4. 完全人間の脱走
その若い医務官は、緊張に疲れ切っていた。
ラ家への仕官をへて帝国軍に属して以来、こんなに勤務で緊張が続いたことはなかった。目の前の液体檻に閉じ込められた美少年が、見た目とはかけ離れた危険な存在であることは重々承知の上だ。理屈ではわかっているが、その理解がかえって目に見えているものとの落差に戸惑いを生じさせていた。
完全人間はどんな手段で脱出を図るかわからない。
恐らく、見張り役の人間に何か語りかけて隙を作ろうとするだろうが、決して音声インターフェースを開いてはならない。とにかく、想像を絶する手管の持ち主なのだから、厳重に監視しつつ自分に仕掛けられてくる罠は無視せよ。
そんな上官の言葉も、緊張に拍車をかけていた。
「サンプルの様子はどうだ?」
上官が部屋に入って来て聞いた。
捕虜を科学的な見地から「サンプル」と呼ぶ冷徹で小柄な人物だったが、今はその落ち着きと何より一人ではなくなったことで、医務官は少しだけ緊張をやわらげることができた。
「はい、バイタルは安定しています。特に何かを仕掛けてくるそぶりも見せません」
「ふむ……」
上官は表示されている医療モニターを一通り見渡して、部下の言う通りであることを確認した。
「明朝から、この個体の超精密検査を行う。まずは心理圧迫検査による意識変動の測定だ」
「はい」
心理圧迫検査とは学術的な響きだが、実態は拷問に近い処置であることを医務官は知っていた。
「?」
見ると、いつの間にかネープの顔に苦悶の表情が浮かんでいた。
力なく漂っているだけだった身体も、にわかに緊張しているように見える。
「様子が変です」
医療モニターを確認した医務官は、各数値が急激に変動し始めたのを見た。
「心拍数が上がってます。体温も上昇中。血中酸素濃度にも異常が……」
上官も異常を確認して唸った。
「どういうことだ? 安定していたのではなかったのか?」
「ついさっきまでは確かに……」
その言葉を否定するように、ネープの身体が激しい痙攣を見せ始めた。サヴォ液の束縛下で目に見える痙攣とは、かなり強いものだ。
「どうします? いったん液を抜いて応急処置を……」
「いや、待て。奴の罠かもしれん」
罠とは、芝居ということか。しかし医療モニターの数値は明らかに異常を示しているのだ。この期に及んでそれは──
やがてネープの口元から赤い煙のような影がわっと溢れかえった。
「吐血しています!」
これにはさすがに上官もうろたえた。
「排液しろ! サヴォ液を抜くんだ!」
医務官はコンソールを操作して命令を実行した。
サヴォ液の量が減り、液体檻から解放されたネープの身体がカプセルの下半球に横たわる。と──
全裸の少年は突然起き上がり、凄まじい力でカプセルの底部に設けられた排水口の金網を引き剥がすと、その中に飛び込んで姿を消してしまった。
「馬鹿な!」
上官が叫んだ。
「非常用バイブレータを起動しろ! カプセルを破壊するんだ!」
カプセルには緊急時にそれを破壊するための振動装置が備え付けられていた。医務官が非常スイッチのカバーを叩き割って中のボタンを押すと、カプセルは一瞬で粉々に砕け散った。
上官はカプセルの設置されていたプラットホームによじのぼり、恐る恐る排水口に近づいていった。排水口の先には何重ものフィルターがあり、こんなところから逃げることはできないはずだが──
人一人、やっと通れる大きさの排水口の奥は闇に包まれている。
視界を得ようと上官が不用意に身を屈めた瞬間、排水口の中から手が伸びて彼を引きずり込んだ。
「!」
上官の悲鳴はすぐに聞こえなくなった。
警報を鳴らさなければ。しかしあまりの出来事に、医務官の身体は凍りついたように動かなかった。
ややあって、排水口の中からネープが飛び出してきた。
そこでべっ、とさっきの血の残りを吐き出す。
医務官は信じられなかった。自分の意志でバイタルを不安定にし、あまつさえ吐血までして見せ敵を欺く人間がいるなど。
ネープはもはや全裸ではなく、上官が身につけていたズボンを履いている。
完全人間の少年はプラットホームから飛び降りると、素早く部屋を物色し、必要と思われるものをズボンのポケットに収めていく。 そして医療器具のトレイから無針圧力注射器を取り上げると、一本のアンプルを装填し、医務官に近づくと注射器を彼の首筋に押し当てた。
何を注射した? 毒か? 麻酔薬か?
