エルヴィラ、白昼夢の攻防
ぽつり、ぽつりと、見覚えのない光景が脳裏に浮かぶ。
だが、不思議と自分のことなのだと感じられた。
神の気まぐれか、それとも妖精のいたずらだろうか。私は──この記憶をどう扱うべきなのだろう。
私がシュターデン国の王太子妃となって一年。夫であるヨアヒムとの仲は良好と言えるだろう。
けれど、あの光景が真実、これから起きる未来ならば。……それは、ずっと心の奥底で懸念してきたことが形になってしまうということだ。
「ヨアヒム。私に隠し事がありますね?」
今まではやんわりと尋ねていたことを、今日は正面から切り込んだ。
「どうした? エルヴィラ。今日はずいぶんと勇ましいな」
彼はかけらも動揺することなく、軽く笑ってみせた。昨日までの私ならば、ここで引いていただろう。
「聞こえませんでしたか? 何を隠しているのかと聞いているのですよ」
しっかりと背筋を伸ばし、まっすぐ彼を見つめる。
ヨアヒムもようやく腹の探り合いではないと理解したのだろう。だが、まだその顔から笑みは消えない。
「隠し事があるかと言われたら、ある。だが、それには理由もあるのだと、賢いあなたならばわかっているはずだ」
……本当にこずるい男だ。私の自尊心に軽く爪を立て、静かに引けと示してきた。
「ふふっ」
思わず笑ってしまった私を見て、ようやく彼の表情が訝しげに歪んだ。
「……エルヴィラ?」
「何でしょうか。臆病者の王子様?」
面と向かってこのようなことを言われたのは初めてなのだろう。彼は軽く目を見張り、不思議そうに私を見つめた。
「……もしや、あなたは怒っているのだろうか」
怒って? ──どうかしら。似ているけれど、どこか違うと感じた。
「そうですね。怒りよりも失望でしょうか。まさかこの私の夫が、かくも小心であったことが悔しいようです」
さすがに何度も小物扱いされたことが癇に障ったのだろう。彼の眉根に力がこもった。
「……我が妻よ。多少のことならば聞き流そう。だが、今日のあなたは一線を超えているぞ」
少し声が低くなった。それでもまだ本心ではない。これは、不快であるというアピールに過ぎないわ。
「あなたの伴侶ですもの。どれほど心苦しくとも、夫の至らなさをたしなめるのも私の務めでしょう?」
ヨアヒムの表情が変わった。怒気はない。ただ、静かに私に視線を向けた。
「エルヴィラ」
ただ一言。それだけで部屋の空気が変わった。
……これだから王子という生き物は度し難い。
名前を呼ぶだけで、相手を意のままに操れると分かっているのだ。
「離縁いたしましょうか」
ヨアヒムが息を呑んだ。その反応だけで満足しそうになる自分を叱咤する。
「傷が浅いうちのほうが良いでしょう」
「エルヴィラ!」
ようやく王子の仮面が外れた。でも、まだ足りないわ。
「あなたは楽しいでしょうね?」
「……なに?」
「だって、あなたには守るものがあり、成し遂げたいこともある。心を許す友たちと肩を並べて戦う高揚感。……眠る私に向け、『必ず守るから』なんて恥ずかしい台詞を囁いて悦に入っているのですもの」
ヨアヒムの頬に朱が走った。いつでも表情管理ができている彼にしてはめずらしいことだ。
「……起きていたのか」
いえ。白昼夢ですが、教える義理はないので、ただ美しく微笑むに留めた。
これであの光景が実際にあった過去の一場面であり、これから起こりうるだろう未来でもあることがかなり濃厚になった。
だが、今大切なのはそんなことではない。
「私はあなたの伴侶です。ですが、私の人生は私だけのもの。あなたがその道筋を当然のように決めていくことを許しはしません」
私の言葉を受け、ヨアヒムが固く拳を握った。それは私への反論を封じるためか。それとも。
「……あなたの身に危険が及ぶのだ」
──また、そこに戻るのね。
私は隠すことなくため息をついた。そんな私にすがるような眼差しを向けるヨアヒムを、力いっぱいぶん殴りたい気持ちになった。
「王太子妃になった時点で覚悟を決めております。臆病者のあなたとは違うのですよ」
ヨアヒムを睨みつけ、ひと呼吸置いた。
「妻に背中を預ける勇気を持てぬのなら、今すぐに私の手をお放しくださいませ!」
私の拳など、なんの威力もないだろう。
だから、私はこの言葉に精一杯の気持ちを込めてぶつけた。
脅しなんかじゃない。これは私の覚悟であり、本心だ。
言い終えると同時に涙がこぼれ落ちた。
……悔しい。女の涙は卑怯だと自覚しているのに。
それでも、感情の箍が外れたように、涙はなかなか止まってくれない。
「エルヴィラ……」
ヨアヒムは、涙を拭おうとしたのだろうか。こちらに伸ばしかけた彼の手から顔をそむけた。
「答えないのなら、二度と触れないで」
私の言葉は、彼の心に少しは届いたのだろうか。ようやくその表情に後悔の色が浮かんで見えた。
「……すまなかった」
普段であれば、王子である彼は謝罪を口にはしない。
反省はすれども、簡単に頭を下げて良い立場ではないことを自覚している。
そんな彼の言葉の重さを知りながらも、私はここで有耶無耶にすることはできないのだと、さらに切り込んだ。
「何がでしょうか」
「あなたを蔑ろにしたつもりはなかったのだ」
「……私には人生の決定権を与えないのに?」
言葉とともに、もう一粒涙があふれた。
彼がもう一度私に向かって手を伸ばしかけ、しかし、その手は空を掴み、静かに下ろされた。
「あなたを守りたかった。それは……そんなにも愚かなことだったのか?」
「……愚かだわ。あなたはただ、私の器を守っただけ。まるで宝物を守るみたいにね。そんなあなたに、私の心は傷ついたのよ。……私は本音で話をする価値もない女なの?」
確かに、彼は私を守っているつもりだったのだろう。
でも、私とて馬鹿ではない。何かが起きていることくらい分かるのだ。
それなのに、何も聞かされず、柔らかに視界も耳も塞がれ、薄闇しか見えない恐怖の中に取り残されているのだと、どうして分かってくれないのかしら。
「……しばらく実家に帰ります」
「エルヴィラ⁉」
「離縁ではありませんが、私にも事情がありますの。……でも、あなたにはお伝えする必要はないのでしょう。お互い様ですわね」
それからの私の行動は早かった。
もともと有事の際、私が突然公務不可能に陥った場合の対策は立てていた。
おかげさまで、簡単な申し送りを済ますと、私はその日のうちに王宮を去ったのだ。
「……あなたという子はまったく」
先触れもなく実家に帰った私を見て、お母様が深々とため息を吐いた。
「必要なことだったわ。……それに、私がいないほうがあの人も動きやすいでしょうし」
きっと今頃怒涛の勢いで事件を処理しているだろう。敵もまさか、その日のうちに私が家出するとは思っていなかったはずだし。
実家での生活はなかなかに快適で、そろそろ迎えにこないと大変なことになるわよ? と思い始めた頃、ようやくヨアヒムが公爵家を訪れた。
信じられないことに、単騎でやってきた彼の髪は乱れ、目の下にはくまができ、無精髭まで生えているではないか。
「エルヴィラ! 無事か⁉」
無事ではないのは、あなたのほうでは?
