。家に戻るとそれでも私は、洋服も朝着たものとは別のものに着替えて化粧も丁寧に直した。口紅もゆっくりと引く。口紅を引くその先端の色を見るたびに、今自分は恋をしているのだと思う。唇から色がはみ出さないように注意する気持ちの重さがその指先の集中力に比例する。
外に出るともう暗くなっていて、私は早足で駅まで歩く。冷たくなり始めた空気が頬を冷やしていくのを感じながら、でもこれから会うのが最愛の人だと思うと寒さもさほど辛くない。
わかってる。本当に辛いことは最愛の人を失うこと。そしてそれより辛いのは最愛の人が幸せじゃないかもしれないこということ。生きているとか、この世の人じゃないとか、そういうこと以前に存在として。そしてその淋しさを埋められるのが自分ではないということ。・・・また私の中に水たまりができる。不安が呼ぶ水たまり。
志生は・・・志生は・・・。私を必要と言ってくれたけど・・・。その先はどう思ってるんだろう?え?その先?私は自分の思わぬ本心を垣間見て初めて恥じる。・・・私は何を求めているの?ただ志生が私の人生にいることでいいと思っていたんじゃなかったの?
頬を打つ冷気が一層冷たさを増す。自分の浅ましさから目を逸らしたい気持ちになる。同時に自分がこれだけのことを味わっても、結局ただの女なんだと思う。一人の女として、一人の男に愛されたい、守られたい、自分だけを・・と願うことから逃れられない。今夜、志生からの話によっては自分は感情を抑えられるんだろうか。妻を亡くしたばかりの男性に詰め寄るような真似はしたくない。かといって、志生が何もなかったように「もう二人だけだ。さあこれから萌と幸せになろう。」と言われれば、それはそれで不信感だろう。いや、志生はそんな男じゃない。冷静になって、私。今私が何を思っても、全部想像でしかない話。考えるのは志生から話を聞いてからでいい。なんでも暗い方に思うのは私の悪い癖だ・・・。
だんだん周囲に明るさが増してきた。繁華街が近い。駅の案内標識が信号機と一緒に見えてくる。私は駅が近くなるにつれ足早やになるのを寒さのせいにした。志生に逢えるからだと思いたくなかった。そこで携帯が鳴った。メールの着信音。
「駅に着いたよ。待ってるから気をつけておいで。」
それを読んだ途端、もっと早足になる。もうすぐ逢える。志生に逢える。すぐそこに志生がいて、私を待っててくれている。
もはや歩く速度は今にも駆け足になりそうだ。寒さのせいになんてできない。この心の水たまりも、飛び越せていけたらいいのに。すべて寒さのせいに出来たらいいのに。






