「あなたを愛することはない」はずだったのに~予想外の事もきちんと考えておきましょう~
楽しんでくださるとうれしいです
私は隣国ラシェル王国の侯爵家の長女、クリスティン・ウェザース、もうすぐ十九歳になる。
今日、この国ノストリート皇国の公爵であるエリオット・マルドナード、たしか二十五歳?、と結婚式を挙げた。
ということは、クリスティン・マルドナードと紹介するべきかしら。細かいことはさておいて、すでにあまり多くもない招待客への挨拶も済み、今は初夜と呼ばれる時間になった。
私は、かねてから用意していたハイネックで露出の全くない夜着を身に着け、さらに長袖の厚手のガウンをその上に纏い、幅広のベルトをしっかり腰に巻いて準備万端。侍女たちは怪訝な表情をしていたが、「冷えるのはダメなの」と言って着込んだ。
そして今、私は寝室に続く夫婦用のサロンで鶯色の地に金色の縁取りがされた雅やかなソファに座り、両手を胸の前で合わせ、期待を込めて法律上の旦那様を待っている。
結婚式でも碌に目を合わせなかった旦那様。さすがに誓いのキスは皆が見ているから、端折ることが出来ないと思ったのか、するにはしたが、唇を僅かにずらしたほんの接触程度。
こちらの社交界では、"冷徹公爵"と称され、近寄る女性に冷たい眼差しで『あなたを愛することはないから、私の前から消えてくれ』と言うらしい。
それもちょっとどうなんだろうと思う。性格がかなり拗れているのね。
でもそれは、私にとっては願ったり叶ったり。
旦那様が「あなたを愛することはない」と言ったら、すぐに契約書にサインを貰おうと、ワクワクしながら扉を見つめる。
やがて、サロンの扉が静かに開き、入室してきた旦那様は、五歩ほど歩いたところで、止まった。
案の定、冷ややかな目をして私を見下ろす。さあ、始まるわ!
旦那様は、睨むように私を見ながら
「あなたには申し訳ないとは思うが、私は結婚という看板が欲しかっただけなんだ。だから、あなたを愛するこ・・・・、ん?何か企んでないか?!」
旦那様は私の異様な雰囲気を訝しんで言葉に詰まっている。
あら、ちょっとお芝居を見るような気持ちになっていたわ。
いけない、いけない、気を引き締めて、
「いいえ何も企んでなど......。さあ、どうぞどうぞ続きをおっしゃってくださいませ」
「催促されると、なぜか言いにくくなる」
「お気になさらずに!」
旦那様は、少し戸惑いながらも
「では、あらためて言うぞ。私はあなたを愛することはない」
よし、とりあえずは言質を取ったわ!
「はい、旦那様のお気持ちはよく分かりました。つきましてはこちらの書類を用意しましたのでサインお願いします。もし旦那様も契約書をお持ちでしたら、擦り合わせが必要ですが」
目の前のローテーブルに置いてある書類とペンを旦那様のほうへ向ける。
「ほう、契約書にサイン?」
「えーと、旦那様は、あまり女性に関わるのはお好きでないと聞いております。形だけでも結婚すれば言い寄る女性たちを追い払うことが出来ると思い、私に結婚を申し入れたということでよろしいのですよね。実は、私の父がこの縁談を心配しまして、少し調査をいたしましたの」
旦那様は、少し眉間にしわを寄せたが、怒っている様子ではないのでこのまま話を続ける。
「旦那様は、隣国の王太子に婚約破棄を宣言されたプライドの高い貴族の娘である私なら、皇国の公爵家の妻という立場を用意すれば、お飾りの妻でも受け入れるだろうと思っていらっしゃったのでは?」
「当たらずとも遠からずと言ったところか」
私はさらに畳みかける。ここで会話のイニシアチブを取らなくてはサインが貰えない。
「そして、旦那様には足しげく通っている愛人さんがいらっしゃいますよね? 確か平民の方とか。その方はまだお若いので、私との結婚はその方が公爵夫人としてふさわしい教養を身につけるまでの中継ぎと言ったところでしょうか?」
「それを知って、義父上はこの結婚を許したのか?」
「ラシェル国内での縁談はあまり気乗りのするものがありませんでしたし、なによりこの国に来ることを私が望みましたので」
◇◇◇
そう、私は半年ほど前の王立学園の『卒業を祝う夜会』で、婚約者のラシェル王国の王太子アダムから、婚約破棄を宣言された。
八歳で婚約したが、尊大で俺様な彼に私は好意と言うものを感じることはなかった。しかし、幼心にもこの縁談を受け入れざるを得なかった両親の気持ちを思い、そのうちに好きにならないまでも信頼関係を築けるかも知れないと思い耐えていた。そんな私にアダムも不満だったはず。
