第22話 聖堂の主
扉が閉じた瞬間、外界の気配がふっと断ち切られた。
聖堂の中は、ひどく静かだった。
整然と並ぶ長椅子。高い天井から差し込む柔らかな光。
清潔に保たれた空間は、どこか現実感が薄く、時間の流れすら緩やかに感じる。
「……誰もいないですね」
旭が小さく呟く。
声がやけに響いた。
「この時間帯に無人ということは考えにくいのですが」
エリューシアが周囲を見渡す。
その視線は鋭いが、警戒というよりは確認に近い。
「奥、見てみようか」
リトリが自然に先導する。
中央通路を進み、祭壇の奥へ。
その先に、目立たない扉が一つあった。
「あ、こんなところに部屋が……」
旭が目を丸くする。
「宿直室だね。先生用の」
リトリが軽く言いながら、手をかける。
鍵は、かかっていなかった。
一瞬だけ、リトリの指が止まる。
軋む音もなく、静かに開く。
中は簡素な小部屋だった。
壁際に置かれた三つのベッド。
そして――
「……っ!」
旭が息を呑む。
そこには、二人の生徒が横たわっていた。
「財前くんと……アスティリア先輩……?」
駆け寄ろうとする足を、リトリが軽く制した。
「待って」
静かな声だった。
そのまま、ベッドの傍へ歩み寄る。
手をかざす。
魔力の流れを探るように。
「……」
一瞬の沈黙。
そして、わずかに眉を寄せた。
「うん、命に別状はない。呼吸も安定してる」
淡々とした診断。
「ただ――」
言葉が、僅かに引っかかる。
「魔力の流れが……おかしい」
「おかしい、って……」
旭の声が揺れる。
「乱れてるとかそういうのじゃなくて」
リトリはゆっくりと首を横に振った。
「……流れてない。ほとんど、空っぽみたいに」
「え……?」
理解が追いつかないように、旭が目を見開く。
その時だった。
「おや」
背後から、穏やかな声が落ちた。
全員が振り返る。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
黒い法衣を纏い、落ち着いた佇まいを崩さない。
柔らかな微笑を浮かべている。
「鍵はかけていたはずですが……そうですか」
視線がエリューシアへ向く。
「あなたが居たのであれば、無理もありませんね」
「クエト先生……」
エリューシアがわずかに頭を下げる。
「勝手に入ってしまって申し訳ありません。確認が必要だと判断しましたので」
「いえ、構いませんよ」
クエトは穏やかに首を振る。
そのまま、二人の眠るベッドへと視線を落とした。
その視線は優しい。
「彼らを起こさないであげてください」
静かな声音。
「やっと、眠れるようになったのですから」
「眠れるように……?」
旭が戸惑いを滲ませる。
「ええ」
クエトはゆっくりと頷いた。
「ここ最近、彼らはほとんど眠れていなかった」
「どういうことですか?」
リトリが一歩前に出る。
その視線は鋭い。
「学術祭を前にした重圧でしょう」
クエトは淡々と語る。
「特級序列としての責務。周囲からの期待。結果を求められる立場」
一拍。
「それらが、彼らの心を追い詰めていた。どんなに大きな力を得たとしても、まだ彼らは子供です」
旭が言葉を失う。
「誰にも相談できず、ただ一人で抱え込み……やがて、充分に眠ることすら出来なくなった」
静かな説明。
だが、その情景は容易に想像できた。
「この二人はいつからここへ?」
リトリが尋ねる。
「通い始めてくれたのは、二週間ほど前からでしょうか」
クエトは頷く。
「ここで過ごしたいと言って、暮らし始めたのはほんの五日前です」
「五日前……」
リトリは口元に指を当てながらそう繰り返す。
それは、夕緋が消えた時期と重なっている。
「私はただ話を聞いて、この場所を提供しているだけですけどね」
その声音には、偽りの気配はない。
「……魔力の流れが、消えてる」
リトリが低く呟く。