「ずいぶんと野性味が増しましたね。まさか、護衛を振り切ってしまったの?」
私に触れようとした彼は、すぐにオロオロとしながら、
「あなたを抱きしめてもいいだろうか」
不安そうな顔で、そう尋ねてきたのだ。
私はそんな彼を静かに見つめ、居住まいを正した。
「その前に、あなたには伝えねばならないことがございます」
「……何があった」
きっと、私の変化に気づいたのだろう。
疲れきった彼とは正反対に、私がとても幸せそうなことに。
最近、食べる量が増え、睡眠もたっぷり取っていたおかげで、肌艶がいいことは許してほしい。
「私、あなた以外の最愛ができました」
そっとお腹に手を当て、告白をした。
ヨアヒムの瞳が大きく見開かれた。そして、信じられないことに、大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。
「……うそだ……あなたがそんな不実なまねをするはずがない」
王族特有のロイヤルブルーの瞳から溢れる涙の何と美しいことか。……そろそろ意地悪はおしまいかしら。
「生まれる頃には、きっと雪が降っているでしょうね」
「……え?」
「あなたが本当のことを教えてくださらないから、私もこの子を守るためにどうしたらよいのかと本当に悩みましたわ」
本当に、次期国王の座を狙おうだなんて、側妃様も愚かな真似をなさったものだ。
おかげさまで、この子の存在を隠すことに苦心したではないか。
「……まさか、赤子が?」
「はい。誰の子か、などと聞いたらぶん殴りますから」
「言うはずがないだろう! いや、どうして黙っていたんだ!」
「あなたのルールを真似いたしました。何か問題がございましたかしら」
うふふっ。楽しそうに笑う私を見て、ヨアヒムが頽れた。
「……こういう気持ちだったのか」
「そうですわね? たぶん、同じなのではないかしら」
大切なことを共有してもらえない悲しみと憤り。そのせいで、こうして別の問題まで起きるのだから、本気で反省してほしい。
ヨアヒムがその場に跪き、私を見上げた。
「本当に申し訳なかった。こんなにも愚かな私だが、君たちを抱きしめさせてほしい」
……ああ、やっと私の思いが届いた!
私は駆け寄り、彼よりも先に抱きしめた。
この子のために規則正しい生活を心がけてはいたけれど、本当は不安だった。
父から事の次第を聞いたとき、本気で恐ろしかった。
「無事でよかった……っ!」
「君こそ! よくぞその身と子を守ってくれた!」
ヨアヒムは一度強く抱きしめかけ、その力を少し緩めた。
そんな気遣いに、愛しさが募る。
そして、どちらからともなく口付けた。
優しく、互いの存在を確かめるかのように、何度も触れ合った。
「……もう、髭が痛いわ」
「すまん。あと少し我慢してくれ」
その後、ヨアヒムはようやく追いついた護衛騎士たちに懇々と説教をされたが、その表情は終始晴れやかだった。
妊婦とは不思議なほどに眠たくなるものだ。
彼に凭れながら、ゆっくりと走る馬車に揺られていると、だんだんとまぶたが落ちてしまう。
そういえばと、たゆたう意識の中で考えた。
あのときの白昼夢。あれはなんだったのかしら。
今はもう、淡い夢を見たとしか思えなくなったのだから不思議なものだ。
……あのときに見た未来から遠ざかったからなのか。
倒れた私を見て、嬉しそうに笑う人を見た。
取り押さえられながらも、狂ったように笑う恐ろしい顔が、今はもう霧がかかったように思い出せなくなった。
「……ありがとうございました」
「どうした? エルヴィラ」
「……奇跡に感謝しているのよ」
「奇跡……そうだな。こうしてともにいられるのは、君が奇跡を手繰り寄せてくれたのかもしれないな」
ヨアヒムはずいぶんと詩的な発言が増えた気がする。
本音を隠さなくなった彼は、思いのほか甘い言葉を紡ぐのだなと、少し気恥ずかしくなった。
彼の大きな手が、優しく私の手へと重ねられた。
その温かさに包まれながら、私はゆっくりと優しい夢へといざなわれていった。