「可愛げがないが、容姿だけは合格だよな」と私を見下す。
王妃教育は大変だったが、先生方が優秀だったので、多方面にわたって深い知識を得ることができた。近隣諸国の言語や地理歴史、経営学、法律などなど。特に人脈づくりの有用性は学園に入ってから役に立った。王室特有の祭祀についてはちょっとどころではなくかなり面倒だったけれど。
学園では多くの学生たちと交流をし、信頼関係を構築することを心掛けた。もちろん、話題作りのために、彼らの領地の特徴とか、家族構成とかも頭に入れた。
学園は平民も入学できる。平民とはいえ、学費も高いので当然裕福な家庭の子が多い。それでも彼らとの交流にはずいぶん刺激を受けた。
彼らから一般の庶民の在り方についてもよく話を聞いた。貧富の差はあれど保守的な貴族社会では考えられないほど自由だ。いずれ彼らの時代が来るのではないかしら。アダムの婚約者でなければ、もっと自由に羽ばたきたいと思った。
さて、男爵令嬢のノラが学園に現れたのは三年生の中頃だった。卒業の一年半前。
ノラはピンクブロンドの髪を揺らしながら、さも世慣れのしていない儚げな少女を装い高位貴族の令息たちに近づいた。だいたい学園といえども、男女は別々の校舎で学ぶ。講堂だけは一緒だが男女合同で使用するのは一年に二度ほどしかない。
そんな状況の中で、高位貴族の男子生徒に近づくなんてかなりの手練れと言うしかない。
まあ人はだれしも持ち上げられれば悪い気はしないわけで、それでもほとんどの女の子たちはノラを良くは思っていなかった。
そんなあざといノラにすっかり絆された馬鹿な三人がいた。その一人は私の婚約者アダムだった。
帝王教育をまともに勉強していれば、ハニートラップかもしれないと疑いそうなものだが、彼はむしろ深みにはまっているようだった。
彼の窮屈な立場を思うと、少し同情する気もあったが王太子としては失格と言わざるを得ないだろう。
この頃から、どうしたらアダムとの婚約解消に持っていけるかを真剣に考え始めた。
それにはノラを利用するのが最適だ。
何人かの友人に頼み、学園での彼女の行動を調べて貰った。なにせ私は午後には王妃教育や執務のため王宮へ向かわなくてはならない。学園の学習内容はほとんど終わっていたので最終試験さえ通れば卒業には問題がないのだ。
さらに王宮では王妃教育の一環だからと言って、アダムの仕事もさせられていたので、ノラに接する機会もほとんどなかった。
友人たちの話によると、ノラはアダムに愛されている自分こそが王太子妃にふさわしいと思い始めているようで、私を排除しようとアダムに私の悪口を吹き込んでいたらしい。
それを聞いたときは本当に嬉しかった。ノラにはぜひ王太子妃になって欲しいと思った。こんな忙しさから脱出出来るなんて最高!と。
しかし、だからといって、ノラに陥れられるわけにはいかない。陥れるのは私の方だ。
さっそく、従者のジョシュに彼女の調査を依頼した。
ノラはペイン男爵家の後妻に入った市井の愛人の連れ子で、男爵とは血の繋がりがあるかどうかまでは分からなかったが、男爵はノラのあの容姿がいずれ男爵家の役に立つと思っていたらしく、彼女も上昇志向が強かった。
男爵家は付け焼刃のマナーを彼女に教え、最低限の学力をつけるために家庭教師も雇ったようだが、周りの評判は芳しくなかった。
私は学園内外で一人でいることを極力避け、自分の行動も記録した。もちろん友人達も私の味方だ。
教師たちの協力も取り付けた。王城への入退城の際は、時刻を書き必ずサインをすることになっているので、いざという時はそれを証明してもらう手配もした。
また、私が友人たちを利用して、ノラを苛めたと言われても困るので、彼らに十分に警戒するように言っておいた。
「ノラ様、殿方との距離が近すぎると思うのですが、淑女としてはどうなのでしょうか?」
通りすがりに、わざとちょっときつめの言い方をしてみると
「クリスティン様。私とアダム様が仲が良いからってそんな風に言わなくても...。私はただ王太子と言う大変な立場のアダム様を応援しているだけなのに」
とポロっと涙まで出せるのには、感心した。
アダムの方も
「クリスティン、お前は相変わらず言い方がきついな。ノラが泣いているではないか。可哀そうに。ノラに謝れ」
「アダム様、いいのです。淑女としての振る舞いができない私が悪いのです」
「ノラはなんて優しいんだ」
はあ、なんてすばらしいお芝居でしょう!