どちらでもなかった。ちらと見えたアンプルのラベルは、それが心理圧迫検査用の精神開放薬であることを示していた。
目的はすぐにわかった。この薬は自白剤としても使用できるのだ。
「一番手近の情報端末はどこだ?」
涼やかで無表情な声がたずねた。
* * *
闇から闇へ──
空里は真っ暗な通路を歩きながら、いい加減明るい場所に出たいものだと考えた。通路には、時々小さな隙間からわずかな光が差し込み、彼女を先導する救い主の影が微かに見えるだけだった。
その影は確かに救い主だったが、通路への扉が閉じられてからというものの「こっちだ」という一言を除いて、まったく口を聞いてくれなかった。
不安に駆られた空里は、シェンガとティプトリーがちゃんとついて来てくれているか確かめようと振り向いた。暗鬱とした表情を浮かべたティプトリーの顔がぼんやり浮かんでいるのに対し、その下ではミン・ガンの目がキラキラと光っていた。
「シェンガって、夜目がきくの?」
「あ? 特別なことじゃないだろ。むしろ、あんたたちの目が悪いのさ」
その言葉に、かすかな笑い声が答えた。
前を歩く影が笑ったのだ。
案外、気軽に話せる人なのかも知れない。どこへ連れていくつもりなのか、たずねてみようか?
思い切って空里が口を開きかけたその時、待ちわびていた光が彼らを包んだ。
前をゆく影が扉を開けたのだ。
目が慣れてくると、そこはそれほど明るい部屋ではなかった。
学校の教室くらいの広さだろうか。アーチ型をした高い天井の近くに、暖かい色の球体照明がいくつか浮かんでいる。
「こっちへ来てくれ」
かけられた声に、空里ははじめてここまで彼らを連れて来た案内人の顔を見た。
端正な顔つきの若い男。
縮れた黒髪。よく灼けた肌に長身の体躯は、スポーツマンか兵士を思わせるが、その風貌は東京の街を歩いていてもまったく違和感がない普通さだった。
ごく普通のジャンパーにズボン。右手だけに手袋をしている。
背の高い案内人は、パーテイションのような壁で仕切られた部屋の片隅へと三人を導いた。
そこには長い髪の女性が二人いた。
いや、一人は少女だった。
ブロンズ色の肌をした年嵩の女性は、ポットから何か良い香りのする飲み物をカップに注いでいるところだった。よく見ると、その髪は毛髪というより触手に近い。カップを見つめる目には黒目がなかった。異形と言えば異形だが、ある種の美しさの方がその姿からは強く感じられた。
そして少女の方は、とても大きな一人用の黒いソファに身を預けてまどろんでいるようだ。その髪の色はネープを思い出させる銀色だったが、柔らかくウェーブがかかっており、小さな顔を隠すように広がっている。
少女が身じろぎして、長い髪の間から色白の顔をあらわにした。
その目が開いて、空里を見た。
ルビーのように深い赤に光る瞳で。
すごい美少女、と言っていい容貌の持ち主だが、空里はその少女の雰囲気に何か違和感を覚えた。
「よいところへ来てくれました。今ちょうど、ホウティーがはいったところですよ」
美少女が天使か妖精のような笑顔を浮かべて言った。




