毒を盛ったと婚約破棄されましたが、宮廷薬師なのでその証拠が偽物だと分かります ~私を信じた騎士団長と、消えた毒の行方を追う~
「エレナ・アシュフォード。リリアを毒殺しようとした罪により、君との婚約を破棄する!」
王太子ローランドの宣言が、祝宴の広間に響いた。
楽団の演奏が止まり、百人を超える招待客の視線が私へ集まる。
殿下の腕の中では、リリア・モートン男爵令嬢が青ざめた顔でぐったりしていた。
彼女の前に置かれた銀杯には、紫色の葡萄酒が残っている。
私の足元には、小さな薬瓶が転がっていた。
貼られたラベルには、私の筆跡をまねて書かれている。
――白眠花抽出液。
「その瓶は、エレナの薬箱から見つかった」
ローランド殿下が私を指さす。
「リリアの杯からも同じ毒が検出されるだろう。衛兵、罪人を捕らえろ!」
二人の衛兵が進み出た。
その前に、黒い礼装をまとった男性が立ちはだかる。
近衛騎士団長、カイル・レヴァン侯爵令息だった。
「お待ちください」
「そこをどけ、カイル」
「毒物事件の捜査は近衛騎士団の管轄です。証拠を調べるまで、誰も拘束させません」
「証拠ならそこにある!」
「瓶がエレナ嬢の所有物であることも、中身が毒であることも、まだ確かめられておりません」
ローランド殿下の顔に怒りが浮かぶ。
「私の言葉を疑うのか?」
「殿下の名誉を守るためにも、正しい手続きが必要です」
カイル様は衛兵へ命じ、広間の扉を閉じさせた。
出席者を帰せば、証人がいなくなる。誰かが証拠を持ち出す可能性もある。
私は彼が作ってくれた時間を無駄にしないよう、リリアの前へ進んだ。
「診察します」
「あなたが触れるなんて、とんでもない!」
ローランド殿下が彼女を抱き寄せる。
「エレナ嬢以外に、白眠花を扱った経験がある薬師は王都に二人しかいません」
カイル様が言った。
「一人は国外、もう一人は病床です。リリア嬢を救いたいのであれば、診察を受けさせてください」
殿下は渋々、彼女を長椅子へ横たえた。
私は呼吸を数え、まぶたを開いて瞳孔を見る。手袋を外し、爪の色と脈を確認した。
白眠花を飲めば呼吸が遅くなり、爪先が紫色に変わる。
リリアの呼吸は正常だった。
脈は少し速い。緊張している人間の脈だ。
袖口からのぞく手首には、小さな赤い斑点が並んでいた。
「白眠花による中毒ではありません」
リリアの指が微かに動いた。
「何を根拠に!」
「白眠花を服用した症状がないからです。眠り草を少量飲んだ症状なら出ています」
「では、その瓶は何だ!」
私は薬瓶へ近づこうとした。
カイル様が腕を伸ばして制する。
「素手で触れないほうがいい」
「ありがとうございます。私のハンカチをお使いください」
彼は布越しに瓶を拾った。
「確認できるか?」
「はい」
形は宮廷薬房で使う薬瓶と同じだった。ラベルの文字もよく似ている。
しかし、私のものではない。
「封の仕方が違います。宮廷薬房では毒物の瓶へ赤い糸を三重に巻き、最後は左回りで結びます。これは二重巻きで、右回りです」
「君がわざと変えたのだろう!」
「その可能性は否定できません」
私が答えると、ローランド殿下だけでなく、カイル様もこちらを見た。
「エレナ嬢?」
「私が自分で封を変え、偽物らしく見せた可能性は残ります。これだけでは無実の証明になりません」
自分に都合のよい推測だけを並べるのは、鑑定ではない。
カイル様は一瞬目を伏せ、それから小さく頷いた。
「続けてくれ」
私は白磁の皿を用意させた。
瓶の中身を一滴落とし、水で薄める。金色の試験紙を浸すと、紙は青く染まった。
「中身は白眠花抽出液です」
広間がざわめいた。
ローランド殿下が勝ち誇る。
「見ろ。やはり毒ではないか!」
「ですが、この液体をリリア様が飲んだ形跡はありません。杯を調べます」
銀杯の葡萄酒にも試験紙を浸す。
紙は青くならなかった。
代わりに薄い赤色へ変わる。
「眠り草と蜂蜜です。危険性は低く、しばらく眠気と脱力感が出るだけです」
リリアがゆっくり目を開けた。
「あ……わたくしは……」
「もう演技を続けなくても大丈夫です」
「演技ではありません。急に目の前が暗くなって……」
「眠り草を飲めば、そうなると分かっていたのでは?」
リリアは唇を震わせた。