そうして、やって来た『卒業を祝う夜会』。
友人数人から、この日に婚約破棄宣言を行うという情報は得ていた。
さて、予想通り、これから乾杯と言う時にアダムは私を呼びつけた。
ノラをいじめていた私には王太子妃の資格はないから、「貴様との婚約を破棄する」と言う。
そして、ノラの腰をしっかり抱きよせて、
「ノラこそが私の妃にふさわしい。これこそが真実の愛だ」と言った。
さらに、二人は、私が犯したという非道を羅列し始めた。
ノラに夢中な馬鹿二人も口々に私を罵る。
それは思ったより稚拙なものだった。
例えば、私がノラのカバンの中に蛙を入れたとか、膝丈もない水深の人工池で私がノラを後ろから突き落としたとか、教科書を隠したとか。よく聞けば、それが行われた時間帯はすべて午後、放課後だという。
「殿下、私にそんなことができるわけはありません。不可能です。なぜならその話の時間帯は王妃教育のために王宮に出かけ、学園にいないのですから」
バカな三人とノラを除いて、みんな知っていることだ。
「学園にいない?」
「ええ、午後は王妃教育と公務で王宮に行っております。家には王宮から帰宅するので学園に寄ることもありませんわ。王宮の管理官に聞いていただければわかるかと」
「う、そうなのか…。それでは、きっと、友人たちにやらせたんだろう」
残念ながら、その言葉は教師たちや学園で仕事をしている人たちが全否定してくれた。
学園の中で人の目がないということはほとんどない。良家の子女を預かっているのだから安全のためにあちこちに人員を配置しているからだ。
「そういう隙のないところが嫌いなのだ」
苦虫を噛み潰したような顔でアダムに言われたが
「王妃教育の賜物です」と返した。
予想していたとはいえ、このような公の場所で婚約破棄なんて、あまりにも馬鹿げていて彼らはこの学園で何を学んでいたのだろう。
そして私は、ノラには出来ないきれいな淑女の礼をしてアダムに告げた。
「殿下が私との婚約を破棄したいというお望みは、慎んでお受けいたします!」
卒業生とその保護者がいる前で『婚約破棄宣言』をしたのだから、王室が何と言おうとこれは決定事項。
私の努力が報われた瞬間だった。
ノラが私を指さし、顔を真っ赤にして叫んだ。
「理屈ばっかりで可愛げのないあんたなんか、誰とも結婚できないんだから!」
だが、なぜか翌日からは、次から次と縁談が舞い込んだ。
ちなみに、あれから、婚約破棄に関わったノラと三人は、一年間、領地に幽閉。釈然とはしないが、これ以上事を荒立てても仕方がない。
ラシェル王国の政治は四大公爵家が牛耳っているから、王太子妃一人挿げ替えたところで大したことはないのだ。王室にはそれなりに権威はあるが、貴族たちは、強いて王室に付く必要もない。むしろ、王族が馬鹿な方が御しやすい。
私は、もう、息が詰まりそうなこの国に居たいとは思えなかった。王妃教育は大変だったが、得た知識は私を成長させた。
女性も起業できる隣国のノストリート皇国へ行って、自分を試したいと思い始めた。
そこで、数ある縁談の中からノストリート皇国のエリオット・マルドナード公爵からの申込みを受け入れることにした。
お父様は彼の噂を心配して、色々調べて下さったけれど、もとより愛情なんて期待してもいなかった、自由にさせてくれさえすればいいと契約書を作成し、準備万端整えて今に至る。
◇◇◇
旦那様は私の前方の椅子に座って、テーブルにあるその書類を不機嫌そうな顔で覗いた。
そこで私は契約内容を説明する。
「まず、旦那様が妻となった私を愛することはない。よって私たちは白い結婚であることを受諾する。旦那様の愛人宅への出入りは自由。私の事業や恋愛に関しても異議をはさまない。万が一、私が他者との間に子供を設けた場合、その養育の責務はすべて私にある。公爵家は一切関知しない。また、旦那様が愛人との間に子を設けた場合も同様、養育は全て愛人と旦那様が行い、私は一切関知しない。
そして、結婚式から二年後に必ず離婚をする。両者の同意の上の離婚なので慰謝料は発生しない。離婚するまでの私の衣食住は保障される。それと持参金は私の自由に使うことができる。要約すればこういうことですね」
