婚約破棄されたのはこっちなのに俺が振り回されるのはなぜなんだ
「ノア・シュバルツ! わたし、あなたのお嫁さんになってあげるわ!」
屋敷の庭園で花を摘んだミアは花束を抱いて俺を振り返る。
幼なじみのそんな姿は心臓に悪い。
「はいはい、ありがとう。嬉しいよ」
初めて会った時にどこが気に入ったのか、ミアは俺に向かって嫁入り宣言をした。それはお互いが十六歳になった今も続いている。
「あなたの艶やかできれいな黒髪も黒曜石の瞳もとても好きよ」
「はいはい、ありがとう」
「もうっ! もっと嬉しそうな顔をしてよ」
わざとらしく、はいはいと返事をして俺はミアの頭に手を乗せた。
「俺もミアが好きだよ。はねっかえりの赤毛も青いびっくり目も」
「ノア! それって褒めてないでしょう!」
褒めてんだよ、俺は。第六王子なんていう身分も関係なく真っすぐぶつかってくるお前のことがいつの間にか好きになってた。
言わないけどな。というかそんなに軽々しく言えるものでもない。
代わりにニヤニヤ笑って、さあねと明後日の方を向く。
「茶でも持ってこさせようか。花も部屋に飾ろう」
「お茶なんかで誤魔化されませんからね」
「今日はパイを焼くって言ってたなあ。お前好きだろ、レモンとオレンジのパイ」
ぱあっと顔が明るくなる。なんてわかりやすい。そんなところも好きだ。
「ではミア・アインホルン侯爵令嬢、お手をどうぞ」
ミアは気取って俺に手を預けた。
こんなだから許嫁だと周りに言いふらされるんだ。俺としてはひそかに歓迎しているんだけどな。
「ノア、今少しいいか」
昼食の後に父上が声をかけてきた。
談話室にふたり分の茶を用意させ人を遠ざける。あまり公には話したくないことなのだろうか。
だが父上は寛いだ様子でカップを手に取った。
「アインホルン侯爵の娘とは相変わらず仲がいいようだな」
「小さい頃からの遊び仲間ですからね。兄妹みたいなものです」
「先年、侯爵のおかげで大きな取引が上手くまとまってな。それがきっかけではあるのだが、実は前々からお前の結婚相手としてどうかと考えていたのだ」
正式に婚約したわけでもないのに周りは俺とミアを婚約者同士だと思っている。噂がひとり歩きした結果だ。
さすがに父上はそんな誤解を真に受けたりはしていないが、事実としてしまえるなら俺としては嬉しい。
「もし他に想う人がいるなら、こちらとしても無理強いするものではないが」
気楽に考えろと言って父上は部屋を出た。
俺は六番目だから身軽な立場だ。だから父上も好きにしろと言ってくれる。
どちらにしろミアの気持ち次第だな。あの子どもの頃からの言葉がもし本気じゃなかったら、ひとりで盛りあがっている俺はバカみたいじゃないか。
夏の盛りというほどではないが、ここのところ暑い日が続く。
川遊びをしたいと言い出したのはミアだったが、俺もその考えには賛成だった。水はまだ冷たいから川岸で涼を取る程度だ。それでも王都のただ中よりはマシといえる。
「ノア! 気持ちいいわよ。あなたも川に足を浸けてごらんなさいな」
はしたないぞ侯爵令嬢。そんなにドレスの裾を持ち上げるんじゃない。
……目の保養ではあるがな。ってそうじゃない!