ローランド殿下が間へ入る。
「リリアが眠り草を飲んだことと、君が毒を用意したことは別問題だ。リリアは君の計画に気づき、本物の毒が入れられる前に杯を交換したのかもしれない」
その言葉に、私は眉を寄せた。
殿下は、リリアが白眠花を飲んでいないことを知っていた。
だからすぐに別の筋書きを作れたのではないか。
けれど疑いだけでは告発できない。
「私の薬箱を持ってきてください」
祝宴へ持参した薬箱が、給仕台の下から運ばれてきた。
鍵は壊され、中が荒らされている。
空いている場所が一つあった。
白眠花の瓶と、形も大きさも一致する。
「やはり君の薬箱に入っていたものではないか」
私は薬箱の底を調べた。
乾いた薬草の粉に、細い線が残っている。瓶を置いた跡だった。
しかし、ラベルに書かれた日付と大きさが合わない。
「ここには別の薬が入っていました。熱冷ましに使う銀露草です」
「証明できるのか?」
「薬品管理簿を調べれば」
「では調べろ」
国王代理として祝宴に出席していた宰相が、初めて口を開いた。
「それまでは、エレナ嬢にもリリア嬢にも王宮内の客室で待機してもらう」
「リリアは被害者です!」
「被害者であるかどうかを確認するための調査です、殿下」
宰相はカイル様へ向き直った。
「騎士団長。明日の正午までに報告を」
「承知しました」
私は衛兵に囲まれ、広間を出た。
カイル様は追いかけてこなかった。
事件の責任者なのだから当然だ。
そう思っても、胸の奥に小さな痛みが残った。
昨年、毒に侵された彼を三日三晩看病した。
意識を取り戻したとき、彼が最初に言ったのは、自分の痛みについてではなかった。
――あなたが無事でよかった。
あの言葉を、私は都合よく受け取りすぎていたのかもしれない。
今の彼は騎士団長。
私は毒殺未遂の容疑者だった。
◇ ◇ ◇
客室という名の監視部屋には、外から鍵がかけられた。
窓の下には衛兵が立っている。
夜が更けても眠れずにいると、扉が開いた。
入ってきたのはカイル様だった。
片手に食事の載った盆を持っている。
「何も食べていないと聞いた」
「食欲がありません」
「薬師が食事を抜くのは感心しないな」
「患者がいれば、同じことを言います」
「では、今だけは自分を患者だと思ってくれ」
差し出されたスープから、野菜と香草の匂いがした。
私が毒を警戒していると思ったのか、彼は先に一口飲む。
「毒見までなさらなくても」
「疑われるのがどれほどつらいか、今の君はよく知っているだろう」
私はようやく匙を取った。
温かいスープが喉を通ると、自分がひどく空腹だったことに気づく。
「薬品管理簿を確認した」
カイル様が向かいの椅子へ座る。
「君の申告どおり、空いた場所にあったのは銀露草だ。三日前に調合し、昨夜の時点で封が確認されている」
「では」
「今朝、その銀露草を薬房から持ち出した人物として、君の署名が残っていた」
匙を持つ手が止まった。
「私は持ち出していません」
「筆跡は君のものに見える」
「管理簿を見せてください」
彼が差し出した写しには、確かに私の署名があった。
文字の癖だけでなく、最後に薬師番号を書くところまで再現されている。
「よくできています」
「偽物だと分かるのか?」
「いいえ」
自分の署名と見比べても、違いを見つけられない。
「少なくとも、写しからは判別できません」
カイル様の目に迷いが浮かんだ。
私を信じていると言ってほしかった。
けれど、それを求めるのは彼を騎士団長ではなく、私の味方にしてしまう。
「もう一つある」
彼は机に小さな記録板を置いた。
「王家の毒物庫から、白眠花抽出液が持ち出されていた。昨日の午後だ」
「誰が?」
「申請者はローランド殿下。害獣駆除に使用すると記録されている」
やはり殿下が関わっている。
そう言いかけた私を、カイル様が制した。
「ただし、実際に受け取ったのは君だと管理官が証言している」
今度こそ言葉を失った。
「私が?」
「フードで顔はよく見えなかったが、宮廷薬師の外套と君の認証札を身に着けていたそうだ」
「私の認証札は薬箱に入れていました」
壊された薬箱。
抜き取られた銀露草。
毒物庫で使われた認証札。
薬瓶を置くだけの計画ではない。
