13. 嵐の予兆
新銀河皇帝、即位成る。
〈即位の儀〉の様子を伝える映像と共にドロメックが送ってきたその事実は、銀河帝国に大きな衝撃を与えた。ことの次第によく通じていた人々の間でさえ、ラ家と帝国軍による即位の阻止が成功するものという見通しが大勢を占めていたのだ。
領外辺境惑星の少女による皇位の継承が現実となった今、その統治がどのようなものになるのか……帝国のありとあらゆる階層において、大きな不安と一抹の期待が、混ざり合わないスープのようにぐつぐつと煮えたぎっていた。
翼を持つ者たち。
尻尾を持つ者たち。
キチン質に身を包んだ者たち。
水に棲まう者たち。
高圧ガスの中に棲まう者たち。
そして、二本足で地面を歩く者たち──
そのすべての者たちの間で、新皇帝アサトの戦いは、語り草ともなっていた。
これまで、まったく見えない天の高みで受け継がれて来たと言える銀河皇帝の座を、アサトは初めて帝国市民に見える形で手にしたのだ。
ネープたちの技術によって時間を超え、仲間たちの支えやゴンドロウワの奇跡的な救援を得ての勝利は、伝説になろうとしていた。その伝説の始まりは、多くの銀河帝国の市民たちに「変化」への予感をもたらすものだった。
誰にも、それがどんなものになるかわからなかったが、銀河が大きな「変化」の時代に突入したことだけは、誰が見ても明らかだった。
惑星〈青砂〉の完全人間たちも、例外ではなかった。
戦略ステーションの執務室に入ったネープ一四一は、自分のデスクに先回りして着いている少女の姿に一瞬、足を止めた。
「さすがよね……あの子たちを過去に送り込んで、即位までのスケジュールをひと月近くも縮めるなんて」
ネープ三〇二は、空里たちのスター・サブがゲートの彼方に消えた直後という、あり得ないタイミングで送られて来たドロメックの映像に、初めて反時力エンジンが持つ真の機能と、その目的を知ったのだった。
「あの辺境宙域に乗り込もうとしていた連中は、完全に出鼻をくじかれたわけね。今からアサトに手を出そうとしても、もはや相手は銀河皇帝……つまり、私たちやゴンドロウワを敵にまわすことになるんだから」
「何が気に入らないのかね?」
立ち上がった少女と入れ違いにデスクに着きながら一四一が言った。
「控えめに言って、危険過ぎるわ。だから、クアンタ卿にも本当のことを言わなかったんでしょう。向こう何日間か、彼らは二ヶ所にいるのよ。二人のアサト……二人のクアンタ卿……二人の三〇三……」
「三〇三については二人ではない。一万人以上がいる。君もその一人だろうが」
その通りだった。
それは例えでもなんでもなく、ありのままの事実であり、正に今アサトが二人いるのと同じ理由ですべてのネープたちはいるのだった。
無数の同一人物であるネープを存在させているのは、クローン技術でもなければ他のどんな生物学的技術でもない。外部には決して明かされない、時間に干渉する技術だった。
停止した時間軸の中で保存された受精卵──
そのオリジナルを残したまま動く時間軸に取り出すと、ネープは誕生する。この特殊な工程は、全く同じ遺伝子を持ちながら取り出したタイミングによってアトランダムに性別が変わるという、不思議な染色体の「揺らぎ」も生むのだった。
そして、その技術の根にはやはり星百合があった。ネープは、星百合によって生かされている一種の時空生命体なのだ。
そんな彼らが宇宙で存在し続けていられるのは、厳密な計算と規則に基づいて管理されているがゆえだった。
だが、その手段を他に当てはめるのはどうだろう……?
まかり間違えば、無制限に時空の齟齬、ひいては破綻をきたす事態を招きかねないのではないか。
三〇二の不安は消えなかった。
「一度、三〇三に会って来ようかな……」
呟きながらオフィスを退出する少女に、一四一は何も言わなかった。
その沈黙は「好きにしろ」という意味だ。当面、撃滅艦隊の出番もない。この後のことは、新皇帝と彼女に付いているネープ次第なのだ。
回廊の大窓に広がる青い惑星と、その遥か向こうで小さく輝く星百合を見上げながら、ネープ三〇二は今の自分の言葉に違和感を覚え、その理由に思い至って驚いた。
彼女が会いたいのは三〇三ではなかった。
何故かたまらなく、アサトに会いたいのだ。
* * *
いつか空里と相対せねばならない女性は、惑星〈鏡夢〉にもいた。
ユリイラ=リイ・ラは、つい数日前に宇宙艦隊が埋め尽くしていた海を見下ろしながら、グラスを取り上げ赤い唇に当てた。
あの艦隊はもう帰って来ることはない。エンザ=コウ・ラが乗った旗艦も、その搭載艦も破壊されるところは見た。しかし、彼はまだどこかで生きており、何も知らずに弟の死んだあの惑星に向かっているはずなのだ。
この奇妙な時空のパラドックスが、完全人間たちの企てによるものであることは疑いがない。いつか、その手段を詳らかに知りたいものだ。
「ガウンをお持ちしました」
声に振り向くと彼女の執事が立っていた。
ダキトーの無機質な顔についた水滴を見て、ユリイラははじめて小雨が降っていることに気づいた。サロウ城があるこの高度で、天候が乱れることは珍しい。
ユリイラは執事に問いかけた。
「元老院はどんなあんばいですか?」
「上を下への大騒ぎです」
仮面の下でユリイラはさもあらんと微笑んだ。
「大騒ぎしている内は、まだゆとりがあるということね。これから起こることに直面して、言葉も失くさずにいられたら、ツェガール大公も傑物というものだわ」
金属製の手でガウンを広げながら、執事は諌めるように言った。
「元老院や公家連が度を失うような事態は避けられてはいかがですか。彼らを味方にするなら、知らせるべきは知らせ、あなたを頼りにするように仕向けるのが賢明かと……」
「そのつもりですよ。どの道、彼らはラ家を……私を頼りにせざるを得ないのだから。そこに早く気付いてもらわなくては、ね」
「あなたは変わられた……」
ダキトーの意外な言葉にユリイラは笑みを消して立ち上がった。逆に執事の声には親しげな微笑が浮かんでいた。
「昔のあなたからは考えられない自信を身につけられた。今のあなたの大胆さを見るにつけ、あの頃のあなたを懐かしく思い出しますよ」
「それは気の毒なことですね。あの娘はもうこの世にいない。ゼン=ゼンやエンザと同じ、時の深淵に飲み込まれて消えた人間ですよ」
短い沈黙が二人の間に訪れ、そこに何人も知り得ない感情の共有が生まれた。
変わったのは自分だけではない。二人の間の何もかもが変わったのだ。
すべては変わる──
スター・コルベットのキャノピーから自分を見下ろしていた、遠藤空里……あの娘との間の因縁もやがては変わる。
間違いないのは、生き残るのはどちらか一人ということだけだ。
ユリイラのもの思いをはらうようにごうっと風が吹き、雨粒が降りかかってきた。
「お屋敷に戻りましょう。嵐になりそうです」
差し出されたガウンを身にまといながら、ユリイラ=リイ・ラは唇に笑みを取り戻した。
「嵐じゃないわ……大嵐よ」




