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まぼろしの跡  作者: 樹歩
105/141

第105章―永遠の越えられない存在―

 

 それから1週間くらい経った頃、私が夜勤中に看護記録をつけてると内線が鳴った。上の階の病棟からだった。

「暁星?亡くなったって。」

「亡くなった?誰が?」

私は他の病棟で亡くなった人がいるのだと思った。夜勤帯は人が少ないので、他の病棟で急変とか亡くなった人がいると他の病棟ナースでフォローすることになっているのだ。

「今すぐ行くよ。」

私は受話器を持ったまま立ち上がって、一通りナースステーションを見渡した。

「違う、違う、暁星。富田さんだよ、富田知紗子さん。」

「えっ?」

「だから富田さん。あんたの知り合いの知り合いだって言ってなかったっけ?」

・・・!!

「そそ、そう、そうだよ。え?、亡くなったの?いつ?」

「今日の午後だって。今向こうの先生から院長に連絡が入ったの。院長、たまたま今日のオペ後の患者を()に来てたからさ。」

今日の午後。カレンダーを見る。

「わかった。連絡ありがと。」

「あんた、葬式行くの?」

「わかんない。」

「行くとしたら院長に会う確率高いから気をつけて。」

「あ、そうだね。わかった。ありがとう。」




 切って沈黙に入ってしまった電話をひとしきり眺める。まるで今富田さんが息を引き取った連絡を受けた感覚。

 実際は今日の午後に、彼女の命の灯は消えてしまったのだ。私がご飯を食べてる時だろうか?シャワーを浴びてる時だろうか?化粧をしている時だろうか?・・・私が何も考えず自分にことだけやっている時、彼女は亡くなっていったのだ。

 私は(つたな)い想像力を最大限使って、富田さんが目を閉じ、呼吸も止まり、その心臓が刻むのをやめるところを思った。延命治療はなされたのだろうか?どこまでの延命をご家族は希望されたのだろう?娘の身体をいくつものチューブやら針やらが入っているのを見るのはどれほどつらく耐えがたいか。それを見たくないと、またはされたくないと懇願した患者や家族を私は何人も見てきている。富田さんは私が思うには延命を拒むタイプの人のように思った。・・・志生。志生はそばにいたのだろうか?臨終の場に立ちあえたのだろうか?今どうしているのだろうか?

 


 今、こうしている時にも一刻一刻と、誰かが命を終えていってる。窓の外は暗い夜だけど冬にしては明るい空で、星も出ていた。

 人は死んだら星になる。そんな事を聞いたのを思い出す。でも私はそうは思えない。それは残された人間が自分を慰めるためにつくられた幻影にすぎない。もちろんそれで満足するならそれは否定しない。誰もが自分なりの癒しやあきらめを求めて生きているし、それは必要不可欠だ。でも・・・。少なくとも私の愛したあの人は星になどなっていない。あの人の身体は、今は骨だけになって、暗い土の中に埋まっているのだ。そして心や魂と呼ばれるものは。それはどこにいったのだろう?今、どこにいるのだろう?・・・わからない。誰にもわからない。だから人は、亡くなった人たちは星になるなどと戯言に近い言い訳で、無能な自分を慰めるのだ。

 私は一生懸命富田さんが亡くなったことを思い描こうとしたけど、やっぱりそんなのは無理だった。実感が湧かなかった。いつもと同じ夜だった。いつもと同じ夜勤だった。私に人生は今日も平穏という船に乗っていた。おそらくとても高い確率で、私は今日死ぬことはないだろう。無事に仕事をこなし、時間が過ぎるのを待ち、やがて朝が来るのだ。でもどうして朝が来ると決まってるのだ?生きとし生けるもの、誰ひとり一寸先の未来さえ知らないのに、どうして朝が来ることを疑わないのだろう。どうして明日また朝が来るなんて信じられるのだ?





 それでも当たり前のように朝はきた。私はいつもように夜勤明けの業務を終えていった。朝の申し送りの時婦長が、「院長の知り合いの娘さんが亡くなったので、院長は明日の夜と明後日は葬儀で出かけます。」と言った。みんな別段普通の顔をしていた。人が一人亡くなっているのに、誰も表情を変えることはなかった。私もなかった。

 ・・慢性化している。私たち看護婦は命に(たずさ)わる仕事をしていながら、あまりに死に対して鈍感になっている。病棟で患者が亡くなっても、てきぱきと業務をこなしてゆく。そして時間になれば何事もなかったようにそれぞれのプライベートに帰ってゆく。私もそうだ。

 実際、患者の死に振り回されるようでは看護婦は務まらない。そして絶対涙を見せてはならない。涙を見せてはならない。ある意味鉄の掟だ。

 富田さんがここで亡くならなくてよかった。正直そう思ってしまう。富田さんがあのままここで入院を続けていて、志生と毎日二人でいる所を見るのはさすがに厳しすぎたし、だんだん死に近づいてゆく富田さんを見るのはもっと厳しい。自分の立場や職業をわきまえる自信がなかった。

 確かに富田さんは私と志生の間を引き裂いた。志生が私じゃなく富田さんを選んだ結果なのだが。でも富田さんが志生を追いかけてこなければ、私たちはあのままだったかもしれない。あの人の死を私が全て葬って、全てに嘘をつきとおす決心をしていたら。そしたら私たちは。でも、それでも富田知紗子さんという女性は私にとって、魅力のたかい数少ない女性だった。あんなに自分の気持ちに正直に生きようとしてる大人の女性はいない。出会った形はどうであれ、富田さんが志生を思う気持ちは私と同じだったし、その物腰はどんなに真似しようとしても、あの年齢の女性ひとにしか出せないしなやかさがあった。今でもありありと憶えてる。私のアパートで見た後姿。ブラウスの襟から覗いたうなじの白さ。病気で痩せていっても、きっとあの美しさは変わらなかっただろう。嫉妬しながらも、彼女なりの魅力を肯定せざるを得なかった。女というのはこういうものだということを、ある意味教えてくれたと思う。

 志生を失っても彼女を憎む気にはならなかったのは、そういうことなのかもしれない。そして彼女が死んでしまっても、その存在の大きさは変わらない。いや、むしろ定着してしまったと思う。絶対越えられない存在。私にとってあの人と同じように。きっと志生も。それくらいのものを、富田知紗子は私たちに残したのだ。永遠に。

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