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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第110章―泥水浸水・サンドイッチの救い―

 結局私は富田さんの告別式には行かなかった。眠れなかったこともある。なかなか眠りにつけなくて、布団をかぶって色んなことを考えていた。あの人のこと、奥さんのこと、志生、富田さん・・・。確か春まではあの人しかいなかったのに、こうして冬のはじめにはあの人がいなくて、その間に出会った人とは別れて、一人になってしまって・・・。

 なんだか普通に切なかった。なんだか世界中で自分が独りぼっちになってしまったかのような気持ちがした。あの人はどうして私を迎えに来ないのだろうなんて思った。富田さんは今どこにいるのだろうなんて考えた。そうしてる間に涙が出てきて、頬を伝ってる感触を感じていた。そして多分眠りに落ちたのは、夜中というより朝方に近い時刻だったと思う。目覚ましもかけないで眠ったので、目が覚めた時にはもう午前10時近かった。

 “告別式は12時からだったな・・。”急いでしたくすれば間に合う時間だった。でも私は行く心積もりはなかった。富田さんのあの寝顔が、あの美しい顔、身体、すべてが、今日焼かれてしまうのだ。あの棺と共に焼却炉に入って・・。そう思うといたたまれなかった。その場面に志生は立ち会わなければならない。私は心底同情した。もう1度富田さんの顔をみたい気はした。今日を逃したら、もう一生、あの顔には会えない。あの人を思う時と同じように、何もない(くう)(おぼろ)げに浮かぶ輪郭を追い求めるしかない。後悔するかもしれない。そう思った。でもやはり行かないことにした。私は思いなおして浴室へ向かい、シャワーを浴びた。


 部屋にいても落ち着かなく息がつまりそうだったので、外に出ることにした。玄関のドアを開けると、一瞬でそこはもう冬の始まりだった。空がどことなく暗い。それでも空を見上げてしまう。どこかにあの人がいる気がして。ふと、そこから見える工場の煙に目がいった。薄暗い空にまっすぐ立ち昇るひとすじの煙が見える。それが富田さんの身体を焼く火葬場の煙に見えた。実際はそうじゃないのに、想像とダブってそう見えてしまう。その想像はやがてあの人に変わる。あの人が火葬されている頃、私は何をしてたんだろうか。私が触ったあの腕や背中が焼かれていってた時。私を慈しんでくれたあの指先が、あの優しい瞳と口元が焼けていった時・・・。

 ・・・やめよう。考えない方がいい。考えたところで誰もどうなりはしない。死んだ人は死んだ人なのだ。やっとあの人の死を私なりに受け入れられて来ているところなのだ。そして私の脳裏にあの夢の光景が浮かんだ。嫌だ。怖い。あの世界に引き込まれたらもう戻れない。私の精神は完全に破たんする。私は生きているのだ。呼吸をし、手足を動かし、今日があり、明日があるのだ。でも、昨日の私と今日の私が同じだなんて誰が言える?

 私は車に乗り、あてもなくただひたすら思うままにハンドルを回しつづけ、頭に次々に浮かぶ(よど)んだ靄を払うしかなかった。払っても払っても暗い思考は泥水のように私の脳裏を浸していった。2時間ほども走った時、目に入った喫茶店に車を停めた。家から結構な距離だった。

 小さなお店だったが、中に入るともっと狭い感じだった。木目の床と、オフホワイトの壁。狭いながらも落ち着いた店内だった。“あたり”、と思った。初老というには少し早いマスターがカウンターに一人座っていた。私は窓際の2人用のテーブルを選んだ。マスターがメニューと水の入ったグラスを持ってきて、小さい声で「いらっしゃい。」と言ってくれた。

 メニューを開いたら思いのほか内容が豊富だった。コーヒーや紅茶の種類はもちろんなのだが、サンドイッチやパスタなどもそこそこあった。それを見ていたら急に空腹を覚えた。・・いい兆し。食欲が出てくるようなら、まだ私は大丈夫だ。

「あの・・このミックスサンド。それとミルクティーを。」

「はい。少し待ってね。」

マスターがメニューを持ってカウンターへ戻る。私はため息をついて外を眺めた。・・もう告別式は終わっているだろう。時計はもう3時を過ぎていた。火葬が終わっていれば、もう富田さんの肉体は亡くなって骨だけになっているだろう。否が応でも想像力が働いてしまう。私は何とかそれを遮ろうとした。と、その時店内に音楽が流れ出した。

 マスターがレコードをかけてくれたようだ。静かなジャズ。私は何気なくマスターを見た。目があって、彼はちょっと微笑んだ。しばらく経ってサンドイッチとミルクティーが運ばれてきた。

「ごゆっくり。」

と一言マスターは言ってくれた。私も「ありがとう。」と返事を返した。

 一口サンドイッチを口にした。瞬間おどろいた。とても美味しい。こんなにおいしいサンドイッチは初めてだ。そしてミルクティーも。茶葉から点てているのがよくわかった。私はまたマスターを見てしまった。見たというより今度は凝視した。でも彼はカウンターで雑誌を読んでるようで今度は目が合うことはなかった。私は夢中でサンドイッチをほおばった。挟んでるハムと野菜、チーズと海苔、卵。そしてバターとからしのバランス。絶妙とはまさにこれを言うのかと思うくらいの出来の良さだった。

 食べながら、そのおいしさを味わいながら、私はさっきよりも元気になってきている自分を感じていた。食べる。食べられる。大丈夫。私は大丈夫。生きているんだもの。

 ふと昨日の志生を思い出す。志生もきっとろくに食べてないだろう。このサンドイッチ、食べさせたい。私の想像はいつの間にかこの喫茶店に風景が変わっていた。暖かな午後、志生と私がこの喫茶店のこのテーブルでサンドイッチを食べている。彼はコーヒーを飲んで、私はミルクティーを飲んでいる。静かな、大きい声を出す必要のない午後。

 ・・・そんな日が来るのだろうか。いつか、そんな風に過ごせるようになるのかな。もしそうだとしたら、その時私と志生はどんな関係になっているのだろう。

 サンドイッチを全部食べ終わると私は本当に満足した。食べることでこんなに救われるとは。今更ながらに食べることの大切さを知った気がした。

 私は席を立ち、カウンターの方へ行き、

「ごちそうさまでした。お会計お願いします。」

とマスターに声をかけた。マスターは雑誌を置いてにっこり微笑んだ。とても素敵なロマンススマイルだった。雑誌は思ったとおりジャズの雑誌だった。

「とても美味しかったです。」

「どういたしまして。」

「また来ます。」

「いつでも。」

そして店のドアを開ける。そこで初めて客が自分一人しかいなかったことに気付く。もう外は少し夕暮れに近づいていた。

 

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