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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第118章―マスターの長い話その2―

 女房の葬式が済んでから、さあ、店をどうしようかと思った。正直たたむしかないと思ったんだが。でも女房が死んでから初めて店に行った時、なんていうか、こう・・、あいつがいる気がした。家じゃそう思わなかった。せいぜいキッチンに面影を見るくらい。でも店は・・、あいつだけの場所だったからかな。はっきりとあいつが見えた。コーヒーをたてたり、野菜を切ったり、客と話して笑っているあいつがいた。本当に楽しそうにしているあいつだった。俺は胸が詰まって、気がついたら涙が出てきていた。おいおいと出てきた。・・・喪主ってのは不思議なもんで葬式の時は頭下げるばっかで涙もろくに流せない。娘も困憊尽きていた。あいつはたったひとりの母親を失い、俺は人生最後と思った女を失った。失ったものがあまりにでかすぎて涙を流すくらいじゃ追いつかなかったんだろう。その溜まりに溜まっていた感情が一気にあふれだして、俺は泣きに泣いた。あとで訊いたら娘も同じことをしたと言ってた。あいつはあいつで店に来たんだな。店の鍵も家族一人一人が持っていたから。

 ひとしきり泣いたあと思ったんだ。ここを手放しちゃいけないってね。もうこれ以上女房を遠くへやってなるものかって。あいつはここにいるんだって。あいつの夢そのものだった小さな店に。・・・俺は銀行を辞めて調理師免許を取った。娘は最初びっくりしたが、俺の決心を聞いて本当に嬉しそうだった。母親を解剖した父親を、あいつはそれで許してくれた。女房が亡くなって1年半、店を再開した。正直本当にできるのかって感じだった。不安だったよ。あんな小さい店、ちょっと休んじまえば客は来なくなる。しかも今度はむさくるしい男がやっている。不安だった。でもちらほら客が来てくれた。たいがいがもともと店に来てくれてた客だった。もちろん俺はそんなこと知らなくて、客の方から女房のことを訊いてくれたんだ。で、正直に言ったんだ。死んだって。客の中には泣いてくれた人もいたよ。知らなくてごめんって謝る人もいた。いやこちらこそって頭下げたね。俺の女房の為に他人が悲しんでくれる。俺は仏壇の女房に向かって言ったよ。「お前が生きていた証があった」って。「お前が培ってきたものは確かに芽が出ていた」って。娘にも報告した。二人で初めて泣いて喜んだよ。

 君の気にいってくれたサンドイッチ。そう、あれ。あれももとは女房のオリジナルだ。店のメニューは全部女房が考えたものだよ。コーヒーとかはだんだん俺の好みが出てきてると思うけど、料理は女房の請け売り。あいつ、メニューの内容を全部ノートに残してあったんだ。材料からレシピの隅々まで。すごく細かく。そのノートを店で見つけた時、やられたって思ったね。そう、多分自分が死んだあと俺か娘が店をやってくれるだろうと踏んでたんだよ。だって、ただ自分が覚えておくためのノートにしちゃあ本当に書いてあるのがいちいち細かかった。誰かに向かって書いているとしか思えないくらい。・・・それじゃあ期待に応えなきゃって気になるだろ?

 サンドイッチは俺も好きだったんだけど、客の人気も高かった。あれはごまかしが効かないんだよ。どんなに具のバランスが良くてもパンの張り具合でまったく違う味になる。女房は食パンからこだわって手作りしていたけど続かなかったらしいね。ノートに書いてあった。で、ずっと取引している個人のパンの店から買っているよ。ちなみにあの海苔だってそうなんだよ。できるだけ女房が作って客が望んだものを提供し続けたい。そう思ったからね。どこの業者も女房が死んだのを知らなかった。俺もそんなところまで気が回らなくて、自分が商売しようってノートを見た時に取引業者の一覧があった。俺が連絡とって事情を話すと、最初は今更・・って思ってた相手も、そういう事情じゃ仕方なかったってまた取引に応じてくれた。中には女房に線香を上げさせてくれって家まで来てくれた業者もいた。俺は自分を恥じたよ。あいつは本当に店を大事にしていた。店に関わる人たちのことも。そんなこと銀行マンならわかってろよって感じだよ。葬式の時は仕方ないとしても、その後も何にも思いつかなかったんだ。そういう自分にかなりショックだったし、軽蔑したね、実際。まあ、そんなこんなで始めた店だったけど、何とか波に乗り、今じゃ娘もできるようになった。うん、娘は何も言わなくても高校出た後調理師の学校行って免許取ったよ。しばらくは大きいホテルの厨房に入ってた。結婚してから専業主婦になったのをきっかけに俺が時々店をやらせるようにした。・・気がついたらもう女房より俺の方が長く店をやってた。早いもんだよ。

 俺は幸せだと思うよ。確かに女房は早く逝ってしまったけど、こうして女房が何より大切にしていたものがあるんだ。形として残っている。俺が店にいる限り女房と一緒にやってるのと同じだったし、今は死ぬのも怖くない。またあいつに逢えるとしか思わないからね。娘も覚悟できてる。娘婿にも全部話して頼んである。もう、心残りはないね。俺の人生は決して孤独じゃなかった。それを女房から教わった。

 本当ならもうとっくに店を辞めているはずだったけど、やれる限りやりたくて体調いい日は俺が店に入ってた。そんなときに君が来た。ひと目見てわかったよ。何か事情のある女の子だなって。なぜかって?そんなのはこの年になりゃわかるんだよ。ただわかるんだ。今だから言うけど、あの時(君が初めてうちの店に来た時)君が何を食べようか迷っていただろ?もう少し注文に時間かかったら「うちはどれも美味しいけどサンドイッチがお勧めだよ」って言おうと思ったんだ。でも俺が声をかける前に君はサンドイッチを注文してくれた。嬉しかったね。で、本当に美味そうに食べてくれた。え?うん、見てたよ。そりゃあ見るさ。初めて来たお客には常連より気を遣うよ。あんなに小さい店だから、正直リピーターの獲得は大事だよ。どんなにいいものを提供しても商売にならないんじゃしょうがない。俺はそんなに儲け主義じゃないし女房もそうだったから特別儲けようとは思わないけど、商売やってる以上勝算合うようにしないと維持ができない。維持するためには固定のお客さんは一人でも多い方がいい。ここだけの話だけど、初めて店に来てサンドイッチを食べた客はほぼ100パーセントまた顔を出してくれる。すごいだろ?それだけあれは女房の自信作なんだ。俺にとっては形見だな。娘もやっと8割作れるようになった。うん?そうか。彼氏は娘のしか食べてないのか。そう、あれで8割かな。俺が作るともっと美味いぜ。おそらく女房が作ったのはもっと美味かったかもしれない。でももう俺の方が長くやってるし、サンドイッチの称号くらい俺も一つは欲しいかな。娘が俺のレベルになるのももうそんなに遠くないよ。だからまた食べてやってほしいな。・・・そうか?行ってくれるか。よかった。

 

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