第107章―理不尽としか言いようがない―
そして夢を見た。久しぶりにあの夢を。
地の果てまで続くと信じるしかない砂浜、夜空には隙間のないほどの星、なのに真っ暗な景色の遠くにうっすらと朝焼けか夕焼けか分からないが赤く染まっている部分が見える。
私は夢の中で思う。これは夢だと。またこの世界に来てしまったと。私はもう誰かを呼ぼうとはしない。口を開くのが怖いのだ。足も動かさない。少しでも動いたらそのまま砂に足を取られ、以前のように砂の海に沈んでしまうだろう。そして生きる屍のようにギリギリの呼吸機能のみ残されて、私は身動きをすべて奪われてしまうのだ。・・・だから動いてはいけない。微塵も。ほんの少しも。そして私は自分に起こっているこの理不尽を呪いたいと思う。いったい誰が、何が、なぜこんな仕掛けを私にするのだと思う。・・わかっている。多分この世界は私が造った世界なのだ。他には誰もこんな酷いことは思いつかないだろう。この現象は私の自分に対する仕打ちだ。でもそう信じたくないのも同じ気持ちの中にいる。もうこれ以上蛞蝓に蛞蝓だと言い聞かせなくてもいいじゃないか。どんなに償おうとしても、この心以外に何の代償を捧げればいいのだ?もう充分蟻地獄に堕ちるのを味わったと思う。・・まだ足りないのだろうか?
永遠に死の影と負の心の連鎖を抱えて、でも身動きをとることも許されず、日々平然と暮らしていることがどんなに切ないか。自分で自分の頸を絞める生活。安らぎなど求めてはいけないと言い聞かせる生活。自分以外のすべての人に嘘をつき続けることの苦悩。誰かに許しを請うことさえ途方に暮れる悲哀。
やはり志生と私では失ったものの大きさこそ似通ってるが、形がまるで違う。どこも交差しない。かすりさえしない。志生は富田さんの分も人生を彩って生きるべきだけど、私は十字架を背負い、茨の鎖をつけた足を引きずりながら、己を蔑んで生きてゆくしかないのだ。その結果の象徴がきっとこの夢なのだ。
それでも私は本能的に砂地に足をしっかりつけて、絶対砂にのまれないように保っていた。これ以上自分で自分を追い詰めては、いづれ精神を崩壊してしまう。崩壊してしまったら、あの人を忘れてしまうか、あの人を恨むことになってしまう。それだけは避けたかった。私は自分から自分を守るしかない。絶対に精神病になってしまうことだけは避けたい。鬱病の類にもなってはいけない。まともな精神状態の中で、あの人に懺悔を繰り返す。あの人の無念の死を自分の細胞全体に刻み込む。それでしか私には償えない。・・・だからこそなお、この蟻地獄に堕ちることだけは免れたかった。
私は夢の中で立ち尽くしたまま目を閉じて、ゆっくりと呼吸を繰り返すことだけに集中するようにした。静かにゆっくりと鼻から空気を吸う。咽頭を通り、気管支に入り、肺が膨れてゆく音を確かめるくらい慎重に息を吸う。そして肺が一杯になり、体中を酸素が流れてゆくことを見届けてから、今度は口からまたゆっくりと細い線を描くように息を吐く。体中を廻って老廃物の入った空気を静かに吐いてゆく。それだけ。あとは考えない。何も考えない。目を覚ますのよ、萌。まだここに埋もれるのは早い。いつでもここはある。いつでも来ることができる。でも現在じゃない。
気がつくとそこは私の部屋で私のベッドの上だった。夢の中で目を閉じたまま夢が終わって、私はそのまま深く眠っていたようだった。頭がどんよりと重い。眠ったのに全身の力が抜けたように疲れ果てていた。時刻は夜中の4時だった。もうすぐ朝になる。でも冬の朝は明るくなるのが遅い。それは充分私を憂鬱な気分にさせ、ため息をつくのに値した。
お通夜の式場に着いた頃、弱い雨が降り出した。私は何気なく空を見上げた。富田さんが泣いているような気がした。いや、泣いているのだ、きっと。あまりに儚かった自分の人生を。あまりに短かった志生との日々を。あまりに理不尽なその運命を。
そこまで思って、ふと他の気持ちも浮かぶ。どうしてそんなこと決められるのだ?どうして富田さんの人生なのに、儚いとか、理不尽とかを私が決めつけられる?それこそ浅はかな推測にすぎないのに。何の確証もない、そんなこと考える権利さえないくせに。
受付は二つ用意されていた。富田家と付き合いのある企業や団体のもの、それから知紗子さん個人のもの。私は顔をふさぎがちにしてプライベートの方の受付に進んだ。ペンをとり、自分の名前を書いてゆく。私の名前を見た受付の女性が
「あ、暁星さん?」
と声を出したので、え?と思い顔をあげて彼女を見る。でもその女性に覚えはない。
「あ、ごめんなさい。驚かせてしまって・・。どうぞ、続きをお書き下さい。」
・・・?ちょっと訝しく思いながらも私はまたペンを走らせることに集中した。そして、少し迷ったが住所は書かなかった。名前だけ残した。
書き終えて私がその場を離れようとしたとき、さっきの受付の女性が私の方に近寄ってきた。
「先ほどは失礼しました。知紗子からあなたのこと聞いてたものだから。」
「私のことを?」
「ええ。あ、失礼、私は野瀬と申します。知紗子とは古い、そして親しい友人です。」
「暁星萌です。このたびは本当にご愁傷様でした。」
「あなた、本当にそう思ってらっしゃるの?」
「!!どういう意味ですか?・・そう思わなければどうして私がここに来るとおっしゃるんですか?」
この女性は富田さんと志生、そして私とのことを知ってる。でなければそんなセリフが出てこようはずがない。でも納得できない。どうしてそんな事を言われなければならないのだろう?富田さんは私のことをそんな風に思っていたのか。私の声にはいわれのない理不尽な言い方に対する怒りがこもっていた。そして彼女をまっすぐに見た。彼女も私の顔をじっと見ていた。一瞬の間があった。
「・・本当に知紗子の言う通り。」
「?」
「知紗子が言ってたの。とてもいい女性だと。さすが志生が選んだ人だって。」
「・・・。」
私はどう返事したらいいのか分からずに黙っていた。少なくとも私が富田さんの死を喜んでいるかのような誤解はなかったようだ。
「少し話したいことがあるんだけど、今でいいかしら?まだ少しお通夜まで間があるし。ほんの少しよ。知紗子から頼まれてるの。私がもし、暁星さんに会うことがあったら伝えてほしいって。」
・・・富田さんが?私に話?