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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第109章―通夜―

 志生は富田さんの家族と共に親族の席に座っていた。焼香に訪れた客の中から「え?娘さん再婚したっけ?」というひそひそ声が漏れていた。志生は中央で微笑んでいる富田さんの写真をじっと見つめていた。いい笑顔の写真。そしてその写真の周りを沢山の白い花が取り囲んでいた。

 志生は私に気づかないようだった。いや、誰も見ていないように見えた。多分志生は今、富田さんとのあたたかい日々の回想に身を沈めているのだろう。その中で富田さんを抱きしめ、また抱きしめられているのだろう。

 読経が始まり親族の焼香があり、列席者の焼香になった。私も順番で列に並んだ。だんだん富田さんが近づいてくる。真っ白な無数の花。永遠に時の止まった笑顔。そしてそこには寝棺があった。その中に富田さんは横たわって眠っている。そこにいる。

 とうとう目の前に富田さんの遺影だけになった時、私の胸に急激に何かが込み上げてきた。言葉では言い表せない感情。悲しみ、悔い、追慕・・・。一瞬私はその場を忘れて立ちすくんだと思う。そして後ろの人から肩をたたかれハッと我に返った。慌てて焼香をして親族の方に向かって一礼する。そこで初めて志生と目があった。志生の目は私に感謝を伝えようとしていた。それは紛れもなく、妻を亡くした夫の眼だった。 



 お通夜が終わり、明日の葬儀の日程が告げられるとお客は一斉に帰りだした。何人かは富田さんの眠っている棺の方へ赴き、顔をのぞいていた。その中には私の病院の院長の姿もあった。あ、そうだったと思った。目頭を押さえるご婦人も見えた。

 院長の姿を見たので一瞬迷ったが、私もやはりひと目富田さんの顔を見ておこうと思った。顔を見たからといって、彼女が私に言いたかったことが本当に野瀬さんから聞いたことなのかなんてわかるわけもないのだが。私は富田さんの周りから人がいなくなるのを待った。院長もすぐ親族の方へ歩き出した。私はほっとして、目立たないところに立っていた。そこへ志生がやってきた。

「来てくれてありがとう。」

「ううん。」

「隣の部屋で本当にささやかだけど食事の用意があるよ。よかったら・・。」

「ううん、いい。ありがとう。富田さんとお別れしたら帰るわ。」

「そうか・・。明日は仕事?」

「ん・・、一応休みだけど・・。」

「よかったら最期の別れに来てやってくれ。」

「そう・・ね。できたら。」

「・・・。」

志生はそれ以上何もいわなかった。そして軽く私に頭を下げると式場の外へ向かって歩き出した。食事の席の方へ向かったのだろう。やがてだんだん人がいなくなってきた。私もようやく富田さんの棺の方へ一歩を出した。

 綺麗・・・。富田さんの顔を見た時、まずそう思った。もっと痩せこけてしまってるのじゃないかと思ったけれど、確かに痩せてはいたけど、まだ頬に膨らみが見えた。尤も亡くなったあと死後処置が入る。その時に頬にも少し専用の綿をつめるので、そう見えただけかもしれない。でも、だとしたら腕のいい看護婦がしたと思った。中にはうまく綿をつめられず、死後硬直で口から綿がはみ出るなんていう、患者さんに本当に申し訳ないことになってしまうこともある。逆に綿が足りずに、「安らかなお顔」が崩れてしまうこともある。

 富田さんの顔は本当に自然な、彼女本来の美しさがそのままそこにあった。それは少しだけ私に嫉妬心を起こさせた。

 きっと志生はこの顔を胸に、記憶に、心に焼き付けたことだろう。深く深く刻んだに違いない。こんなに綺麗な女性と私と比べることなんて、もはや志生にはないだろう。

「富田さん・・。」

静かに小さく声をかける。今にも瞳を開いて返事をしそうだ。でもそこには底なしの沈黙が広がっているだけだった。



 もっと色んな思いが込み上げてくると思った。実際さっきはそうだったのに、今は何も感じない。もう苦しむことないのですね・・。もう、病気の痛みに耐えることも、朝が来るかわからない恐怖におののくこともないのですね・・。もう・・・。

 棺の上に私がこぼした涙が散った。私は慌ててハンカチでそれを拭いた。そして、棺のそばを離れ、足早に式場を後にした。

 外に出ると風が冷たくて、私はコートの襟を立てながら自分の車へと急いだ。あたたかい紅茶が飲みたい。うちへ帰ろう。と、そこへ携帯が鳴った。志生かな、と思ったら違った。潤哉だった。

「もしもし。」

「オー、久しぶり。元気か?」

「・・あんまり元気じゃない。」

「どうした?まだ失恋から立ち直れないか?」

「・・富田さんが亡くなった。」

「富田・・?ああ、あの相手の女性か。そうか、脳腫瘍だったっけか。」

「うん。今お通夜終わったとこ。」

「え?今?ゴメンゴメン、切るよ。」

「ああ、いいんだよ、もう式場出てきたから。自分の車だよ。」

「本当?・・いや、ゴメンな。まさかそんな所へかけるつもりはなかったんだ。」

「わかってるよ。」

「いや、ここんとこ話してないからどうしてるかと思ったんだ。まさかこんなタイミングになるとは。」

「いいよ、大丈夫。ちょうど誰かの声聞きたいと思ってたし。」

「そうか。」

「でもこの駐車場出ないといけないかな。」

「今から帰るの?」

「うん、帰ってご飯食べるよ。ここ寒いし。」

「あー、今夜はちょっと冷えるな。気をつけて帰れよ。色々あるだろうけど、ちゃんと食って寝ろよ。」

「うん。ありがとう。」

「じゃ、また。」

携帯を切って車のエンジンをかける。ほんの少し友達の声を聞いただけでずいぶん気持ちが落ち着いてることに気付く。徐行しながら走りだす。と、バックミラーに式場の扉から志生が出てきたのが見えた。誰か探しに出てきたみたい・・。私?

 でも私はそれには気付かなかったことにしてそのまま車を走らせ、駐車場から国道の通りに出た。なんとなく今志生と話したくなかった。今はお互い、富田さんのことだけ思う方がいい。顔を突き合わせれば否応にも他のことが浮かぶ。少なくとも私はそうなのだ。

 そして自分の部屋に戻ると、冷えた部屋にまた身震いしながら暖房をつけた。とりあえず熱い紅茶を注ぎ、少し牛乳を入れてミルクティーをつくる。砂糖も多めに入れた。

 ベッドに座り、熱い液体をのどに流す。ため息が自然に漏れる。もう富田さんはいない。どこにも。あの美しい寝顔だけ残して。私はいつまでもぼんやりとミルクティーの入ったカップから出る湯気の行方を見つめていた。

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