第115章―幸福感―
私たちは歩く。寒い夜、星空の下を。何も言わずに歩く。私たちは身を寄せ合っている。でもそのぬくもりは本当は誰のぬくもりなのか、誰のぬくもりを求めているのか、本当はよくわかっていない。志生は本当は富田さんの手を欲しいはずだ。私は私で志生を求めていながらその一方でそんな自分を納得できていない。あの人とこの世あの世を超えたつながりで生きていこうと決めた。それに揺るぎはない。でも志生のことは違う。志生への気持ちは以前よりずっと静かだ。ただ見守りたい。志生が幸せになること、幸せになろうと歩んでゆくその過程をただそばで見ていたい。
志生と生きていきたいと思う。でも志生と以前のような関係になるとは思えなかった。なんだかそれはとても遠くで、何かの間違いでそうなっただけのことのように思えた。あの幸せな日々から一転、とてつもなく高い津波が私たちを襲い呑みこんだ。私たちはもうどう考えてもあの頃の自分たちにはなれなかった。少なくとも私は。あの人の死が私を別人に変えた。そしてそれを私は受け入れた。志生もきっと形が違っていても同じことを感じていると思う。愛する人の死を共に過ごして、それを知らない時の自分とは大きな隔たりがあることを、彼もわかってるに違いない。そう、私たちはふたりで過ごしていた頃と、人生観というより人生そのものが変わってしまった。
でも私はもう悲観するだけの私じゃない。決して前向きに希望を持って・・とは言えないけど、少なくとも死人と共に生きようと思えるようになったのだ。
そんな事を思いながら歩いていて気がつくともう私のアパートが見えてきた。結局私たちは店を出てから一言も言葉を交わしていない。志生の気持ちもすべて聞いていない。志生はこのままうちに泊まるつもりなのかな。一晩一緒にいて大丈夫だろうか。
「じゃあここで。」
私の妄想は打ち切られた。
「帰るの?・・じゃあタクシー呼ぶよ。」
「帰りたくないよ。でも多分俺も萌と同じ気持ちだからさ。」
「!」
「今一晩いるのはやめた方がいい。萌もそうだろ?」
「・・・うん。」
「向こうの通りでタクシーは拾うから大丈夫だよ。じゃあ。」
「ねえ、でも話の続きは?」
一晩を躊躇しながらつい志生の足を止めるようなことを言ってしまう。でも次の言葉で志生は私をある意味抱きあう以上に温めた。
「明日。また明日。」
そうして志生は又歩き出した。
アパートの自分の部屋に戻った後、私はなぜか涙が出た。
「また明日。」
志生はその言葉だけで私の今日ずっと感じてた違和感を打ち消した。・・・そうだ。私たちには時間がある。焦らなくていいんだ。急いで私たちの間に答えを求めなくていいんだ。志生はそれを言いたかったのだ。私たちはずっとお互いの存在と許しあえるのだと。ずっとお互いがそばにい合える存在なのだと。
私はその晩ずいぶん深く眠った。寝つきもよかったし、寝起きも突然パッと目が覚めたのだが、すこぶるすっきりしていた。時計を見ると日勤でいつも起きる時間よりも1時間早かった。もう少し寝てようかな、と思いつつもう寝る必要はないだろうと思う。そしてふと携帯のランプに目がとまる。メールが来たしるしだった。見てみると志生からだった。
「もう寝た?俺は眠れない。実家で自分の部屋なのに落ち着かない。萌と一緒にいた時の方が落ち着いてた。ところで俺また明日って言ったけど、よく考えたら萌の明日の勤務を聞くのを忘れてたよ。明日は(もう今日だね。今夜中の1時過ぎだ。)勤務何?起きたらでいいから返事をくれ。」
私はそれを読んでまた心を温かくした。・・・志生。そしてすぐにメールを打った。
「おはよう。ごめんなさい、今頃眠っているかもね。私は昨夜久しぶりにぐっすり眠りました。今起きたの。今日は休みです。昨日から久々の連休です。明日は日勤なので、今日は一日大丈夫です。起きたら連絡ください。」
見慣れないメールアドレスを打つ。まだ彼独自のアドレスを決めてないようで適当な数字とアルファベットが入り乱れて並ぶ。注意深く一つ一つ確かめて打っていく。その一つ一つの文字を打つ度に志生との距離が縮まってゆくようでまた胸の中に綿菓子が浮かんでゆく。
この気持ちを幸福と呼ぶのだと思う。誰かと無条件につながっているという感覚。自分が必要としている人に、自分も必要とされてるという確信。私はずいぶん久しぶりに与えられた、幸福感という贈り物をただひたすらほおばった。