第100章―第三者その2―
皆さんのおかげで「まぼろしの跡」が100章を迎えました。本当にありがとうございます。物語も佳境の真っ最中です。私もラストに向かって悔いのないように、大切に大切に仕上げていきたいと思っています。最期までよろしくお願いいたします。批評、感想などお待ちしてます。質問もどうぞ。樹歩
「あの人がいつから私以外の女性とも関係を持つようになったのか、色々考えたんだけど、全くわからないの。女のカンなんなんて言うけれど、私には当てはまらなかったわね。」
と奥さんは言った。いや、もう奥さんというのは違うのかもしれない。でも他に呼びようがない。
「・・本当に女性がいたと思われるんですか?」
我ながらよく言うと思う。でもその二つだけの理由で夫の浮気(私としては不本意な言い方だし、奥さんも浮気じゃないと言ってるがここで他の言い方が見つからない)を確信したというなら、それこそ“カン”としか言いようがないのだが。
「そうね。それだといろんな疑問が解決するのよ。」
「疑問?」
「そう。日常の小さなことから、どうして気付かなかったんだろうって思うような大きなことまで。だって、何年も暮らしてたんだもの。思い起こせは色々出てくるわよ。」
「・・・。」
確かにそうなのだろう。夫婦というのはきっと。
「でも私が彼と寝たのは、別に主人へのあてつけじゃないわ。あてつけなんて言うのは、相手が生きていてこそ有効よ。私の場合はただ独り身の淋しさを埋めただけにすぎない。」
そう言いながら彼女は空を眺めた。あの初めて会った日、バス停で見た彼女を思い出す。今の言葉は決して私だけに発せられた言葉じゃない。まるで自分への免罪符のように。苦し紛れの言い訳のように。
「ただ淋しかった。淋しくて、誰かの胸で眠りたくて、でもあの人はいなくて。夜中に目が覚めてもいない。夜勤なら明日を待てばいい。でもそれも叶わなくて。もう私の髪を撫でてくれる人はいない。何か尋ねた時、“大丈夫だよ”と言ってくれる人はいない。淋しくて、ただ淋しくて。」
視線を動かすことなく、ぼんやりとした何かを思い出そうとしているかのような顔で。
・・・私は本当になんてことをしたのだろう。取り返しの出来ないことを。私一人が誰よりもあの人を想ってると思った。あの人が奥さんの為に逢えないとドタキャンする度に、これでもかと言わんばかりに酷い言葉をぶつけ続けた。あの人は言っていた。君と結婚は出来ないと。妻と別れる気はないのだと。おそらくそこには、あの人が私と作ってきたのと同じように奥さんと積み上げてきた愛情の積木があったのだ。誰にもさわれない、誰にも理解できない積木があったのだ。あの人は苦しんでいたのだろう。自分の仕事を理解し協力を惜しまない優しい奥さんと、自分と職をともにすることを夢見てストレートに気持ちを表す若い私に。
私が志生に包まれていた時、この女性は独りで自分を抱きしめていたのだ。どこにも行き場のない孤独を、ただ涙で埋めてきたのだ。そこへ今までの夫への信頼を根本から覆すようなことがふってわいた。張り詰めていた糸が、心の琴線が、プツッと切れてしまっても、それを誰に咎められるのだろうか。
彼女の言葉に私は何も言えなかった。彼女も私に返事を期待してる様子はなかった。しばらく気まずい沈黙があった。
「もういいわよね。」
彼女のその言葉の真意がわからず、私は黙って、でも次の言葉を待っている眼を向けた。彼女も私を見た。眼が合うと、にっこりと穏やかなあきらめの笑顔があった。
「私が他の誰かにあたためてもらっても。」
正直私は返事に詰まった。どう言えばいいのだろう。そうだと?違うと?
「・・だって一番欲しい温もりには手が届かないんだもの。」
「・・・本当に後悔なさらないなら。」
私はやっとの思いでそれだけ言った。一瞬彼女の顔が揺れた。・・・これ以上ここにいたくなかった。だんだん自分のしたことの重圧に耐えられなくなりそうだ。何かの拍子に、ふっと口をついて出てしまいそうだ。彼女も私が困ってる事に気がついたようだった。
「ああ、ごめんなさい。引きとめてしまって。」
「いえ。でもそろそろ失礼します。」
私はこのタイミングを逃したくなくて席を立った。そして財布からお金を出して伝票の上に置いた。
「いいのよ。私が出すわ。話を聞いてもらってるんだから。」
「先日もご馳走になりました。何回も甘えさせていただくのは私の本意ではありません。」
彼女の、気のせいかやや親しみを込めた言い方をやんわりと否定するように私は言った。今日はどうしてもご馳走になりたくなかった。
私の言い方に彼女はちょっと硬い表情をしたが、「そうね。」と言ってテーブルの上に置かれたお金をそのままにした。
「失礼します。」
頭を下げて歩き出そうとした時、彼女が言った。
「モエサン。」
「!!」
びっくりして振り返る。一瞬その場の空気が停まる。
「モエさんでいいでしょ?名前。」
「え、ええ・・。」
「あの夜あなたの恋人が呼んでたのを聞いたから。」
・・・そうだったっけ?
「そうですか。・・でももうあの人は私の恋人じゃありません。」
何言ってんだ、私?そんなの奥さんには関係ないのに。
「恋人じゃない?」
「あ、あの、いえ・・。」
思わず言葉を濁す。なんでこんな余計なこと。私のバカ!
「私には関係のないことだものね。あ、ごめんなさい。また足止めを。」
「いえ、そんな。あの、失礼します。」
私はそのまま半ば逃げるように(でも彼女にはあたかも急いでいるように)、その場を離れた。名前を知られた。よりによって一番知られたくない人に。名前を。落ち着け、萌。フルネームを知られたわけじゃないし。でも彼女の言っていたあの人の服から出てきたイニシャル。M。どうしよう。どうしよう。
私は周りにいる人間すべての視線が自分に向けられているような気がした。錯覚だと思っても、纏わりつく嫌悪感をどうしようもなかった。エスカレーターを足早に転びそうになりながら、私はそのデパートの外へ駆けていった。・・・私は何から逃げているのだ?何から逃げられると思っているのだ?・・・たとえ逃げられても、逃れられるわけではないのに。