第10章―絶対的存在・珍しい苗字・重なる唇―
まぼろしの跡第10章…やっと出来ました。読んで下さるすべての方に心から感謝します。樹歩
点滴を射してる間、お互いになんとなく口を聞けなかった。私は点滴の針をテープで留めてから再びトイレの蓄尿瓶を取りに行った。
「石を出してからまた持ってきますね。」
普通に話しているつもりでも、多分声が上擦っているのがわかる。
「まだ溜めるの?」
「石がこれだけかどうかわからないから…、多分また検査で確認すると思うのですが。」
「あ、そうか。痛みがすぐに止まったからもういいかと思った。」
「そうですね、ひとつだけならいいですね。」
私は一応便宜上そう答えたが、おそらくこのまま彼は退院になるだろうと思った。他にも石があれば、こんなにけろりとできないのが通常だからだ。
「…ちゃんと話をしたい。」
彼が言った。そして私の顔を見上げた。まともに見つめられるとまた動悸がしてきた。
「…はい…、そうですね。」
「そうですねって…、さっきの石の話じゃないんだからさ。」
「え?石の話?」
「あはははっ」
?彼は手で顔を押さえながら笑い出した。
「あ、あ、さっきもそうですねって言ったから?」
自分の鈍さに気がついて一瞬恥ずかしくなる。彼はまだ楽しそうに笑っている。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか。」
思わずうつむく。と、その時、彼の手が私の手に触れた。
「ゴメンゴメン、悪かった。」
私達はいつの間にかお互いの手を握っていた。
「…今日は何時に終わる?」
「日勤だから5時すぎ。」
「終わったら会いに来て。」
…コクリと頷く。
好きだとも何ともお互いはっきり言ってなくても、この人に自分の気持ちは通じている…私は確信していた。何故だかわからないけれど、彼のすべてを疑うものがなかった。絶対的存在だった。まるで真夜中から夜明けの始まりの光りが差し込むように。それは不思議な感覚だった。あの静かな寝顔に心奪われた夜から、こうなるのがあらかじめ決められていた約束だったかのような面持ちがした。
私は蓄尿瓶を持って病棟内の採尿室へ行き、中から小さな石を取り出した。ナースステーションでスタッフに穂村さんの石だと報告し、ドクターに連絡をとった。そして外来にいるドクターの所へ出向き、石を見せた。ドクターはちらっと見て
「やっと出たか。じゃあ明日にでも腹の中を確認だ。それ(石)は分析にまわしておいて。」
と言った。
「わかりました。」
検査室へ向かいながらも私は全く別の道を歩いているような気がした。だんだん、先程の彼とのやりとりが、私の頭の中を支配し始めていた。もう、始まっているのだ。彼と私のこれからが流れ始めたのだ。
……ふぅ……。甘美なため息をつく。今夜はサボコに沢山話すことが有りそうだ。と、そこで一瞬立ち止まる。彼との最後のシーンがフラッシュバックする。
「会いに来て?」
ちょっと待って…会いに行く?仕事が終わったあと個人的に患者の部屋に?よく考えるとマズイよね…誰かに見られたら(しかもそれをスタッフに知られたら)面倒だよね…。私はちょっと当惑した。でも、ここで引く事はもちろんできない。それに多分遠からず彼は退院してしまう…。 そんな事を考えてたら、検査室を通り過ぎてしまいそうになった。いけない、仕事仕事。冷静にならなければ…。
「心臓縮まっちゃった。」
彼の顔を見た途端、そうつぶやいた。5時15分。穂村さんの部屋。慣れないことをするのは疲れる…。業務が終わりステーションを出た私は、途中まで他のスタッフと更衣室に行くフリをして、忘れ物があると言いこっそり病棟に戻りここにきた。
「なんで?」
「だって業務が終わってから患者さんの部屋に行くなんて普通ないし。」
「あ、そうか。じゃ何?マズイの?」
「どうなんだろ…?こんな事初めてだからわからないけど、やっぱり普通じゃないですよね。身内なら有り得るけど…。」
「でもこうでもしないと君と二人になれなかったし。」
「……。」
彼の眼が真っすぐにこちらを見据える。
「まず名前を聞かせて。」
「…名前…言ってませんでしたっけ?」
「知らないよ。だって名札もつけてないじゃないか。」
そう、最近の病院では色々なトラブルを避ける意味も含めて、あえて名札を付けていない所も増えている。もちろん、写真付の大きな名札を首から下げている所もあるが。
「暁星萌です。」
「アカホシ?どんな字書くの?」
「アカツキに星です。」
「へぇ、珍しい苗字だね。俺の苗字もあんまり聞かないけどね。」
「苗字より志生って名前の方が珍しいですよね。」
「あぁ、字はともかく読み方がね。」
そこまで話した時突然
「コンコン」
とノックがした。
「!!」
二人とも一瞬固まる。
「ちょっと待って!今パンツ1枚!」
彼が叫びながら、私に指でトイレに入る様示す。
「ほ、穂村さん夕食です。」
夜勤ナースの声…、私は口を押さえ息も止めながら室内トイレに入った。そんな事する必要ないのだが。
「すみません、お待たせ。」
彼がドアを開けて夜勤ナースから夕食を受け取った。
「大丈夫ですか?」
夜勤ナースの声。
「ちょっと着替えただけです、大丈夫。」
パタン。ドアが閉まる。フーッ…胸を撫で下ろす。
「もういいよ。」
彼がトイレのドアを開けてくれた。と同時に
「ビックリしたぁ…」
と一緒に言った。そして眼が合った。クスッと笑う。――その瞬間彼の唇が私の唇に重なった。時間が止まる。景色が、色が、夕焼けが、すべてが止まって…私は静かに眼を閉じた。