第114章―気持ちの整理―
「お帰りなさい。」
私が普通にそう言ったので、志生はびっくりしたようだった。
「・・ただいま。」
「髭、伸びたね。」
「うん・・。最初は剃ってたんだけど、そのうち面倒になっちゃったんだ。あ、でもお風呂は入ってたよ。」
「誰も汚くなんて思ってないよ。」
私がくすくす笑ったのを見て、志生も安心したように笑う。あ、この空気。二人でいた頃と同じ空気だ。私がドアの鍵を開けると志生もそのまま入ってくる。ごく自然に。もちろん“ごく自然に”なんて言ってる間は本当の自然じゃないと思う。でもこの前の夜と比べればずっと自然だ。この1ヶ月あまり・・、逢っていない間でも私たちのつながりはそれなりに距離を縮められていたのかな。そうだといい。
「携帯・・。」
志生が思い出したように、言い訳をする言い訳を探すようにつぶやく。
「うん。つながらなかったね。解約した?」
私は買ってきたものを冷蔵庫に入れながら言った。二人分の食材にはちょっと足りない。・・・馬鹿だ。私、志生が泊まるつもりでいる。
「うん。でもさっき、ここに来る前新しいの契約してきた。」
「もう?」
「・・もうすぐ四十九日だから。連絡来ると思って。」
「ああ、そうね。」
一瞬志生の方を見たけど、その内容を聞いてまた冷蔵庫に視線を戻す。もう冷蔵庫に用がないのに。なんとなく顔を見てはいけない気がした。
「・・・ゴメン。」
「え?何が?」
「いや・・、あの・・。」
志生が俯いてる。それで私は私の態度が誤解をさせていると気づいた。
「ねえ、志生。違うの。あなた謝るようなことしてないわ。」
「萌。」
「携帯が繋がらなかったのはそりゃちょっとはびっくりしたけど、でも気持ちは理解できたわ。あなたがこの地を離れたのもわかる。そして、富田さんを大事に想ってることも。」
「・・・うん。」
「だから謝らないで。それより、うちで食べてもいいんだけどちょっと足りないみたいなの。どうしようか。」
一瞬の間がある。そして志生は言った。
「外に行こうか。」
もう外は真っ暗だった。冬の夜は早い。空にはさっきの夕暮れはすっかり消えて星がちらほら出ている。志生が先を歩く。その後ろ姿を見ていると胸が締め付けられる。思わず腕を絡めたくなる。・・・ああ、やっぱり好きだ。私はこの人が。でも言えない。志生はもう私の志生じゃない。志生は結婚したのだ、富田さんと。奥さんを亡くしたばかりに人に付け入るようなことは出来ない。そう思っていると志生が振り向いた。
「歩くの早すぎる?」
ううん・・、と私は首を振った。何も言えない。さっきまで話せたのに。ただ心が締め付けられるの。そういう優しさが痛くて。
「こっちの方が暖かいな。」
「どこに行ってたの?」
「日本海の方だよ、辺鄙なとこ。」
「ふうん。」
私たちは歩いていた。街の方に向かって。私は車を出そうとしたのだが志生が歩こうと言った。風が吹いてなかったので冬でもそんなに寒くなかった。私たちは少し話しては無言になり、また話しては黙った。そうして20分ほど歩いたところで何回か行ったことのある居酒屋が見えた。
「あそこでいいか。久しぶりだし。」
「うん。」
店内に入ると一気に暖かい空気が身体を包んだ。私たちはテーブルに向かい合わせに座り、やはりアルコールを注文する。志生はいきなり日本酒の燗。私はライムのチューハイ。食べるものも3〜4品。そうして一息ついた頃、お互いの緊張がようやくほぐれてきた。
「少し痩せたみたいね。」
「ああ、少しな。だって一人でぶらついてぼんやりしてて・・・。」
志生はそういったあと言葉を呑む。しばらく沈黙。
「ゴメン。本当に、連絡もしなくて。」
「だからいいよ、そんなの。こうして元気で戻ってきてくれたし。」
「いたたまれなくなっちゃったんだよ。」
「うん。わかるよ。」
「そう、萌はわかってる。大切な人を失うことがどんなことか。どんな形であれ・・いや、萌は俺より辛かったはずだ。自分の知らないところで逝かれたんだから。俺の方がまだいい。最期までみたんだから。でも俺は耐えられなかった。何も考えられなくて、ただ逃げただけなんだ。知紗さんや萌のことばかりのこの土地から。」
「私?」
「知紗さんの親父さんからもう自分のことだけ考えて生きろと言われた。正直すぐ萌が浮かんだよ。でもそれはただの甘えだと思った。だけどここにいれば俺は結局萌のところに行ってしまう。知紗さんを失くしたやり切れなさを萌で埋めようとしてしまう。それが歴然としていた。それだけは自分に許せなかった。だから携帯も解約して行ったんだ。」
「甘えに来ればよかったのに。」
「・・だめだよ。萌もわかってるだろう?知紗さんを亡くした悲しみは俺が俺の中でちゃんと乗り越えなければならない。気持ちの整理も自分でするべきだ。萌がそうしたように。」
気持ちの整理?私が?どうだろう?そうできたと思ってた。でもこうして志生の顔をじかに見ちゃうと確信が持てなくなる。ただ志生に逢えただけで、無事に帰ってきてくれただけで満たされてしまって。
「・・・それで、できたの?」
「あとで話す。」
「あとで?」
それから私たちは全く関連性のない世間話をする。富田さんも仕事のことも触れず。そして酔いだけが漂うはずなのにどこか妙に冷めている。お互い余分なことを言わないように神経を尖らせている。ほんのちょっとでも琴線に触れれば、土石流のように痞えていたものが吐き出されてしまう。それをわかっているのだ、志生も私も。
店を出るとまた同じように一気に温度が変わり、寒さがまたたく間に身を包む。今度はお互い何も言わずとも、あらかじめ決められた約束のように身を寄せ合う。アルコールと寒さのせいということにして。