クエトへと視線を向ける。
「私が彼らを診た時は、明らかに魔力が乱れていました。どうやって治したんですか?」
「治した、というわけではないのですよ」
穏やかに首を横に振る。
「私はただ、寄り添っただけです」
一歩、距離を詰める。
「彼らの抱えていた苦しみに……その原因に」
そして、静かに続けた。
「リトリさんが誰かの怪我を治すように、私は心を軽くしてあげたかった」
リトリは、わずかに目を細める。
「結果として、彼らは選んだのです」
静かに言い切る。
「自らの魔力を、手放すことを」
沈黙が落ちる。
旭の呼吸が、わずかに乱れた。
「そ、それって……」
「魔法からの解放、ですよ」
クエトは穏やかに微笑む。
「彼らはもう、苦しむ必要はない」
優しい声音だった。
救いを語るような。
――あまりにも、綺麗すぎる言葉。
「……」
終司は、何も言わなかった。
ただ、クエトの言葉を黙って聞いている。
視線だけが、わずかに細められる。
何かが引っかかっている。
だが、それを言葉にするには、まだ材料が足りない。
「まだ目を覚ますまで時間がかかるでしょう」
クエトが静かに言う。
「ですから、彼らのことはどうかこのままに」
「……分かりました。このこと、学院長への報告はお済みで?」
エリューシアが尋ねる。
「ちょうど、今しがた行ってきたところです。彼らの意思を尊重して黙っていたことの謝罪も……」
「学院長はなんと?」
「私に一任してくださるそうです。今まで自ら魔法を手放した生徒は居ませんでしたが、これは私の役目でもありますから」
「クエト先生、二人が目を覚ましたら知らせて貰えませんか? 身体に異常がないか、診てあげたいので」
「それは是非。こちらからもお願いしたいと思っていましたので」
リトリの提案に柔和な笑みを浮かべながら、クエトは返した。
「ところで、そちらのあなたは初めて見るお顔ですが……あなたが、学院長先生が外から連れてきたという?」
「……名乗るのが遅くなりました。橘守終司です」
終司の端的な一言。
「おお、やはりあなたが。なんでも、かなり腕がたつとか……ふふ、あのラルスくんが知れば、また一騒ぎありそうですね」
「……恐縮です」
「クエト先生。私たち、お姉ちゃんを探してここに来たんです。何かご存知ありませんか?」
「夕緋さん、ですか? 以前まではこちらにもよく通われていましたが……ここ暫くは見ていませんね」
「そう……ですか」
落胆する旭。
「実は、夕緋ちゃんもそこの二人と同じような症状で、暫く私の部屋に居たんです。ですが、一週間ほど前に居なくなってしまって」
「あの夕緋さんが……そうですか」
クエトは一瞬だけ目を伏せた。
「申し訳ないのですが、私も彼ら二人以外は何も」
「もし、ここに来ることがあったら……」
「ええ、すぐに連絡しますよ。お姉さんのこと、心配でしょう? あなたもあまり無理をなさらないように」
「ありがとうございます。あ、それからクエト先生、外の……」
「旭、そろそろ行かないか? ここでないなら、別の場所を探した方がいい」
遮るように、終司が言った。
ほんの僅かに、間を切るように。
「そ、そうですね……! こうして財前くんたちは見つかったわけですし、お姉ちゃんも……!」
「クエト先生、ありがとうございました。俺たちはこれで失礼します」
「財前くんたちのこと、お願いします。何か不調があったらすぐに伺います」
「どうぞ、お気をつけて。夕緋さんが早く見つかることを祈っていますよ」
それ以上、この場に留まる理由はなかった。
小部屋を後にし、そのまま聖堂の外へと出る。
扉が閉じる。
再び、外の空気。
そこでようやく、旭が小さく息を吐いた。
その中で。
終司はただ一人、呟く。
「……三つ、あったな」
わずかに落とした視線の奥で――
言葉にならない違和感だけが、静かに沈んでいた。




