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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第113章―放浪―

 君の顔を何度思っただろう。君の声を耳に何度蘇らせたことだろう。君に逢いたくて、逢いたくなかった。君を思い出して、君を消していった。朝が何度来たか、夜を幾度越えたか、そんなことも分からなくて。

 知紗さんのあの小さな身体が真っ白な小さなかけらだけになったのを見た時、俺は萌がどうしてここにこなかったかわかった。通夜までならそれまで知っている知紗さんのままだが焼かれてしまえば・・・。正直俺はあの白いかけらだけの彼女を見た時気が遠くなりそうだった。焼却炉に入ってゆく棺を見るのがつらくて、でももっとつらかったのは彼女の両親だった。お義母さんは知紗さんの名前を呼んで泣き叫んだ。お義父さんはそんなお義母さんを抱えて言った。「あの()は一生懸命生きた。あきらめてあげなさい。」と。

 俺が知紗さんに書いた婚姻届は知紗さんとともに棺に入った。俺が入れた。知紗さんと共に昇天されるのが一番いいと思った。俺は知紗さんと夫婦になったつもりでいたけど、それはどこまでいっても“つもり”だった。つもりだったから、必要以上に夫婦ということを意識していたのかもしれない。知紗さんに「志生と呼べない。」と言われた時にそれに気づいた。萌とはそんな意識なかったのに。でもだからこそ俺と知紗さんは深い絆が築けたのかもしれない。お互いを思いやるという土台のもとに。そう思いたい。つもりだろうがなんだろうが、夫婦という時間を過ごしたと。

 知紗さんの両親は俺に本当に感謝してくれた。「君のおかげで娘の人生は幸せだった。」と。「親では与えられないことだった。」と。それを言うのがどれだけ身を切る思いだったか。それは子供を持ったことのない俺にも十分理解できることだった。

 知紗さんの葬儀が終わった後、父親が言った。

「もう充分だから、これからは君の人生を生きなさい。私にできることがあれば力になろう。」

でも俺は何も要らないと言った。知紗さんとの思い出だけで十分だと。ただできれば、この先来る知紗さんの法事には家族として呼んで欲しいと。父親はそれを聞いてまた頭を下げ、「こんなことしかできないが私のことを哀れと思って受け取ってほしい」と封筒を差し出した。それの中身が何なのか容易に想像できたので丁重に断ったのだが、この父親は父親なりに精一杯の気持ちで俺に何かを返そうとしているんだと思って結局受け取った。でないと父親としての身の置き所がないのだろう。俺は礼を言って荷物を片づけ、告別式の次の日には富田家を後にした。

 俺はそのまま実家には帰らず、駅に行き適当に目についた電車に乗った。実家に電話してそれを告げるとお袋は一言だけ言ってくれた。「必ず帰ってきなさい。待ってるからね。」と。そして俺は一瞬迷ったけどその足で携帯を解約した。誰からも連絡を受けなくて済むように。

 俺は行くあてもないまま電車を乗り継ぎ、その日行けるところまで行った。駅を降りると思ってたより田舎で、電車から見えたホテルの看板は看板のみだった。仕方ないので駅員に「この近くで宿はないか」と尋ねた。「ないけど、俺が一人暮らしだから今夜一晩なら来るか?」と言ってくれた。会ったばかりの、どこの人間かもわからないのを泊めるのかと訊いたら、「嫌ならいいが今日はもう電車は来ない。それにあんたがまともかどうかくらいわかる。」と言ってくれたので俺は素直にそれに甘えることにした。

 駅員は俺より10歳年上だった。二人で酒を呑んで出来合いの食事をした。俺は彼に、俺がこんな所に来た理由を訊かれると思っていたが、果たしてそんなことはなかった。俺たちは一通りの世間話をし、彼は「朝が早いから」と早々に布団を敷いて眠ってしまった。