誰かが何日もかけて、私が毒を盗んだ証拠を作っている。
「それだけではありません」
私は自分から言った。
「私には動機もあります」
カイル様が黙って続きを待つ。
「一月前、ローランド殿下からリリア様を王太子妃付きの侍女にしたいと言われました。私は身元調査が終わっていないことを理由に反対しました」
実際には、リリアが殿下の執務室へ夜遅くまで残っているという報告も受けていた。
私は婚約者として問いただした。
殿下は、嫉妬深い女だと笑った。
「私がリリア様を疎んでいたと証言する人は多いでしょう」
「だから毒を盛ったと?」
「筋は通っています」
「通っていない」
カイル様が強い口調で遮った。
「君は疑わしい薬があれば誰の杯であろうと取り上げる。憎い相手だから毒を使うような人ではない」
「騎士団長が、そのように決めつけてはいけません」
「これは騎士団長としての判断ではない」
彼の手が、机の上で固く握られた。
「私が、エレナ・アシュフォードという人を見てきたうえでの判断だ」
胸が熱くなる。
「ですが、証拠がありません」
「だから見つける」
カイル様が立ち上がった。
「君の署名を完璧にまねられる人物、認証札の場所を知る人物、薬房へ入れる人物。該当者を調べる」
「私も行きます」
「君は容疑者だ」
「薬のことは私にしか分かりません」
「危険すぎる」
「私の人生が懸かっています」
見つめ合ったまま、どちらも引かなかった。
先に息を吐いたのは彼だった。
「昔から、患者のことになると頑固だったな」
「患者だけではありません」
「知っている」
彼は自分の外套を脱ぎ、私の肩へ掛けた。
「夜の薬房は冷える。これを着ていけ」
◇ ◇ ◇
夜明け前の宮廷薬房は、薬草の匂いに満ちていた。
私の調合机だけが、封鎖用の縄で囲まれている。
管理簿の原本を確認すると、署名は本物にしか見えなかった。
けれど、指で触れた瞬間に違和感を覚えた。
「この頁だけ紙が新しい」
管理簿は薬草を漉き込んだ厚紙で作られている。年月がたつと薄茶色に変わるが、署名のある頁は白い。
糸も結び直されていた。
「頁ごと交換されています」
「交換できるのは?」
「管理簿を保管している薬房長と副薬房長。それから夜間管理を任される当直薬師です」
昨夜の当直は、若い薬師のノアだった。
誠実だが、病気の妹を抱え、治療費に困っていると聞いている。
私たちは彼の宿舎へ向かった。
扉は開いていた。
室内は荒らされ、ノアは床に倒れていた。
「ノア!」
駆け寄ろうとする私を、カイル様が腕で止める。
「周囲を確認してからだ」
窓の留め金が壊されている。
誰も潜んでいないことを確かめ、私はノアのそばへ膝をついた。
息はある。
唇が痺れ、手足が強張っている。
白眠花の初期症状だった。
「解毒剤が必要です」
「どこにある?」
「王家の毒物庫です」
カイル様が部下へ命じ、解毒剤を取りに走らせる。
「間に合いません」
毒はすでに全身へ回り始めている。
正式な解毒剤が届くまで、少なくとも半刻。
私は部屋の棚を探った。
乾燥させた青月草、清めた炭、酒精。
完全な解毒剤は作れなくても、吸収を遅らせられる。
「湯を。炭を粉にしてください」
カイル様は迷わず、短剣の柄で炭を砕き始めた。
「量は?」
「その半分。もっと細かく」
彼は私の指示どおりに動く。
討伐地で彼を治療した夜もそうだった。
高熱で意識が遠のきながら、彼は私が薬草をすり潰す音を聞いていた。
後日、薬研を回す音を聞くと安心すると言っていた。
「これを支えてください」
カイル様がノアの上体を起こす。
私は薬を少しずつ飲ませた。
やがて手足の震えが弱まり、呼吸が安定する。
「ひとまず持ちこたえます」
「よかった」
カイル様の安堵は、患者へ向けたものだけではなかった。
私を見つめる彼の額にも汗が浮かんでいる。
「エレナ」
初めて、敬称を付けずに呼ばれた。
「君まで倒れるかと思った」
「私は毒を飲んでいません」
「そういう意味ではない」
ノアの手には、何かが握られていた。
開いてみると、小さな赤い封蝋の欠片がある。
翼を広げた鳥。
モートン男爵家、リリアの実家の紋章だ。
「リリア様がノアを?」
「そう見せるために置かれた可能性もあります」