「うむ、ずいぶんあなたに都合の良いような気もするが、なぜ離婚が二年後なのだ?」
「普通は子供ができないのを理由に三年後という事が多いですよね、たぶん旦那様もそのおつもりでしたでしょう?」
「ああ、まあ」
「三年も偽りの夫婦を演じるなんてかなり大変なことだと思いますわ。離婚の理由なんてどうにでもなります。性格の不一致とか、将来に対する意見の食い違いとか。二年も経てば旦那様のまだ若い愛人さんも公爵夫人としての知識を得、貴族の養女先も見つかるでしょう。愛人と言う不安定な立場は早く解消して差し上げた方が良いと思いますわ。さらに、私がこちらの国に慣れる期間と私の再婚の年齢を考慮すれば、そうなるかと」
旦那様は長い足を組みなおして、初めて私を認識したかのように見つめる。
私の方も結婚式の時はどうせお飾りの妻だからと思ってあまり旦那様を見ていなかったけれど、よく見ると目鼻立ちが整い色香もある。数年間騎士団にも所属していたらしいので、骨格もしっかりしている。女性が寄ってくるのも当然だわ。
「で、事業とはなんだ?」
「私はこの国で商会を起こしたいのです。だからこの縁談を受け入れました。こちらの国の市民権を得るのは、結婚が手っ取り早いので」
「商会?」
「私の国は、女性が商売をしたり経営をしたり資格を取って事務所を開いたりなんてことができないのです。もちろん爵位も女性には譲ることができません。本当に今時とんでもない国ですわ」
「ふーむ、あなたは、婚約解消で傷ついていると思っていたのだが......。違うのか? 差し支えなければ、婚約解消までの経緯を話してはくれないか?」
「旦那様もお調べになっていらっしゃると思いますが...」
私は、婚約したときからノラの登場、そして婚約破棄宣言までをかいつまんで語った。
「つまり、あの国の王子妃なんて四大公爵家にとっては誰でもいいのですよ。高位の貴族の出身で、ある程度の教養があれば」
「なぜ四大公爵家から婚約者を選ばなかったんだ?」
「まあ、あまり公にはされていないのですが、代々の婚姻関係で血が濃くなり過ぎたという事でしょうか」
旦那様はため息を吐きながら
「あなたはどちらかと言うと婚約解消を喜んでいるのか......」
「はい、でも相手が王室という事で強く言えずに、婚約時に婚約解消についての取り決めが出来なかった事が悔やまれます。王妃教育をさせてやったのだからという事で慰謝料もありませんでしたから」
私はここでしっかりと言葉に力を入れ、
「ですから契約は大事です!」
「見かけによらず逞しいんだね」
「商人を目指すのですから、それなりには」
腕を組んで、難しい顔をして考え始めた旦那様は
「そうだな...、あなたも言いづらいことを話してくれたのだから、私も『本当のこと』を話そう」
「本当のこと...ですか?」
「義父上が調べても分からなかったことだ」
旦那様は立ち上がり、キャビネットからブランデーとグラスを二つ持ってきて、テーブルの上に置いた。
「飲めるか?」
「少しですけど」
私のグラスと自分のグラスにブランデーを注ぐと、一口飲んで、
「実は、愛人と言うのは誤解だ。彼女は妹だ」
「は? そうなのですか?」
思ってもいなかった事なので、私はとても驚いた。愛人を前提として書いた契約書が無効になってしまうのではと言う嫌な予感がした。
「それを知っている人間はごく僅かだ。なぜかあなたに聞いてほしくなった...」
私としては、契約が反故になるかもしれないのであまり聞きたくは無かったが、仕方がない。事実を知ることで次の一手を考えることが出来る。
そんな私の気も知らず、旦那様は、少し寂しげな表情をされて、話し始めた。
ーーーーその妹さんの母親は公爵家のメイドだったそうです。
お義母様は、美しいと評判の第一王女だったから大変プライドも高く、我儘で癇癪持ちでもあったので、政略結婚のお義父様とは結婚当初から気持ちがすれ違っていたという。そのためにお義父様はいつしか優しいメイドに心魅かれ、旦那様が六歳の頃に彼女の妊娠が分かったという。
(よくある話だけれど、やっぱり浮気よね!)
