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まぼろしの跡  作者: 樹歩
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第1章―彼の事情、私の事情―

 「なんてキレイな寝顔だろう…」

私は身動きも取れないまま、うつむき気味の横顔を眺めた。

 深夜3時。病棟は、まるで生きとしいけるものすべてが息を潜めてしまったように静まり返っている。この時間の巡視は、何年看護婦をしていても慣れない。 バカバカしい話だが、『病院の怪談』話が頭をよぎる。その日に亡くなられた患者がいる日はなおさらだ。私もある晩に誰もいないはずの個室から、ナースコールが何回もきた事があった。もちろん鍵もかけてあるのにだ。怖くて見に行けなかった。

 でもよく考えれば怖がることもおかしな話で、ある瞬間を境に生と死が分かれる事は、この世に生命を授かったものなら当たり前の事だ。たまたま病院という所はそういう事が“日常”にあるだけのこと。いちいち動揺していてはこの仕事は務まらない。

 それでも、この妙な静けさと暗闇が私は苦手だった。ここだけの話だけど、病棟内の患者全員が重症でなく落ち着いている時は、この深夜の巡視をしなかった事もある。そんな日はごくごく稀だが。

 そして今夜はそういう幸運な夜でなく、私はいつものように深夜の巡視をしている。


 今私の目の前にいる彼はやっと寝付けた所だった。今朝(正確には昨日)入院してから初めて顔を確認した。こんなキレイな男性の寝顔は初めて見る気がする。文字通り(死んでるような)静かな寝顔。

 つい1時間前まで、彼はひどい腹痛に苦しんでいた。今日2度めの座薬をいれて、水枕を取り替えた。熱も高かった。

「すみません…。」

彼は絞り出すような声で何度も謝った。自分とあまり歳も違わなそうな私に、いくら痛みと高熱の為とはいえ尻を出すのは辛かったようだ。(しかも2度め)

「大丈夫ですよ。」

私は努めて普通に返事をしたが、本当は少しイラついていた。 彼が1時間前ナースコールしてきた時、私はようやく仕事が一段落して仮眠を取ろうとしていたからだ。うちの病院は勤務が2交代の為、夜勤は夕方4時からだった。夜中になればさすがに疲れる。

 だから、うまく仕事(看護記録とか、朝の採血の準備など)を終わらせていかに仮眠を長く取るかが最大の重要課題だった。とれた睡眠時間によって、明日の明けでの行動範囲が変わってくる。少しでも眠れれば身体が楽なぶん動けるし、全く眠れなければ家に帰るなりバタンキューで気がつくのはたいがい夕方だ。

 そして私は明日、できたら体調を良くしておきたかった。いや、できたらではなく、絶対体調を良くしておかなければならなかった。…事情がある。


 もちろん当然彼は悪くない。患者として当然の主張だ。多分、ナースコールを押すまでずいぶん我慢したのだろう。高熱のわりには冷や汗もみられた。私が彼の部屋に最後に来たのは11時だったから(話し掛けても首しか振らなかったが起きていた)、かれこれ3時間たっている。実はさっきの訪室の時も辛そうに見えたので、座薬を勧めたが彼は首を横に振った。勧められたのを断った分ナースコールしづらかっただろう。私は“3時間も我慢させて悪かったなぁ。”という気持ちと、“だからさっき座薬入れればよかったのに。”という気持ちでちょっと複雑だった。そういう間の悪さもあって、私は処置を終えるとそそくさと退室した。


 彼は今朝、目が覚めてからいきなり激しい腹痛に襲われた。せっかくの日曜日を腹痛で迎え、自宅からわずか徒歩10分のこの病院まで30分以上かかってきたらしい。今日は日曜日だったからたいした検査はできなかったのだが、症状などから尿管結石が疑われた。病気そのものは重病ではないがかなり痛みがあるらしい(私は経験がない)。 実際彼も鎮痛剤を使ったものの、痛みが遠ざかるのはほんの少しの間で、ほぼ1日中ひどい痛みに苦しんでいた。あまりの痛みの為か彼は毛布を頭からかぶって身体を丸めていて、日勤の看護婦が

「顔、ロクに見てないのよ。」

と言っていた。

「せっかく久しぶりに若い男性の患者さんなのに、顔より先に尻を見ちゃった。萌ちゃん顔みてよ、顔。」

と、その先輩は言った。

 看護記録に『腹部の疼痛(疼痛…痛みのこと)耐えられないとナースコール。ドクターの指示にて15時座薬挿入』とあった。私が夜勤勤務に入った頃には少し落ち着いているようだったが、検温に行った時も毛布をかぶったままだった。そのあとも何度か彼の様子を見に行ったが、同じままだった。でも眠れてないのはわかった。氷枕を取り替えた時も点滴の交換の時も、彼は微かな声で

「すみません」

と何度も言った。まるで

「顔を見せなくてすみません」

と言ってるように感じた。

 そして深夜2時、彼は2度目のナースコールをした。先程も書いた通り、看護記録をつけて仮眠を取ろうとした時だ。

「すみません…どうしても痛くて」

私は当直の医師に指示を仰ぎ、彼の部屋に座薬を持って行った。その時もやはり頭から毛布をかぶっていた。私はもはや彼の顔なんてどうでもよかった。先程のいきさつがあったので、すばやく彼の尻に座薬を入れて部屋を出た。

 ついでに巡視をしちゃおうかな、と思った。そうすれば規定の3時の巡視はやらなくていいだろう…と。 でも思い直した。結局あとで彼の様子を確認しなければならないし、それなら規定の時間に巡視した方がまともだと思った。

 私は3時までの間、熱い紅茶をすすりながらぼんやりしていた。今仮眠すれば3時に起きれないだろう。明日はできるだけ寝不足を避けたかったがしかたない。


 私は別れようとしている恋人の事を考えた。

 恋人は私より15歳年上の医師で、もう4年の付き合いだ。私が看護婦になったのも彼の影響が大きい。


 彼には家庭があった。奥さんと二人暮らし。子供はいない…というよりできなかった。奥さんはもともと身体が弱く、寝たきりとまではいかないが働けるまででもなかった。

「家の中にいるのが好きだから必要以外の外出は滅多にないんだ。」

彼と付き合い始めた頃そう聞いた。

彼はもともとは私の主治医(私は貧血がひどくて1度職場で倒れてしまい、検査入院をした。4年半位前だ。そこで彼と出会ってしまった。)だったが、ちょっとしたきっかけで男女の関係になってしまった。世間でもよくある話で自分でも笑える。それでもその時の私にとって、それはまさに“運命”に思えたし、“これ以上の愛はない!”と思った。

 その時私は19歳だった。彼は34歳だったと思う。まだ世間知らずな小娘の私にとって、彼はまさに大人の男だった。

 彼に愛され、抱かれる自分までが大人の女になったような気がした。そう、気がしただけだった。それに気がつくのにずいぶん時間が流れてしまった。得たものもあるけれど、失ったものも多かった。そんな勘違いを長く続けてきたけれど、それも今夜が最後。明日私は彼と別れる。正確に言うと、別れるつもりだ。

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