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まぼろしの跡  作者: 樹歩
106/141

第106章―因果応報―

 

 その夜、私は志生に電話をしてみた。志生とはあの晩から連絡もとっていなかった。呼び出し音を聞きながらあの晩、雨の匂いのする志生に抱きしめられたことを思い出す。そして「時々疲れるんだ。」と言ってた事を。その「疲れる」ことも終わってしまった。もう、「疲れ」の原因はこの世にない。存在しない。100から一気に0になったのだから。

 私はきっと今頃志生は、色んな事を後悔してるんじゃないかと思った。私に富田さんのことを「疲れた」と言ってしまったことも。

 志生は言うべきじゃなかったのだ。もうすぐ命が尽きる人を。「疲れた」と言ってはいけなかった。どんなに疲れたとしても言ってはいけない。声に出し、声という音にして発してはいけない。たくさんの未練や執着を残し、見たことのない黄泉の国におびえる人間の心地を思えば。それは、確証もなく明日という日を来ると信じてる人間からは本当に想像できないくらいの恐怖なのだと思う。いったい世の中のどれくらいの人間が、眠ったら永遠に目が覚めないかもしれないなどと思うのだ?



 志生は電話に出なかった。私は富田さんの家を知らなかった。仕方ないので待った。きっと着信を見れば連絡をくれるだろう。したくなくても。

カレンダーを見る。昨日が友引だった。富田さんが亡くなったのも昨日。多分明日がお通夜だろう。

 私はベッドに横になった。今日夜勤明けで帰ってきてから少し寝たせいか、それとも富田さんのことで神経が緊張してるのか眠くない。もっともまだ8時前だから当り前か。窓際に置いてあるサボ子を見上げる。サボ子。私があの人と別れた日にこの部屋にやってきた。志生との夜も知ってる。富田さんが私を訪ねてきた日のことも。

 すべて・・すべてこの数ヶ月に起きたことなのに。まるで何年も前のようだ。富田さんのあの背中。女らしいあの髪。志生をあきらめきれないと泣いて私に頭を下げた・・・あの情念の()

「サボ子・・。死んじゃったんだって。富田さん。富田知紗子さん。もういないんだって・・。」

「・・・。」

サボ子は沈黙を守っている。私はいつの間にか泣いていた。いつの間にか涙が流れていた。何の涙なのだろう?富田さんの死は私なりにショックだったけど、どうしてこのタイミングで泣けてくるのだろう?どうして?

 ♪♪♪・・・。そこで携帯が鳴ったので私はドキッとして我に返った。涙を指で拭きながら携帯をとる。志生からだった。

「・・萌・・。」

「残念だったね・・。聞いたわ。」

「うん・・。」

「志生、大丈夫?」

「うん、いや、大丈夫じゃない。大丈夫なんて言っちゃいけない。恋人が死んだのに大丈夫なわけないよ。」

「・・・。」

「・・いつか、この日が来ることはわかってたんだ・・。わかってたはずだった・・。でも実際その場になってみると・・。」

「うん・・、キツイよね。」

「・・あっというまだった。散歩から帰ってきて・・、久しぶりの散歩だったんだ・・。最近病状が一気に悪化してきて、よく吐くようになって・・。眠った顔がものすごく青白くて、俺、それを見ると本当につらくて・・。最近じゃ、もういいとも言わなくなっていた・・。ただおびえたようにいつも俺の手を握っていて・・。」

「臨終には立ち会えたの?」

「うん、昼間だったし・・。ここずっと俺朝から夜までそばにいたし・・。そういう意味では知紗さん満足してくれたかもしれない。家族も俺もいたから・・。」

延命処置は?と訊こうとした。悪い癖だ。どうしてそんなこと確認したいのだろう?死んでしまったあとそれを訊いたところで、何一つ変わるものなどない。

「・・今どこにいるの?富田さんち?」

「いや、今自分ちに戻ってきた。明日お通夜だし。礼服もないし。」

「そう。あの・・、明日なんだけど・・。私も行ってもいい?お線香あげたい。」

「ああ、もちろん。知紗さん喜ぶと思うよ。」

「本当に?迷惑じゃない?」

「迷惑なんかじゃないよ。ただ・・、気を悪くしたら謝るけど、俺は身内扱いだから・・、そういう席にいるから・・。」

「わかってるよ。近づかないし、話しかけたりしないよ。うちの院長も行くと思うから、目立ちたくないし。」

・・・・大人の対応。

「ごめん。」

「謝らないで、だってそれは当然でしょ。気を悪くなんてしない。・・本当。」

「・・・・。」

それから富田さんの通夜の式場を教えてもらって電話は終わった。そこは少し街はずれの高台にある、大きな葬儀専門の式場だった。




 電話を切った後、私はそのまま再びベッドに横になった。テーブルには食べた後の皿が残っていた。せめて水に浸けなければ後で面倒なことになる。そう思っていても身体が動こうとしなかった。カラダガウゴカナイ。トミタサンハモウウゴカナイ。ニドトウゴクコトハナイ。

 もう涙は出なかった。その分私の頭の中は、二人の影が交差していた。あの人と富田さん。私の愛した人と、私の愛する人を奪った人。二人は今同じ世界にいる。何もかも私と志生からは遠い世界。手の届かない世界。でも、どうしてだろう。私と志生は同じ世界に生きているのに、まったくそんな気がしない。志生と私はこの世界と二人のいる世界よりもなお、遠く離れている気がする。だから今思えば、さっきの電話でも志生に慰めの言葉ひとつかける気が回らなかったのか。あの深い悲しみを分かち合えるはずなのに、どこかで私は思っている。

「目の前で死んでくれれば納得できなくても“死”を受け入れることはできる。だから志生は私よりいい立場だ。」と・・。

 ずるい。本当に私はずるい。富田さんの死とあの人の死では意味が全く違うのに。富田さんは生きていたくて、あの人は死にたかったのだ。志生はちゃんと自分の立場を全うし、私は何も知らなかったとはいえ、勝手な思い込みのままのうのうとしていたのだ。まったく意味が違う。何もかも違う。それなのに自分の罪を薄くしたいばかりに、富田さんの死をあの人の死と比べる材料にするなんて。なんて汚い考え方をするのだろう。どうしてこんなふうに私の人生が汚れてしまったのだろう。でも誰のせいでもない。あの人のせいでもない。まぎれもない、すべて自分のせい。きっといつか天罰が下っても、私は誰にも何にも責めることはできない。これこそ因果応報なのだ。

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