 俺は次の日彼と共に起き、朝一番の電車に乗って移動した。彼に礼を言い、「少しばかりだが」とティッシュに包んだ金を渡そうとしたが彼は頑として受け取らなかった。俺は少し迷って、彼がトイレに行ってる間に彼の制服のポケットにそれを突っ込んだ。


 そんな風にして毎日電車に乗って適当な街に行く日がつづいた。とにかくあのままあの土地にいたくなかった。それだけだった。逃げたいだけ。知紗さんのことも萌のことも考えたくなくて、でも考えなければこの先の自分の人生の方向性が見えないと思った。その為には一人になりたかった。誰もその思考にいれたくなかった。知紗さんの父親はずいぶん大量の金をくれたようで、数えたことはなかったが贅沢をしなければ簡単に減る金額じゃなかった。

 電車からぼんやりと外を眺めると、日本は案外広いんだなと思った。仕事であちこち飛び回っていた頃はそんなこと考えなかったが。そしてなるべく周りの明らかなビジネスマンは見ないようにした。今自分は自由の身なのだけど、それは裏返せば誰からも必要とされていないということで、それは俺くらいの年齢の男にとってはある意味かなり精神的にきついことだった。

 最初の3〜4日は本当に意志的に知紗さんのことも萌のことも仕事のことも、とにかく自分の今の状況を考えないようにした。目の前に転がってることだけに集中しようと努めた。やがてだんだん冷静になり、これから自分はどうするかどうしたいか、どうするべきなのか考え始めた。考え始めたら止まらなくなった。俺は本当に知紗さんを幸せにできたのか。彼女は人生の最後に俺と過ごしたことを本当に満足したのだろうか。「志生と呼べない。」と言わせてしまった。それは俺の中に萌を見ていたからだ。確かに萌を隠そう、忘れようとしていた。でもそれを知紗さんに気づかれるのは致命的ミス。それでも俺は俺なりにその時その時に自分が()し得るベストを尽くしてきたと思う。それは知紗さんを愛していたからだ。今も愛していると言い切れる。

 正直に言おう。俺は知紗さんも萌も愛している。それが一番しっくりくる。だから知紗さんとの結婚も決して同情じゃない。実際は結婚はできなかったが。でも俺は結婚したのだと思ってる。届けも知紗さんが持っていった。天という誰にもさわれないところに。

 萌は・・。萌は俺の精神的拠り所だ。彼女の存在そのものが俺を慰める。癒す。いつでも。何かの壁にぶつかった時真っ先に思うのは彼女だ。萌ならみっともない自分もさらけ出せる。ありのままの自分を。知紗さんを見送り、知紗さんの父親から「これからは自分の人生を生きなさい。」と言われた時、すぐに萌の顔が浮かんだ。あいつは一人で(元)恋人の死を乗り越えようとしている。もがいている。こうしてまともに誰かの死の寄り添えた俺でさえこんなにしんどいのに、あいつはたった一人で誰にも言えずに“死”を抱え込んでいる。すぐにでもそばに行って「全て終わった。」と言ってやりたいと思った。でも何かが疑問だった。俺の心が。俺は萌を支えるという名目で、実は自分が知紗さんを失った穴埋めを萌に求めているのではないかと。結局萌に甘えたいだけなんじゃないかと。色んな考えや気持ちが脳裏に浮かび、それは取り留めなくこんがらがり混沌を極めた。

 やはり今萌に逢いに行くのは得策ではない。今萌に逢いに行ったら萌が告別式に来なかった意味がなくなる。萌は俺に知紗さんの死を俺一人で受け入れてほしかったのだ。だからこそ萌ははっきりと俺と別れたのだ。中途半端な関係にしなかったのだ。今の俺では萌が納得できる状態じゃない。 

 でもこの先、彼女を他の男に守られるのは嫌だった。萌が他の男を愛して受け入れるなら仕方ないが、そうでないなら俺が見守りたいと思った。結婚とか、そういう肩書にとらわれずに二人でいられないものか。それも俺の甘えなんだろうか。萌はどう思っているのだろうか。