「おい、はしゃぎすぎると危ないぞ。その先は流れが早い。戻れ」
「平気よ。ここから動かなければいいでしょう」
「足が冷たくなりすぎるだろう。ほら手を貸してやるから」
ひとしきり遊んで日傘の影に戻ってくる。
「少しは涼しくなったわね!」
「そうだな、だが風に当たると冷えるぞ」
上着をかけてやるとミアが微笑む。そうしていると天使のようなんだが口を開くと元気がよすぎる。
「あれは……騎士団の方々かしら」
「ああ、王都の見回りは当番制だからな。今日はレオンの隊か」
「どなたですって?」
「レオン・クラウゼ公爵。当主だった兄が亡くなって代替わりしたばかりだ」
先頭を行く金の髪。遠目からでもその端正なたたずまいは目立って美しい。俺が見てもほれぼれする。
ミアがほうっと息を吐いた。
「わたし、あの方のお嫁さんになってもいいわ」
「なんだって?」
こちらに気づいたらしく近寄ってくる騎馬隊。
熱に浮かされたようにそれを待つミア。
俺はといえば頭を抱えてため息をついていた。
「ノア様、休暇とお聞きしておりましたがこちらでしたか。水遊びには少し早いかと存じますが」
「お役ご苦労、レオン。今日くらい暑ければかまわんだろう。そろそろ帰るつもりだしな」
「ではそちらのお嬢様もご一緒にお送りしましょう」
周りを見回したがミアがいない。
「ミア?」
「ここよ」
背中から声がした。
「うおっ!?」
なんだこの小さな声は。いつものミアなら胸を張って顔を上げて前に出てくるはずなのに。
「レオン、こちらはミア・アインホルン侯爵令嬢だ。俺の幼なじみってとこだな。ミア、彼はレオン・クラウゼ。先日代替わりで公爵位を継いだ。俺と共に騎士団員なんだ」
互いによろしくと引き合わせたが、この不安はなんなんだろう。
「ミア、そろそろ帰ろう。レオンが送ってくれるそうだ」
「ええ、そういたしましょう」
「どうしたミア。大人しすぎて気持ち悪いぞ」
「もう! ノアったらそんなこと言って! こ、公爵様に呆れられてしまうじゃない」
鷹揚な笑みを浮かべるレオンは行きましょうと歩き出した。
レオンは騎士団の中でも相当に腕が立つ。俺はそれに追いつくことを目標にしていた。
成人したからなのか、部屋住みではなくなった自信のようなものなのか。ふたつ上なだけなのに余裕ある立ち居振る舞いにも憧れる。
俺も家を構えたらこんな風になれるだろうか。そんな風にも思っていた。
今日はなぜだかそれが鼻につく。
それでも俺は俺だと気持ちを切り替えたひと月後。
俺は目の前のレオンから衝撃の言葉を聞いていた。
「婚約を解消していただけませんか」
「……すまん、言っていることがよくわからないんだが、俺の結婚についての話なのか?」
「アインホルン侯爵令嬢とご婚約なさっているでしょう! お願いです。それを解消していただきたい」
そう言ったレオンの赤みがかった目が思いつめたように俺を見た。
こいつ、こんなやつだったか?
「待て待て待て。ちょっと落ち着け。順を追って一から説明しろ。わけがわからん」
「も、申し訳ございません。先日、川遊びの帰りにおふたりをお送りした後のことです。ミア殿より丁寧なお礼の手紙をいただきまして」
分厚い紙の束が届いたそうだ。あいつならやりかねん。
「さすがに最初は紙の量に驚きました。丁寧に何度もお礼の言葉が連ねられているのでこちらが恐縮するほどでした。手紙を返すとまた言葉を尽くしてくれるのです」
そのうちについ自分の悩みを相談してしまったとレオンは深く息を吐いた。
「私はこの容姿にコンプレックスがあったのです。背が高くて人より目立つのも本当は嫌いなのです。きちんとなでつけられない髪も威嚇するような目つきも。ノア様のようににじみ出る自信もなくて、尊大に振舞うことでそれに替えようともしていました。それなのにその欠点も美点だと言ってくれたのです。駄目だと思ったら変えていけばいいとまで」
ああ、ミアらしい。ありのままの彼女が素直に思ったことを返してくれる。それが心に響く。嬉しくて、だから好きになる。
こいつも俺と同じか。
「何度か手紙をくれて、面白く、と言ったら語弊があるかもしれませんが読んでいて彼女自身に興味を持ち始めたのです」
「それで? あいつとデートでもしたのか?」
「デートだなんて! お茶に誘っただけです」
世の中じゃそれをデートって言うんだよ。こいつ、本当に不器用なやつなんだな。
なんとなく感じていた不安が現実のものになってしまった。
これは俺が折れるしかないんだろう。どうせ俺の心は世間のやつらには知られていない。
「実は昨日、同じ話をミアから聞かされた」
