1. 空里の夏
抜けるような東京の青空のもと──
遠藤空里はやめることにした。
弓道部を。
やっぱり続かなかったのだ。
練習がきつかったわけではない。むしろ楽しかったと言っていいと思う。それでも昨日の練習試合(夏休み中にやるなよ)はダメダメ過ぎた。心が折れた。
何より、足を引っ張るだけだった自分への部員たちの慰めがキツかった。
向いてない。
みんな、そう思ったことだろう。自分でもそう思っているんだから。
もうやめよう。ここが限界。
思えば、子供の頃から習い事や部活は何もかも中途半端だった。
ピアノも、絵も、ソフトボールも。
ある程度は続くのだ。しかし、何かをきっかけにして「もうダメだ」と思ったらもうダメ。
悩んで、立ち止まって、自分の何も無さに自分で呆れて。進む方向を変えてみたところで、一歩も前に進んでいない。
そんなことを繰り返していつの間にやら高校二年。最後は、どこにも進めないまま終わるんじゃないか……。
とにかく、この登校日の間に退部届を出す。
夏休み中にやめちゃえば、しばらくは他の部員に会わずにすむし。
「アーサートー」
背後から元気な声が名前を呼んだ。
ミマか。ホントいつも元気だよな。
「なんで兵器を持ち歩いてんの?」
追いついてきた小柄な少女は、空里が背負った弓と矢筒を突っつきながら言った。多分「武器」って言いたかったんだろうが。ボキャブラリーがいびつなやつ。
「昨日、練習試合だったの」
「おう、勝った?」
「聞くな」
「そっかー」
セーラー服の上の小さな頭が、大げさにかくんとうつむいた。
仕草がいちいち可愛いよな。
ミマ──高橋美愛菜とは高校入学以来の付き合いだが、身長差は開く一方だった。女子の目から見てもちっちゃくて、頭を撫でたくなるようなこの少女に対し、空里はまるでキュウリの苗のようにヒョロヒョロと背が伸びて、今では身長が百七十一センチある。
どう見たって、こいつの方が可愛い。
自分が男子だったら、絶対こっちに一票だ。
「それで、夏休み中は練習に打ち込むわけ?」
「打ち込まない。部活、やめることにしたから」
「え?」
そんな目で見るな。クソ暑いのに抱きしめたくなるだろ。
「……そっかー」
しばらく黙って歩いていると、ミマが小さく囁いた。
「アサトってさあ、真面目すぎるんじゃね?」
「あたしゃ、真面目だよ」
「うーん、それは結構なんだけど……」
ミマのポニーテールが左右に揺れる。
「もちょっと気を抜いて生きてったほうが、楽だと思うんだよなー」
「あんたは気を抜いてるの?」
「もう抜きすぎ!」
自信満々の答えに、思わず笑った。
「じいちゃんが言ってた。ものごとには〈あそび〉が必要で、〈あそび〉があった方が強くて長持ちするんだって」
口調は熱心だが、言葉は今ひとつ脈略がつながらない。
「長持ち……って何が?」
「うーん、ほらいろんな道具とか、機械とかそういうの」
「あー、弓道の本にもなんかそういうこと書いてあった。弓のつるを張る時あそびが要るんだって」
「ほらあ、だからさ」
我が意を得たりのミマは空里の前を後ろ向きに歩き出した。
「だから遊びに行こ! な! ね!」
突然の論理の飛躍。
それから海がいいの、アウトレットモールがいいの、某テーマパークで開催中のイベントがどうしても見たいのと他愛のない話をしているうち、学校に着いた。
都心のオフィス街にかこまれた、中高一貫の私立女子校である。
こうした環境下の学校としては珍しい広い校庭を横切りながら、ミマが愚痴った。
「あー、ガッコに来てしまった。こんないい天気の日に……」
「それが高校生の宿命ってやつじゃないんすか」
「いや! 高校生といえども、天気のいい日には遊びに行く権利がある!」
言い切ったミマは、極端に声を落として付け加えた。
「彼氏と……」
「! できたんか?」
「つくるんよ。この夏のうちに」
空里は苦笑した。
「なんだその顔はー。あたしゃやるよ。バイク持ってる彼氏つくって、ニケツで青空の下、どこまでも飛んでくのだ!」
バイクは飛ばねーだろ。
「それが、夏休みの目標かい」
「そーよ! アサトも真面目に悩んでないで志を高く持て!」
いまひとつ何を言いたいのか不明だが、ミマなりの励ましであることはなんとなくわかった。
本当、可愛いよあんたは。
彼氏のバイクにニケツでデート。
そんな、ドラマかアニメでしか見たことないシチュエーションに憧れるのがふつうなのかな。
まわりで囁かれる恋バナもあいまいに頷きながら聞いてるだけの空里には、自分の淡白さに対する自覚がある。
しかしどこかに、彼氏ができるとしたら誰にも知られずこっそり……そして、ある日その存在がバレて「意外!」とかミマに言ってほしいというよこしまな欲もある気がした。
なんのことはない。努力もせずに彼氏をつくりたいと思ってるようなもので、堂々と目標を掲げるミマの方が潔い。
そうよ、はっきり言っちゃえばいいのよ。
年下の可愛い彼氏が欲しいって……。
でも言わない。
そしてまた、ミマが眉をひそめるような自己嫌悪におちいるのだ。
真夏の抜けるような青空が、そんな思いとは裏腹に明るい。夏も夏休みも、過ぎ去ってしまえば多少は気楽になれるんじゃないだろうか。
昇降口にたどり着いた空里は、その日起きてから一番大きな声でひとりごちた。
「あーあ、早く八月終わんないかなー」
まわりにいた夏に夢見る少女たちが、部屋に飛び込んできた羽虫を見つけたような目で空里を見た。