メイドの妊娠の相手を知ったお義母様が、これまでにないくらいの癇癪を起し、お義父様が留守の間にそのメイドを追い出したらしい。メイドの方もお腹の子どもごと殺されるかもしれないと恐れて、国内を転々としながら隣国カルヤ王国の救護院まで逃げて行った。可哀そうに思った当時の執事が、ある程度のお金をそっと持たせたと言うことでーーーー
「父は母の目を盗んでは捜していたが、見つけることは出来なかった。しかし、メイドが逃げてからちょうど八年後、カルヤ王国から来たある商人との会話で、かのメイドがその商人の妻となっていたことが分かったのだ」
それからは、
ーーーーお義父様は信頼できる使用人に商人の自宅をこっそり調べさせて、そこにいる七歳になる女の子がお義父様の子で、その子はどうやら前妻の子供たちに冷遇されているということが分かった。
女の子の母親は前妻の子供たちに遠慮して何も言えなかったらしい。
お義母様が目を光らせているので、こちらに引き取ることは難しい。そこで使用人に何度かその子と接触させていた。
それから五年ほど経って彼女が十二歳になった時に、そろそろ出生の真実などを理解する年頃だろうと思い、お義父様が初めて彼女に会いに行ったという。
彼女に出生の事情を説明した後、
『君はまだ幼いから、連れて行くと誘拐と思われる。君の意思で皇都に出るという事にしたい。だから、二年経ったら必ず迎えに来るからそれまでは我慢してここで暮らして欲しい、また、このことは誰にも言わないように』
と念を押し、彼女もそれを守った。この国では十四歳になると、働きに出ることができるのです。
そして彼女が十四歳の時、かの使用人にこの国の皇都に連れて来てもらい、知人で服飾関係の店を経営している婦人にその身柄を預けた。最初は針子をしていたが、彼女は商人である彼女の義父の手伝いもしていたので、帳簿もつけることができ、今では店などで重宝がられているという。ーーーー
「あなたも知っている通り、父は二年ほど前に病で亡くなったのだが、彼女を認知していたわけではないので、彼女には遺産を貰う資格がなかった。結局、生前の父に頼まれていた私が、彼女を援助することになったと言うわけさ」
小説にしたら、前、中、後編はいけるんじゃないかしら...。
「はあ、そうだったのですか。よろしければ彼女のお名前を教えてくださいますか」
「ケイトリンだ。父が女の子ならケイトリン、男の子ならライアンと言っていたらしい」
「ケイトリンさんですか。可愛らしいお名前ですね」
「援助と言っても、ケイトリンからは住む家を手配してくれただけで十分と言われてね。当初はその知人の婦人に保護してもらっていたが、成人したのを機に店の近くに住み始めた。もちろん住居は安全性を重視して私が決めた。しかし、彼女は働いてお給金もあるので大丈夫と言って、それ以上の援助を望もうとしないのだ。だから時折、私が身の回りの物などを調達して様子を見に行っている」
「それで、愛人という噂が立ったのですね。ケイトリンさんは、今おいくつなのですか?」
「十七歳だ」
「そうすると、ケイトリンさんの将来にとっては旦那様の愛人と思われるのはどうなのでしょう」
「それは私も心配している」
「はあ、お義母様の目があるからどこか貴族の養女にするのも難しいですね」
「ああ」
私は、手にしたグラスからほんの少しだけブランデーを飲む。
ブランデーの強い香りが鼻孔を揺らした時、誰もが納得する方法を思いついた。
「ラシェル王国とノストリート皇国の言葉は方言ほどの違いしかありませんが、カルヤ王国は全く違いますよね。ということは彼女は二言語を理解することができるのですね」
「ああ、そのようだ」
「実は、私はもうこちらの皇都に事務所を確保して、信頼できる従者と言いますか仕事上のパートナーにこの国の法律や習慣を学ばせて商会の基礎を作るように指示しているのです」
「事務所? ずいぶん手回しがいいんだな」
「私も一緒に来た従者もカルヤ語は片言くらいしか話せません。商売にはやはり言葉をよく理解してくれる人がいないと行き違いになって大事になることもあります。ですから、ケイトリンさんに納得していただけるようでしたら、ぜひ私の商会で働いていただきたいのですが」
もう一押し!