「最初の証拠を疑った以上、これも疑うべきだな」
ノアが微かに目を開いた。
「エレナ、様……」
「話さないで。毒が回ります」
「私が……帳簿を……」
「今は治療が先です」
「妹を……治してやると……」
ノアの目から涙がこぼれた。
「リリア様が、王都一の医師を紹介すると……頁を替えるだけでいいと……。でも毒のことは知らなかった。本当です」
「信じます。続きを話せるようになるまで、必ず助けます」
「認証札は……殿下の従者に……」
そこで彼は再び意識を失った。
解毒剤を持った騎士が到着し、私は処置を続けた。
一刻後、ノアの命は助かった。
宿舎を出ると、朝日が昇り始めていた。
「リリア嬢を拘束する」
カイル様が言った。
「待ってください」
「ノアの証言と封蝋がある」
「彼女が主犯なら、自分の家の封蝋を証拠として残すでしょうか」
「ノアに口を割らせないため、焦ったのかもしれない」
「白眠花を飲ませたのなら、死ぬまで確認するはずです。彼は発見されやすい自室に放置されていました」
私は最初の祝宴を思い返した。
リリアは眠り草を飲み、被害者を演じた。
それでも本物の毒は飲まなかった。
犯罪へ加担したが、自分が死ぬ危険までは聞かされていなかったのだろう。
「誰かがリリア様の封蝋を使い、彼女にも罪を集中させようとしています」
「ローランド殿下か?」
「まだ決められません」
王太子の印章を使える者。
リリアの封蝋を入手できる者。
私の薬箱と認証札の場所を知る者。
ノアの事情を知り、王都一の医師を約束できる者。
すべてを満たす人物が、もう一人いる。
「殿下の侍従長です」
カイル様の目が鋭くなった。
「グレゴリーか」
祝宴の準備を取り仕切ったのも、私の薬箱を給仕台へ運ばせたのも彼だ。
答えを口にする前に、廊下の向こうから悲鳴が聞こえた。
リリアが待機している客室の方角だった。
私たちは走った。
扉の前で衛兵が倒れている。
中へ入ると、窓が開き、朝の風でカーテンが揺れていた。
リリアは寝台の上で喉を押さえている。
唇が紫色に変わり始めていた。
今度は演技ではない。
「白眠花です」
私は駆け寄った。
「お願い……助けて……」
「誰に飲まされました?」
「グレゴリー様が……殿下から口止めの薬だと……」
彼女の呼吸が止まりかける。
「話はあとです。カイル様、支えてください」
持ってきた解毒剤は、ノアに半分使った。
残りで足りるか分からない。
「私が何をすればいい?」
「彼女を呼び続けてください。眠らせないで」
「リリア嬢、目を開けろ!」
私は残った解毒剤を少量ずつ飲ませた。
「どうして……」
リリアが苦しそうに尋ねる。
「どうして、私を助けるの……」
「あなたが患者だからです」
「私、あなたを……」
「後悔するのは、生き延びてからにしてください」
日の光が部屋へ差し込む頃、爪に血の色が戻った。
リリアは震える手で枕の下を探り、一通の手紙を取り出した。
「何かあったら、これを陛下へ渡せと……殿下から預かりました」
封には国王陛下の紋章。
しかし、蝋は二重になっていた。
その下から現れたのは、モートン男爵家の紋章だった。
リリアを犯人に仕立てるための証拠。
彼女を毒殺し、この手紙を部屋に残すつもりだったのだ。
「グレゴリーを捕らえます」
今度は私も止めなかった。
◇ ◇ ◇
正午。
王宮の小法廷に関係者が集められた。
国王陛下と王妃様も視察先から戻られている。
ローランド殿下は王族席に座り、リリアは治療用の長椅子へ横たわっていた。
侍従長グレゴリーだけが、手を拘束されている。
「これは侍従長が勝手にしたことです」
ローランド殿下は、開廷と同時にそう主張した。
「私の印章を盗み、エレナとリリアを陥れようとしたのでしょう」
「理由は?」
国王陛下が尋ねる。
「分かりません。グレゴリーは最近、様子がおかしかった」
侍従長が顔を上げる。
「殿下。私はあなた様のために――」
「黙れ、裏切り者!」
殿下は彼へすべての罪を負わせるつもりだ。
私は証拠台の前へ進んだ。
「最初に、薬品管理簿について説明いたします」
交換された頁と、本来使われていた紙を並べる。
「偽造頁には薬草が漉き込まれておらず、綴じ糸も交換されています。ノア薬師は、リリア様から頼まれて頁を差し替えたと証言しました」
