2. サロウ城の虜
薄紅色の液体で満たされた透明な球体の中に、全裸の少年が漂っている。
エンザ=コウ・ラは、確かにネープが美しい生き物であることは否定できないと考えた。この美しさに惑わされ、何とか完全人間を自分の慰みものにしようと試みた者も少なくない。だが彼らは皆、それがあまりにも引き合わぬ行為だと思い知らされることになったのだ。
こうして完全に自由を奪った状態でネープを捕らえることができたというのは、幸運と言えば幸運と言える。何日か前まで、目の前の少年は銀河皇帝を支えるという点において、エンザとは同志であると言えたが、状況の変化は彼の持つ価値を全く別のものにした。
生物学的に、心理学的に、その他あらゆる切り口からネープを解剖することができれば、得られる情報は値千金というものだろう。しかしそれも、絶対にこの個体を逃さないという前提が、絶対の条件だった。
このサロウ城から逃げることなど到底不可能だ。
さらに少年を閉じ込めている球体を満たしたサヴォ液は液体檻とも呼ばれ、本来は人間には使用しない、危険な生物を閉じ込めておくためのものだ。一定量以上に密閉されたサヴォ液に入れられた生物はその中心に固定され、意識的な動きは全て同じ強さの力で押さえつけられる。そして、酸素を必要とする生物には呼吸できるので、完全に外的な環境と遮断することが可能だった。
そこに拘束することは、人間にとってはかなりの負担となるはずだが、完全人間の自由を奪うにはこれくらいの設備が必要なのも確かだった。
サヴォ液の中で漂っているように見えるのは、身体に全く力が入っていない。すなわち意識がないこと示している。だが、エンザ=コウ・ラはこれをネープの芝居と見た。
「音声インターフェースを開け」
エンザはかたわらの医務官に命じた。
これで液の中の者とは会話ができるようになる。
「もう起きているんだろう。寝たふりはやめたまえ」
案の定、ネープはゆっくりと目を開けた。
まわりを見回すでもなく、真っ直ぐエンザの方を向いて視線を返す。すでに自分の置かれている状況は把握し切っているのだろう。全くもって油断のならない生物だ。
「こういう形で再会するとは思わなかったな、ネープ三〇三。あの辺境惑星で起こったことは、非常に遺憾だ。お前が連れていたのは、皇位後継者を僭称する原住民の娘だな。〈青砂〉へ連れていくつもりだったのだろうが、なぜわざわざここに舞い戻ってきた?」
「私へのこの扱いも、誠に遺憾に思います。エンザ=コウ・ラ星威将軍閣下。〈青砂〉との関係を悪くしないためにも、一刻も早く解放されることをおすすめします」
液体を介しているせいでくぐもってはいるが、はっきりとしたその言葉にエンザは一瞬気圧された。帝国の歴史において、ネープたちに挑戦した惑星や公家がどういう末路を辿ったか、を思い出したのだ。
だが彼はそんな様子をおくびにも出さず、生徒をたしなめる教師のような口調で応じた。
「質問しているのだよ、私は」
「なぜここに来たのかは、私の方で答えを知りたい問題です。帝国軍かラ家の科学室が、新しい技術を開発して我々を誘導したのではないですか?」
質問で質問を封じるつもりか。
「そんな、毛の先ほども信じていない話でごまかしても無駄だ。超空間にいる船を自由にできる術があれば、皇帝もネープもない。銀河の全てを手中にしたも同然だからな」
「それでも、法典は厳然と存在しますよ」
法典──
銀河帝国に生を受けた者として、そこに畏れを感じない者は無い。
皇帝、公家、元老院──すべてを強大な力で縛る一方、その権威を根底から支えているのも法典にほかならないのだ。
法典を否定することは、自らを否定することに等しい。帝国で権威の上層にいる者ほど、それは心得ておくべき事実だ。
エンザは法典の名前を出すことでネープがこの場の主導権を握ろうとしているのをはっきりと感じ、そうはさせまいと意識をガードした。
