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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第117章―マスターの長い話その1―

 そこは喫茶店からさらに30分ほど車で行った所の山の高台にある病院だった。個人病院で決して大きくない。でも見るからにホスピスっぽい、全個室の病棟だった。談話室も広い。病院というよりホテルという雰囲気。薄いピンクの壁。私と志生はナースステーションでマスターの名を告げる。病棟事務が電話で面会を伝えると

「そこの面会室をお使い下さい。」

と教えてくれた。しばらくすると彼が入ってきた。

「ああ、来てくれたんだ。」

「こんにちは。」

少し痩せたかな、と思う。でも笑顔にはまだ覇気がある。

「さっき娘がメールをくれたんだ。君が来たって。で、ここを教えたからって。」

「突然お邪魔しちゃってすみません。」

「いやいや。」

そして志生を見て、

「はじめまして。」

と言い、志生も同じように挨拶をした。マスターは私をちらっと見た。その眼は「この人は新しい彼氏?別れた彼氏?」と言っていたので、私は

「あなたに会って欲しかった人です。」

と言った。マスターはにっこりとほほ笑んだ。


 ・・・癌がわかったのは去年の秋。なんだか痩せてきて、食べ物を胃が受けつけなくなって。もともときちんと検診とかも受けたことがないんだ。医者が嫌いでね。でも流石にこれはおかしいと思った。うちは癌家系なんだ。親父は肝臓、祖父も肺。母親も胃だった。そう、両親ともに癌。だから来るべきものが来たのかと思ったよ。だから病院へは診てもらうというより確かめる為に来たという感じだった。うん、胃カメラ見て一発だよ。すぐわかった。医者も隠さなかった。俺は余命を訊いた。俺には訊く権利があるからね。え?一人だったか?一人だよ。一人で病院来て、一人で検査を受けた。あ?女房?女房はずいぶん前に逝っちまったよ。あいつは心臓が弱かったんだ。朝起きたら冷たくなってた。日頃からそういうことがあり得ると言ってたから特別びっくりはしなかったけど、しばらくは苦しかったね。自分の隣で寝ていた人間が朝には冷たくなってる。とても静かに。まるで本当に寝ているみたいに。でも寝ているのと死んでいるのとは違う。絶対起きない。全く起きない。どんなに声をかけて揺さぶっても。俺が夢を見ている間に女房は俺が知らない、知りようがない世界にいってしまってる。そのギャップ。隣同士で寝ているのにお互いのいる場所のなんと遠いことか。せめてもの救いは本当に彼女は寝ている間に逝っちまったという事実。もし俺を起こそうとして俺が気付かなかったら後味悪いなんてもんじゃない。俺はもっと苦しんだと思うよ。でもそうじゃなかったと解剖してわかった。解剖をするのに娘は反対した。その時娘は16歳だったと思う。「お母さんの身体にメスを入れるのか」ってすごい剣幕だった。もちろん無理もない。でも自宅で死ぬと一般的には変死扱いで警察が入るし、何より俺が納得したかった。何が彼女を俺や娘から奪い去ったのか。どういう仕組みでそれが為されたのか。彼女の身体の中で。俺はそれを知りたかった。だから娘の反対を押し切って女房を解剖に回した。娘は女房の身体が帰ってくるまで俺と口をきいてくれなかった。飯も別々に食べた。不思議なもんだと思ったよ。三人家族で、一人欠けたって二人いる。多数決でいえば過半数だ。でもたった一人欠けただけでもうダメ。バランスを失う。やっぱり家庭には“お母さん”が不可欠だ。“お父さん”じゃ役に立たない。ましてやうちはひとり娘だから。俺もつらかったけど、娘もつらかったろう。でも女房がいなくなった後家事の大抵は娘がやってくれた。正直たまげた。女房がいるときは何もしていないように見えたから。でもあとで訊いたら、時々女房が教えていたらしい。自分がいなくなった時家の中が目茶苦茶にならないように。そこまで準備していたことを俺は知らなかった。

 実はあの喫茶店はもともと女房がやってたものだったんだ。若い時から喫茶店をやるのが女房の夢でね。今からそう、30年くらい前になるのかな、女房が30歳になる少し前にあの喫茶店の建物が売りに出ていた。それまでは二人とも普通に働いていた。俺は銀行マン、女房は調理師免許を持っていたから個人経営のレストランだった。あの喫茶店はあること自体は知ってたんだけど、行ったことはなかった。そしたらある日たまたま俺が通りかかった時売りに出てる張り紙があった。見てのとおりなかなか感じのいい建物だろう?優しい感じだ。で、俺はそのまま不動産屋へいってきて色々情報を仕入れてきたんだけど、割と買い得な物件だと思った。ちょっと店内は狭くて古い感じはしたけど、内装なんてもんは考えようでどうにでもなる。女房が少しづつ貯金をしているのも知ってた。・・・女房も喜んだよ。小さいながらも自分の城だし。娘もちょうど小学校に上がる時だったから、自営なら学校終わっても自分の店に帰らせりゃいい。話はトントンに進んであの喫茶店をオープンさせた。資金が足りなくて俺の銀行からちょっと借金したけどね。でもそこそこ店も繁盛したから・・。あの頃が俺たちの一番いい時間だった。俺も営業で外に出ると店に寄った。でも結局女房はそれから10年であの世へ逝ってしまった。唐突に。突然に。俺と娘とあの店を残して。

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