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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第101章―脳裏の木霊―

 自分の部屋に着いた時にも、まだ動悸は治まってなかった。私はすっかりコートの事も忘れていた。手紙。看護婦。メモ。M。その4つの単語が頭の中をくるくると回っていた。混乱していた私は自分が運転してきたことも忘れてしまい、一瞬どうやって帰ってきたのかと思った。そう、多分自分で車を運転して帰ってきたはずだ。さっき着いたばかりなのだから、それくらい自覚してなければ困る。でもそれさえはっきりしなかった。ちゃんと思い出すのに時間がかかった。それくらいずっと「テガミ。カンゴフ。メモ。M。」だけが私を支配していた。

 あの人の相手が私だとバレたわけじゃない。バレるわけがない。萌、何を怯えてるの?モエ。奥さんははっきりそう言った。バーで聞いたと言っていた。

 あの薄暗いバーで、いや、私にも彼女が見えたのだからそれはいいとして、確かあのバーには音楽が流れて・・・、そう、奥で生バンドが演奏していたようだった。もしかしたら生バンドではなかったかもしれない、でも少なくとも音楽が流れていた。志生が私を呼んだとしたら、私がもう一度店内に入った時だ。どうしても黒いドレスの女性が奥さんか確かめたくて、一度出たのに店内に戻った。あの時。だとしたら奥さんは大した耳の持ち主かもしれない。音楽が流れていて、人がそれぞれ話に花を咲かせているざわめいたあの店の中で、遠くから私を呼んだ志生の声が聞こえたのだ。志生は店内にはほとんど入ってこなかったはずだ。入ってもほんの少し。だって私はバーテンダーに止められたんだもの。だから志生と私の間にはある程度の距離があったはずなのだ。それなのに。


 ともあれ奥さんは私の名前を知った。知っているのはモエということだけ。それからあの人に付き合ってる女性がいた(私)こと。でもいつからかはわからない。そして洋服に残っていた何年か前の学会に日付の入ったメモ。Mと書いてあったけど、それだけ。職場の仲間じゃないとは思っても、実際誰のことかはわからない。

 落ち着け、萌。冷静になれ。冷静になれば、たったそれだけで奥さんが私にたどりつく訳ないとわかるじゃないか。そもそも奥さんは夫の不貞の相手を探すようなことは一言も言ってなかった。ただ孤独に耐えてたのが、それが分かったのをきっかけに我慢できなくなったと言ってただけ。それだけ。それに相手は古い付き合いの友人だと言っていた。その人のことは私は彼から聞いてなかったけど、多分それは聞く必要がなかったからだ。私とあの人との間には誰も、誰一人も入ることはなかった。いや、誰も入れることはできなかった。

 そういう人がいるなら、奥さんがその人に抱かれるのはある意味時間の問題だっただけかもしれない。その横浜の開業医が友人の葬式に行き、傷心しきっている妻を見る。その女性は友人の妻であると同時に自分の愛する女だ。そして友人は死んでいなくなった。・・・彼女を守れるのはもはや俺しかいない。

 三流のメロドラマのようだけど、普通に流れてもそういう気持ちになるだろう。そして二人は結ばれた。それが男にとって思ったより早かったか遅かったか、はたして予想通りだったかは別として。

 このまま奥さんがその人との恋愛に身も心も集中して、今の暮らしに満足すれば、夫の不貞などどうでもよくなるかもしれない。いや、その可能性が高いんじゃないか?今さら相手が分かった所でどうにもなることじゃないんだ。自分が辛いだけだ。あの奥さんのことだ、きっとそんなことくらいわかってる。だから大丈夫。私だとわかる可能性はほとんどない。いやまったくない。絶対にない。


 私はそうやって自分の都合のいい考えだけを思うようにした。事実そうだろうと思った。何も証拠はないのだ。ただ、モエとMが重なってるだけ。何の根拠もない。

 でも私はどうしても胸に蔓延(はびこ)ったドロドロした鉛を消すことができなかった。何か予感した。何かわからない嫌な予感。絶対に逃れられない空気。何故?

 私はその晩ほとんど眠れなかった。ベッドに入っても寝付かれず、寝返りばかりうっていた。



 気がつくと外は雨が降り出していた。え?と思って身を起こす。時計を見ると1時。洗濯ものがベランダにあったのを思い出し、ベッドから出る。肌寒さを覚える。

 窓を開けるとやはり雨が降っていた。霧雨だが。霧雨でもちゃんと音がするのだな、と思いながらふと視線を道路に向ける。と、そこに信じられない光景があった。・・・志生?志生が立ってる?私は自分の目を疑った。こんな時間に外に人がいるだけでもビックリするのに、雨の中で立ってたらもっとビックリする。

 呆然とする私に志生が気がつくまでやや間があった。私が上から見下ろしているのに気がつくと、志生は「えっ?」という顔をして顔を逸らした。二人とも動けなかった。どうしてここに志生がいるのかわからなかった。こんな時間にというよりも、ここにいることそのものが理解できなかった。私はまぼろしを見ているのだろうか?平気なようにしてたけど、志生を恋しがってる気持ちがまぼろしを見せているのだろうか。それともまた生霊なのか?志生の生霊が私に会いに来たのだろうか。

 でもその人は現実に志生だった。顔を逸らしたものの、彼はまた顔をあげて私を見た。暗くて(そこにたまたま電柱の明りが射してなかったら多分志生に気づかない)、表情はわからなかったけど、志生なのは間違いなかった。

 私たちはしばらくお互いを見つめあっていたが、私が彼を手招きした。何故ここにいるのか気になった。しかも霧雨とはいえ夜の雨は冷たかった。室内にいる私でさえちょっと震えそうなのだ。私が手招きしてるのを見て、志生はおどろいたようだった。が、コクンと頷いてアパートの階段の方へ歩き出した。それを見て私はドアの方へ行き、静かに鍵を開けた。もうそこに志生が来ていた。

「・・どうしたの?」

「・・・。」

どれくらいの時間あそこにいたのだろう、志生は思ってたよりずっと濡れていた。酷い顔色。思わず職業病で額に手をあてる。熱はないようだが。でももともと彼は体温の高い人だった。少し発熱したくらいでは体感温度ではわからない。

「・・はいって。」

促すと志生はちょっと躊躇ったが、私が「こんな時間だから、早く。」というと結局中に入ってきた。私はそっとドアを閉め、鍵をかけた。

「・・・ゴメン。」

志生が謝る。何に謝っているのだ?別れた恋人に会いに来た事?こんな時間に来た事?夜中に外に立っていた事?

「・・・何が?」

言った同時にまさかという言葉が浮かんだ。

「ちょっ・・、まさか富田さんが。」

「違う、違う。・・・まだ大丈夫だ。だんだんやつれて来てるけど、まだ。」

・・・・まだ。なんだか嫌な言葉。もっとほかに言いようがあればいいのに。それでも私は安堵のため息をついた。

「じゃどうしたの?」

言いながらタオルを渡す。志生は黙って受け取って、ゆっくりと服の水分を拭き取って手を止めた。

「・・逢いたくなったんだ。」

「・・え?」

「逢いたくなって・・、逢いたくなったらここまで来ちゃったんだよ。」

志生はそう言ってうな垂れた。よく考えればわかることなのに、今夜の私はそれにさえ気づかないほど夕方の奥さんとの事で思考が停止していた。

「テガミ。カンゴフ。メモ。M。」4つの単語がまた回り出した。そしてそれは不意に志生に抱きしめられても、私の脳裏に木霊した。


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