リリアが目を閉じる。
「はい。殿下から、エレナ様の不正を明らかにするためだと言われました」
「虚偽だ!」
「殿下の従者が私の認証札をノア薬師へ渡したことも確認されています」
騎士が従者を連れてくる。
従者は俯いたまま証言した。
「侍従長から命じられました。王太子殿下のご指示だと」
「私の名を勝手に使ったのだ!」
「その可能性はあります」
私が認めると、ローランド殿下の表情が明るくなった。
「ほら見ろ!」
「ですから、別の証拠を確認します」
私は祝宴で見つかった薬瓶を示した。
「瓶の底には、国王陛下の紋章が残っていました」
ローランド殿下が眉をひそめる。
「私の百合の印ではなかったのか?」
法廷が静まった。
私は瓶を証拠台へ置く。
「紋章の形について、これまで公表しておりません」
殿下の顔から血の気が引く。
「見れば分かることだ」
「蝋は瓶の底に薄く残り、一部が欠けています。洗浄して拡大しなければ、百合だとは判別できませんでした」
カイル様が記録板を読み上げる。
「瓶を調べたのはエレナ嬢、私、王宮鑑定官の三名だけ。鑑定結果は封印し、国王陛下へ直接提出した」
「殿下は、薬瓶へご自分の印章を押したことをご存じだった」
「違う!」
「では、なぜ百合の紋章だとお分かりになったのです?」
「グレゴリーから聞いた!」
王太子が侍従長を指さす。
私は最後の書類を証拠台へ置いた。
「侍従長は、知ることができません」
毒物庫の受領記録だった。
「白眠花を持ち出す際に押された印章を、管理官がその場で写し取っています」
記録に残っていたのは、百合ではない。
王太子が公務で使う、獅子の印章だった。
「薬瓶の百合は、殿下が個人的な手紙へ使う指輪の印です。毒物庫から持ち出した時点では押されていません。瓶を受け取ったあと、殿下ご自身が封をし直したのです」
「グレゴリーが私の指輪を使った!」
「昨夜から今朝まで、その指輪はどこにありましたか?」
「私が身に着けていた」
「一度でも外しましたか?」
「外していない」
「侍従長はどのように使ったのでしょう」
ローランド殿下は唇を開いたが、声は出なかった。
カイル様が立ち上がる。
「殿下の寝室を捜索し、封に使われたものと同じ蝋を発見しました。さらに暖炉から、リリア嬢へ眠り草を渡すよう命じた手紙の一部も回収しています」
復元された紙片が並べられる。
文字は焼けているが、署名の一部は残っていた。
「リリア嬢と侍従長の証言、毒物庫の記録、薬瓶の封印、寝室の蝋と手紙。すべてが同じ結論を示しています」
国王陛下がローランド殿下を見た。
「なぜ、このようなことをした」
殿下はしばらく黙っていた。
やがて、私を憎むような目で睨む。
「この女が、私を馬鹿にするからです」
「私はそのようなことをした覚えはありません」
「何を決めても薬学的に正しくない、法に反する、予算が足りない。いつも私の間違いを指摘する! 結婚後も一生、私を無能だと笑うつもりだったのだろう!」
「笑ったことはございません」
「同じだ! リリアだけが、私の判断は正しいと言ってくれた」
リリアが青ざめる。
「私は、そんなつもりでは……」
「だからエレナとの婚約を解消し、リリアを妃に迎えようとした。しかし父上が許すはずがない。エレナが毒殺を企てたことにすれば、婚約を破棄できると思った」
侍従長グレゴリーが肩を落とした。
「私は殿下を王にしたかった。リリア嬢を消し、私一人で罪を負えば、殿下だけはお救いできると……」
彼がノアとリリアへ毒を飲ませた理由だった。
ローランド殿下は、最後まで自分だけが助かる道を探していた。
「ローランドの王位継承権を剥奪する」
国王陛下が告げた。
「王家の毒物を私欲で用い、婚約者へ冤罪を着せ、二人の臣下を死の危険にさらした。王族としても、一人の人間としても許されぬ」
「父上!」
「連れていけ」
近衛兵に囲まれた殿下が、私を振り返る。
「エレナ! 君から父上へ説明してくれ。婚約者同士の行き違いだったと!」
「私たちの婚約は、殿下が皆様の前で破棄なさいました」
「取り消す!」
「私からも正式に婚約解消を申し入れます」
胸を縛っていたものが、ようやくほどけた。
