第111章―混沌とした確信―
「まぼろしの跡」を読んでくださる皆様。とうとう111章を迎えました。本当にありがとうございます。だんだん終幕に向かってきました。もう少しお付き合いいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。樹歩
二週間が過ぎた。私は通常の勤務を通常にこなしていった。一度実家に帰り、久しぶりに家族と食事をした。台所にいた時、母から志生とどうなったのかを訊かれたので、「結婚への価値観がどうも違ったみたい。今冷却期間をおいてるけど多分別れると思う。」とだけ言った。どうしてかわからないけど、「もう別れた」と言えなかった。何も訊かれたくないだけだったのかもしれない。母はそれ以上何も訊かなかったが、ふうっとため息をついた。
志生からは何も連絡なかった。私からもする理由がなかった。ある休みの日、あのサンドイッチの美味しい喫茶店に行った。また客がいなかった。マスターはカウンターで雑誌を読んでいた。そして店内にはジャズが流れていた。私は今度はカウンターの席に座り、マスターと世間話をした。本当に、ここに特記することがないような世間話。私の職業が看護婦だと知ってもマスターには特別何も思わないようだった。世間では割と看護婦と聞くと、ここぞとばかり健康相談みたいな話をされることが多いのだが。私はマスターと取り留めない話をして、そこで2時間くらい過ごした。帰る時、マスターが言った。
「私はいつもひとりが多いから、こうやって女性と話せるのは嬉しいんだけど、君は恋人とかいないのかな?」
「・・・いないんですよね。別れてしまって。」
「おや。それは悪いこと訊いちゃったね。」
私は首を振った。「いいんです。でも・・。」
ここのサンドイッチを彼に食べさせたい、と言おうとした時、後ろから客が入ってきたので話はそこで終わった。私はそのまま店を出た。車を運転しながら、なんとなく最後のセリフは言わなくて正解だったな、なんて思った。そして急に志生のことを思い出した。
志生はどうしているだろう。富田さんを失ってから志生は。仕事を探しているんだろうか。それとも富田さんの家族から何か頼まれて、まだ富田家にいるんだろうか。
私の車の後方から夕焼けが迫ってくる。車の中が真っ赤に照らされる。なんだか急に切なくなる。今までの沢山のことが浮かぶ。志生との出会い。寝顔に惹かれた。あの人との別れ。そしてあの人の自殺。富田さんの出現。志生との幸せな時間。別れ。あの人の奥さんとも出会った。そして富田さんの死。沢山の情景が映画の回想シーンのように私の目の前を廻った。胸が詰まる。涙がにじむ。志生に逢いたいと思ったわけじゃない。志生が恋しいとか、そういう感情とは違う。そういうことではなくて、こんな切なさや寂しさを私たち二人は互いによくわかっていながら、でもお互いを慰めあうことさえできないのだということが私を自然に泣かせたのだ。車と女一人と夕焼けは、そういうシーンによく似合う。私は運転しながら涙が流れるのを放っておいた。きっと私は志生をあきらめているけれど、志生を好きな気持ちは変わらないのだ。あんなに愛して、一生をともに歩いていこうと思った人なのだから当たり前だ。どんなに否定したくてもやっぱり志生の存在を私の中から消すことはできない。できない。あの人に申し訳ないと思う。あの人を忘れることは絶対にあり得ない。きっと日々思い出し、そのたびに苦く思うだろう。それでも私は人を愛する気持ちをもっていたい。穂村志生を愛しているという気持ちを。たとえ一生結ばれなくても。結ばれる、結ばれないに縛られない愛し方をしたい。愛する気持ちがあれば、愛は永遠に続くはず。育ってゆくはず。
唐突に湧き上がるその感情を私は抗わなかった。出口のない、出口を求めなかった私がようやくたどり着いた光だと思った。雲間から一筋の光が差し込んでいた。それは朧げな霞がかった光だったけど、私には涙を流すのに充分ふさわしい感情だった。
それから何日か過ぎた。その間、ずっと私の心は行きたいまま彷徨っていた。あの人の死を知ってから封印した想い。志生と生きるためにすべてに嘘をつき続けることを決心したあの日。富田さんの所へ行くという志生を止められなかったあの時。私は本当はどうしたいのか。どうしたかったのか。
・・・・・志生と生きたい。やっぱり志生と生きていきたい。一緒になれなくても。友達のままでも。
何度考えても、どの角度から思っても、結局その答えにたどりついた。
そして、志生にそれを伝えたくなった。志生がどう思うかはわからなかったけど、志生のことは志生が決めればいいのであって、私は志生をどうしようとまでは思わなかった。
ただ、私の気持ちを伝えたい。私たちは本当に大切なものを、片翼と呼べるくらいのものを失った。この傷は一生癒されないし、まして私のは償って償いきれるものじゃないだろう。忘れてはいけない。あの人の死を。富田さんの無念を。愛情の渦の中で消えていった生命を。でもこの世で唯一お互いの心を分け合えるのは・・・。悲しみを悲しみのまま分かち合えるのは・・・。私たちにとっては私たちしかいないんだということを。少なくとも私にとっては志生しかいないんだってことを、志生にとっても私だけしかいないんじゃないかってことを伝えたい。
私は何度も志生の携帯番号を眺め、何度もボタンを押したくなり、そしてその度に躊躇してやめた。志生には志生の気持ちがあって、今志生が何を考えているかと思うと、この混沌とした気持ちをどう伝えたらいいのか本当に分からなかった。
そして私が意を決して志生の携帯番号を押したのは、富田さんのお通夜からちょうど1ヶ月になった日だった。志生に声を最後に聞いたのが随分遠い日に思った。
果たして志生の携帯は志生の声を伝えなかった。あったのは機械で造った女性のアナウンスの声だった。
「コノ電話番号ハ現在ツカワレテオリマセン。」