第121章―似ている人は知らなくていい―
帰る私たちをマスターは病院の玄関まで送ってくれた。
「また来てもいいですか?」
そう言う私にマスターはにっこりと微笑んで、
「俺に会いに来るよりも、彼との時間を大切にしたほうがいいよ。でも来るのは構わない。歓迎するよ。」と言ってくれた。
「とても有意義な時間をありがとうございました。」
志生はそう言ってマスターに握手を求めた。マスターはそれにも笑顔で応じてくれた。そして何か志生に耳打ちした。それを聞くと、志生はわかりましたという風に頷いていた。
玄関でずっと手をふってくれているマスターに、私も窓から負けずに手をふりながら病院の駐車場を出た。もうあたりは暗くなり始めていた。
しばらくの間、私と志生はお互い口を利かなかった。お互いが、それぞれマスターから聞いた話から自分が感じたり思ったことを自分に確かめたり、心に刻んだりしていた。そうしていわゆる“物思いに耽った”時間が流れた。何度目かの交差点を過ぎて、信号が赤になって止まった時ようやく志生が口を開いた。
「・・・夕飯一緒に食べよう。何食べたい?」
正直私は全くと言っていいほど空腹感はなかった。でも意に反して
「あたたかいもの。」
と言っていた。
「鍋にしようか。」「うん。」
それだけ交わすとまた二人とも黙って自分の世界に入っていった。志生はずっと前を見て運転だけに集中しているように見えた。対向車線の車のヘッドライトがほんの少しだけ志生の顔を照らしてゆく。あ、と思った瞬間その光は消えてゆく。私はその志生の横顔を見てない振りをしてみていた。
・・・そういえばさっきマスターは志生に何を言ったのだろう?私のことだろうか?でも訊けない。なんとなく訊けない。志生が言ってくれたらいいのに。
私の住んでる所から車で10分ほどの所の鍋料理の店に着いた頃には、少しお腹が空いた感じがしてきた。私たちは鳥の鍋を注文して、二人ともアルコールは控えた。
「萌は飲んでもよかったのに。俺に付き合ってウーロン茶にすることないよ。」
志生はそう言った。
「ううん。なんだか今日は飲みたくないっていうか・・・、一人では飲みたくなかったから。志生に気を遣ったわけじゃないよ。」
志生はそれ以上は何も言わなかった。そして二人とも目の前に置かれた鍋が出来上がるのをぼんやりと見るともなく見ながら待った。やがて湯気が立ちのぼり、いい匂いが広がってきた。
「そろそろいいみたいだね。」
ふたを開けるとちょうどいい具合に鶏肉やら野菜やらが煮えていた。
「いただきます。」
食べ始めると思ってたよりも箸が進む。志生も美味しそうにほおばっている。私は訊きたいことを切り出した。
「・・さっき何話してたの?」
「さっきって?」
「ほら、帰り際にマスターが・・。志生に耳打ちしてたでしょ?」
「ああ、あれか。」
「なんだったの?」
「萌のことだよ。」
「私のこと?なんだって?」
私は多分マスターが私のことを心配してそういうことを言ったのだろうな、と思う言葉を想像していた。が、
「似てるんだって。」
と、志生から予想外の返事を聞かされた。
「似てる?」
「萌とマスターの奥さん。」
「ええ?だって写真見たじゃない、私と似てたかな?」
「あの写真ではそうでもないと俺も思うけど。マスターが言うにはもっと若い頃見たいだよ。」
「若い頃?」
「うん、多分。だってこう言っただけだよ。“あの子は知り合った頃の女房にちょっと似ている”って。」
「ふうん・・・。でもちょっとだけなんでしょ?」
「その“ちょっと”の基準は俺にはわからないけど、マスターの基準ではそうなんじゃないかな。・・それに・・。」
「それに?」
「これは俺だけかもしれないけど、多分マスターもそうなんだろうなと思ったんだけど。俺ならたとえば萌がマスターの奥さんと“すごく”似ていたとしても“ちょっと”って言うと思うんだ。」
「??」
「ほら、その似ているって言っても外見なのか中身なのか、イメージなのか、似ているって言葉だけじゃわからないだろ?まあ、俺がマスターにどんなところが似てるんですか?って訊けば済むことなんだけど、なんだかあの時はそういうことを確かめるのがとても野暮っぽく感じたんだよ。」
「??」
「つまりさ、俺にとっては本当に萌と奥さんが似てようが似てなかろうが、すごくだろうがちょっとだろうが、そんなのはどうでもいいんだ。でもあのマスターは初めて会った男だけど本当に素晴らしい人だ。萌があれより美味いサンドイッチを食べて元気が出たのもわかるよ。俺も食い物で人間は覇気が出るんだって初めて知ったよ。気持ちだけじゃだめなこともあるんだなって。で、そういうものを作れる人の最愛の女性が萌に似ているなら・・・。それがちょっととかどこがとか、そんなことはどうでもいいと思ったんだ。俺が思うように萌と奥さんが似ていると思えばいい。マスターが思うように似ていてもいい。言いたいことわかる?」
「・・なんとなく。」
「それに、これはちょっとずれてることかもしれないけど、自分が心底好きになった人と誰かが似てるなんて俺はあんまり歓迎しない。」
「・・そうなの?」
「だって自分の“唯一”だぜ?オンリーな人だよ?そんなに簡単に他の人間と似てたくないよ。」
「ふうん・・、そういうものなのね?志生にとっては。」
「萌はそうじゃないの?」
「どうだろう・・。そんなこと真剣に考えたことないけど、もしかしたらそうかもしれない。自分が“この男!!”って思った人なら、確かにあまり似ている人がいたらいい気分しないかも。というか、別にいてもいいし、いるだろうけど、私は知りたくないっていうか・・。」
「そうそう、そういうことだよ。知りたくない。知らなくていい。俺が思うにマスターもそういう考え方じゃないかな。でも自分の奥さんと萌はやっぱりどこか似ていた。それがちょっと嬉しくて、でもあんまり大っぴらに言うのは気が引けたから、“ちょっと”って言ったと思うんだ。だから俺も、ああそうなんだって感じでうなずいただけで。」
「なるほどね。」
そこでまた話が途切れた。私たちはお互いの箸の動きにどことなく気を遣いながらもくもくと鍋をつつき続けた。もうだいぶ中身が少なくなった頃、私たちは同時に言った。
「うどん?おじや?」