「お前は、その法典にのっとって新皇帝を擁立するつもりのようだが、公家の多くはその過程に疑義をさしはさんでいるぞ。ネープが皇帝陛下の力を恐れ、辺境惑星での事故を利用して体制の刷新を図ろうとしたのだと、な」
「そんな、毛の先ほども信じていない話で、公家連や元老院をまるめこめるのですか?」
なんとか苛立ちを抑え込んだエンザは、パイプをくわえてメセビン・ガスを吸い込んだ。
「その悪癖もまだおやめになっていない。一時、頭が冴えるだけで寿命を縮めることになると忠告しましたよね」
「私の健康より、自分の心配をしたまえ。皇位後継者も、それを護っていたネープも、恐らくこの星で消息を断つことになるのだからな」
「そして帝国の全市民は、ラ家がネープと法典に挑戦したのだと知ることになるわけですね」
「少し違うな。話は、ラ家が新しい法典の守護者となり、ネープは帝国に対する叛徒に堕した。と、いう形になる予定だ」
「ひどく楽観的な見通しですね」
エンザは口元を歪めてネープに笑みを見せつけた。
「どうかな? とにかく、我々はお前から徹底的に情報をしぼり取るつもりだ。特に、〈青砂〉の連中が見て欲しくないと思っている部分を重点的に、な」
「よかった。つまりまだ、何も私から引き出すことに成功していないんですね」
その挑発的な言葉にもエンザは動じなかったが、それを言ったネープを後悔させてやるという意志は固くした。
「今はまだ、お互い平等な立場というわけだな。そう長くは続かない状況ではあるが」
「おや、ここまでの会話で私の方は閣下から十分な情報をいただきましたよ。私の主がまだあなた方の手に落ちていないこと。彼女が今、どこでどうしているかもつかめていないこと。当面、私の命は安泰であること。つまり、ここを出て予定通り〈青砂〉へ向かうためのお膳立ては整っているということ。不平等な立場で恐縮ですが、閣下には感謝申し上げたいです」
エンザは加えていたパイプを放り出し、目の前の小僧を今すぐ殺していい理由を一刹那ではあったが探した。そんな彼の情動すら、完全人間の少年はお見通しだった。
「私を殺す理由を探すのも結構ですが、まずはお許しを得なければなりますまい? あなたの後ろにお控えの従姉妹ぎみに……」
エンザはその言葉にパッと振り向いた。
果たして、闇に包まれた部屋の隅に、その闇より深く黒い服に身を包んだ仮面の貴婦人が立っていた。
「レディ・ユリイラ……」
ユリイラ=リイ・ラは唇に薄い微笑みをたたえ、裸の少年をじっと見つめていた。
* * *
その暗いトンネルは、螺旋を描きながらどんどんと下に向かっていた。
ついさっき、この都市のどん底に落ちたと思っていたが、どうやらまだまだ落ちるべき下があるらしい。空里はそのトンネル以上に暗い気持ちで歩き続けていた。
やがて、前方に緑色の光が見えてきた。
なんとも言えない刺激臭と、耳障りなノイズがそちらから漂ってくる。
空里、シェンガ、ティプトリーの三人は、トンネルを抜けて、薄暗い広間に出た。見えていた緑色の光は、広間のあちこちに浮かぶ立体映像のものだった。浮かぶ惑星。都市の情景。話し合う人々。戦いの様子と思しき映像も浮かんでいる。
「これ、録画の再生? まさか全部、ライブの映像なのかしら?」
ケイト・ティプトリーが、メディア人らしい好奇心をあらわにした。
「ドロメックのビジョンだ。それも帝国中から送られてきている映像だな」
シェンガが言った。
「そうか、こいつらは情報賊なんだ」
「デト……何それ?」
空里が聞いた。
「銀河中に不法なドロメックやスパイ生物を放って、ありとあらゆる情報やデータを密売している連中さ」
よくわからないが、とにかくあまり関わりにならない方がいい人種らしい。
空里はこの星に着いてから何度目かのため息をついた。