「は、はい?」
「言っておくが俺とミアは婚約なんてしていないぞ」
「え? えええっ!」
そういう反応を見ると俺と大して年は変わらないんだな。
少し面白く思えてきた。心が痛いのは変わらないんだが。
「幼い頃からのつき合いでどちらかと言えば家族みたいなものだな。まあ周りが誤解するほど仲が良いというのは認める」
「そう、なんですか」
「お前のことを話すから聞けと小一時間つき合わされたんだぞ」
その間、ミアがしゃべりっぱなしだったと言うとようやくレオンの顔に笑みが戻ってきた。
「あいつが俺以外のやつに嫁入り宣言をしたのはお前が初めてだ。ちゃんとつかまえておいてやれ」
「ありがとうございます」
レオンが帰った後、その足で父上にアインホルン侯爵令嬢との話は待ってくれと伝えにいった。
「俺は結婚はまだいいです。それよりは近隣の国を回ってみたいと思いますね」
「振られたのか?」
「そんなにストレートに言わなくても」
げんなりした顔をすると父上は苦笑してがんばれと俺の肩を叩いた。
「傷心の旅もいいだろうが変なものをつかまえるなよ」
「どういう意味ですか」
いろんな意味だと父上は笑い飛ばす。
「それよりもあの娘の相手は誰だ」
「クラウゼ公爵です。互いの相性はよさそうなのでこのまま結婚という話になってもおかしくはないと思います」
「ほう」
「そのうちミアがうるさく言うから広まるとは思いますけど多分まだ俺しか知りません」
手紙のやり取りと一回会っただけならさほど噂にはなっていないだろう。
「ふむ……公爵家か。アインホルン侯爵にとっても悪くない。いいだろう、話がまとまるなら国としても歓迎する」
「では周辺の誤解は解いたほうがいいでしょうね。なぜか俺とミアが婚約していることになっているので」
「なんだそれは」
「単なる噂の一人歩きですが、はっきり婚約破棄という形を見せたほうがいいかもしれません」
公の場でそれをする気もないが、証紙くらい出してやってもいいのではと思う。
「なんとも我が国は平和だなあ、そんなことを心配しなくてはならんのか」
「父上の手腕のおかげですよ」
「褒めても何も出んぞ。ああ、旅の路銀を少し足してやろうか」
お願いしますと笑って父上の元を辞し部屋に戻ったが、さてどうしよう。正直ミアと一緒に行動することが多くて、あいつ抜きの遊びが考えられない。
「というか、まずはあいつらがまとまってくれないと。おちおち旅もできないな」
数か月後のこと、ミアは婚約破棄の証紙を大臣から受け取った。
ミアは首をかしげていたがレオンは黙って俺に頭を下げた。あいつらが大っぴらにつき合うようになったのはそれからだ。
仲睦まじい様子を聞けばイラっとするやら、ほっとするやらだったが、しばらくして久しぶりにミアと会うことになった。
「わたしレオンのお嫁さんになるわ! ずうっとレオンに言うなって止められていたけど、言ってもいいって言ってくれたのよ」
神妙な顔でなにを言うかと思ったらそれか。思わず笑ってしまったじゃないか。
「そりゃあよかったな」
「ノアのことも大好きよ。でも今の一番はレオンなの」
「それは将来レオンが一番じゃなくなるってことか?」
「ノア、しばらく会わないうちに意地悪になったわ」
「俺も忙しいんでな」
しばらく会わないのところにだけ、そう言った。
意地悪の意味なんてまだ言いたくない。
それよりも本当に忙しいんだからな。俺は近々、王命により近隣諸国の視察に出ることになっている。
「ねえ小さい頃のこと覚えてる? ノアが声をかけてくれて遊ぼうって言ってくれたでしょう。あの時は他の子たちの輪に上手く入っていけなかったから本当に嬉しかったのよ」
「そうだったか」
「いつもそうやってとぼけるのね。あの証紙もようやく意味がわかったわ。あなたが出すように言ってくれたんでしょう? 納得しない人たちに証拠を見せられるようにって」
「わかったんなら上手くやれよ」
「ありがとう。レオンのお嫁さんになって幸せになるわ」
ミアは俺に抱きついて大好きと耳元で言った。
俺の心はまだ痛いというのに。
「レオンを待たせてるんだろう? 早く行ってやれ」
ミアを送ってため息をこぼす。
「俺も大好きだよ」
ミアの大好きとは意味が違うのだろうが。
慌ただしい出発だったが道中はゆっくり進んでいる。
なぜか度々厄介事にまきこまれて、それを解決しているからだ。おかげで道連れが増えている。
傷心旅行というよりは世直し旅ですなと笑う爺さん、それに従者も二人増えた。今も娘をひとり助けたところだ。
まるで物語のようだが、この出会った娘が少しずつ気になり始めている。