私は王太子妃になるため、十年間努力してきた。
薬学を学んだのも、病に苦しむ王族や民を支える妃になりたかったからだ。
けれど殿下は、私の知識を疎み、薬草臭い女だと笑った。
自分を小さく見せなければ続かない関係を、愛とは呼べない。
ローランド元王太子と侍従長が連れ出される。
リリアは涙を流しながら私へ頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「あなたの罪は、これから法廷が決めます」
「許しては、くださらないのですね」
「簡単に許すことはできません」
私は彼女の目を見る。
「それでも、あなたが生き延びたことは喜んでいます。私は薬師ですから」
小法廷を出た途端、足から力が抜けた。
カイル様が身体を支えてくれる。
「大丈夫か?」
「大丈夫、と言いたいところですが」
私は彼の腕につかまった。
「少しだけ、このままでいさせてください」
「いくらでも」
彼は静かな回廊の長椅子へ私を座らせた。
自分はひざまずき、私の震える手を両手で包む。
「怖かっただろう」
その一言で、涙がこぼれた。
罪を着せられたときも、婚約を失ったときも泣かなかった。
私は薬師だから、患者の前では冷静でいなければならない。
公爵令嬢だから、人前で取り乱してはいけない。
ずっとそう思っていた。
「どうして、最後まで私を信じてくださったのです?」
「君が私を助けたからではない」
「では、なぜ?」
「北部で私が毒に侵されたとき、君は私だけでなく、名も知らない兵士にも同じように接していた。身分に関係なく名前を呼び、夜が明けるまで一人ずつ診ていた」
「あれは薬師として当然のことです」
「当然ではない」
彼は私の手を少し強く握る。
「今日も、自分を陥れたリリア嬢を助けた。そんな君が、人を傷つけるために毒を使うはずがない」
「それだけですか?」
思わず尋ねると、カイル様が目を見開いた。
「それだけ、とは?」
「以前から私を見ていたようなお話でしたので」
魔獣の群れを前にしても表情を変えない騎士団長が、耳まで赤くなった。
「今の君に言うのは卑怯だ」
「なぜです?」
「婚約を失った直後で、弱っている」
「失ったのではありません。不要な関係を終わらせたのです」
私は彼の手を握り返した。
「私は今、新しい人生を始めました」
カイル様は長い沈黙のあと、覚悟を決めたように顔を上げる。
「君を愛している。北部で助けられるより、ずっと前から」
「そんなに前から?」
「君は覚えていないだろう。五年前、騎士見習いが訓練中に倒れたとき、貴族の診察を待たせて彼を先に治療した」
「容体の重い方から診るのは当然です」
「また当然と言ったな」
彼が笑う。
「私はあの日、君に恋をした」
「では、五年間も黙っていたのですか?」
「王太子の婚約者へ想いを告げるほど、私は命知らずではない」
「魔獣には一人で立ち向かうのに?」
「それとこれとは別だ」
私も笑った。
◇ ◇ ◇
半年後。
ローランド元王太子は北部の修道院へ送られた。
侍従長は爵位を失い、服役している。
リリアはノアへの殺人未遂へ関与していなかったことが認められたものの、偽証と文書偽造への加担で王都から追放された。
ノアは回復し、罪を償いながら薬師を続けている。妹の治療は宮廷薬房が引き受けた。
私は王太子妃教育から解放され、宮廷薬房の責任者になった。
そして今日、王宮の礼拝堂でカイル様と結婚する。
控室の机には、彼から贈られた白い花が飾られていた。
白眠花によく似ているが、毒のない祝福花だ。
扉を開ける前、カイル様が小瓶を差し出す。
「君に鑑定してほしい」
透明な瓶には、金色の液体が入っている。
封は赤い糸で三重に巻かれ、最後は左回りで結ばれていた。
ラベルには彼の不器用な文字で、こう書かれている。
――幸福になる薬。
「見た目だけでは判断できません。薬効を確認する必要があります」
「どうやって?」
私は彼の頬へ口づけた。
「効き目は十分です」
あの日、私の足元に置かれたのは、罪を作るための偽物の薬瓶だった。
今日、私の手にあるのは、世界で一つしかない幸福の薬。
どちらも一人では調合できない。
けれどこれからは、私を信じてくれる人と二人で、何度でも作っていける。