 答えが見つからないまま海に近い田舎町で3日ほど過ごした時、防波堤でビールを飲みながら水平線を見ていると、一人の女性がやってきて俺におにぎりをくれた。

「ハイ、食べて。」

「・・・?」

俺がどう返事したらいいか分からず黙っていると

「酷い顔して。私知ってるのよ。あなたおとといからここにいるわよね。」

と言った。

「あそこの旅館に泊まってるでしょう?でもあなたろくに食べてないわよね。わかるのよ、私。そういうのが。」

「・・・・。」

「・・・私もそうだった。」

「?」

彼女はそのまま俺の隣に座って話を始めた。要約するとこんなことだった。

 自分の夫は漁師で、自分たちは子供に恵まれなかったがとても幸せだったと。ある日、毎月決まってきていた生理が来なくてそれを夫に話すと、とても喜んで今日は漁は一人で行くからお前は病院に行けと言われた。いつも漁には二人で出ていたので、病院はこの次でいい、自分も漁に行くと言ったのだが、夫はどうしても病院に行ってたしかめて来い、もしそうならこんなめでたいことはないと言って聞かなかった。それで病院に行った。結果は妊娠ではなくて、ホルモンのバランス崩れだけだった。落胆して戻ってみると、旦那の船が事故にあって亡くなっていた。最期を看取ってくれた人が言ってた。「俺の嫁と子供を頼む、が遺言だ。」以来毎日海にきて死んだ夫に謝っていると。すべて申し訳なかった。最後まで一緒にいられなくて本当に悪かったと。

 


 俺は黙って話を聞き、話が終わっても黙っていた。彼女は俺と大して変わらない年齢に見えたが、本当はもう少し若いのかもしれないと思った。日焼けした肌が本来より老けさせて見える気がした。

「あなた、大切な人を亡くしたんじゃないの?」

いきなり言われて俺は驚いて彼女を見た。彼女はやっぱりといった顔をした。

「ずっとあなたの様子をうかがってたの。ほら、あそこ。あの屋根の赤い家が私の家なの。」

彼女が指をさす方に確かに家が見えて、なるほどそこからはここが丸見えだった。

「ずっと死んだ人を追っていても仕方ないわ。」

「俺は別に・・。」

「そお?」

「・・・。」

 俺はぽつりぽつりと俺のいきさつを話した。彼女は黙って聞いていたが、話が終わるとこう言った。

「じゃあなたにはまだ守る人がいるんじゃないの。」

「俺は守りたいと思ってるけど、彼女がそう思ってるかはわかりません。」

「そんなのじかに聞けばいいじゃないの。」

それができれば・・って言おうとした時、俺の中で何かが揺らいだ。そして彼女もこう言った。

「生きてるからこそ話せるのよ。」

「・・・。」

「死んでしまったらもう声は聞けないのよ。わかってると思うけど。・・・生きてる限り自分の物差しで測らないで相手の心を訊くべきだわ。」

・・・・そうだ。そろそろ現実に目を向けなければ。いい年して、一人何やってんだ。あいつが逃げないでいるのに。

「俺、帰ります。ありがとう。」

「私こそ。実はあなたちょっと夫に似てる。・・嬉しかった。どうか幸せになってね。その・・、亡くなった方も、一番望んだのはあなたの幸せだと思うよ。」

「あなたも。」

「大丈夫よ。もうずいぶん悟れたし、海に来ればあの人がいるし。」


 俺はそのまま駅に行き、来た電車に乗って自分の街を目指した。思えば知紗さんが亡くなってあの土地を離れてもう1ヶ月以上経っていた。

 電車を乗り継ぎだんだん自分の街が近づいてくると、俺の気持ちはどんどん萌に逢いたいという一心になっていった。とにかく逢いたい。逢って言いたい。俺達が互いを支えあう方法を探そうと。俺も知紗さんを想ってる。萌も死んだ人を想ってる。でもその一方で俺たちは互いを必要としている。互いにしかわからない気持ちを共有している。他の人間では埋められないものを。

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