「それが可能なら旦那様はいつでも私の事務所でケイトリンさんに会えますし、お給金だって、旦那様からの分を上乗せして多めに設定できますでしょ? 彼女が私の秘書と言う肩書でこの屋敷に出入りする事もできますわ。お義母様にも気付かれないと思います」
ここで恩を売っておけば、何かと有利になるわ。
「ふむ、それは確かに悪くない話だが、あなたの従者は信用できるのか?」
「もちろんすべてを伝える気はありませんが。彼、ジョシュは、元は私が慈善活動で訪問する孤児院にいたのです。あまりにも優秀だったので、私が父に頼んで従者として引き取り、教育を受けさせました。ラシェル王国の公立高等学園も首席で卒業し、経営、法律にも明るい得難い人材です。彼を手離すのを父は渋りましたが、私が強引に連れてきましたの。信頼できる人間です」
「あなたはすごい人だな。私が知っている女性とはまるで違う」
「それは誉め言葉と受け取ってよろしいのでしょうか?」
旦那様はまたブランデーを口に運び、少し間をおいてからジョシュの事を聞いてきた。
「その従者は若いのか? あなたは彼に、その、こ、好意を抱いているのではないか?」
「へっ、好意ですか? 好きなことは好きですけど、異性として考えたことはありませんでしたね。なるほど、私が旦那様と離婚をすれば平民になるかもしれないので彼と結婚する選択肢もあるのですね。彼は年も私の一つ上なだけですし」
そう答えるとなぜか、旦那様の機嫌が悪くなった。
「その選択肢は考えないように......」
「はい?」
酔ったのか少し赤いお顔をなさった旦那様が私を見つめ、
「ところで、クリスティン、あなたは誰かに恋をしたことはあるか?」
なぜか私の名前を呼び唐突にそんなことを言い出した。
「恋ですか...。数年前に兄の友達に淡い恋心を抱いたことはありました。でも私はすでに王太子の婚約者でしたし、諦めるしかなかったですね」
「婚約解消した後なら結婚できたのでは?」
「もう彼には婚約者がいましたし、彼女を押しのけてまで結婚したいとは思いませんでしたから、恋の火は消えたのでしょう」
そこで、私も旦那様に聞いてみた。
「旦那様は? ケイトリンさんが愛人ではないという事であれば、他に好きな方がいらっしゃるのではないのですか?」
「ああ、小さい頃に私の面倒を良く見てくれていた父方の従姉が好きだったな」
「その方は、今?」
「七歳ほど年上だったから、すでに結婚して子供もいる」
「...」
「だが長じてからは、私の見目だけに惹かれているような女か、なぜか、母のように人の話を聞こうとせず、『あなたのためだから』と言って自分の考えを押し付ける女性がほとんどだった。彼女たちの本当の気持ちは『自分のため』なのだ。『あなたのため』と置き換えていることに全く気が付いていない。か弱い女のふりしているのも好きではないな。それに、こうするべきだああするべきだと言われるのも嫌いだ。『するべき』なんてことは他人から言われたくない。だから、真剣に恋をしたことはないと言える」
彼の女嫌いは、どうやらお義母様に起因しているようだ。
そういえば、結婚式の前のお義母様との顔合わせでも
『王妃教育を受けていたとはいえ、傷物のあなたを由緒あるこの公爵家の嫁にすることに私は反対でした。でも、エリオットが結婚する気になったのですから仕方がなく認めました。エリオットをしっかり立てて役割を全うするのがあなたのするべき仕事です』
とか言われたような気がする。
「少し親しくすると婚約者気取りで、騎士団に押しかけたりもされた。あの人は品がないとかあの人は顔だけの人だとかそんな風に他の女性をけん制する者もいて本当にうんざりした。あなたもその類の人間かも知れないと思い…」
「警戒していたのですね? 全ての女性がそうだとは限りませんが、彼女たちの気持ちも分かります。えーと、旦那様は背も高いし、美しいお顔をしていらっしゃいますし、ブルーグレイの髪もアメジストのような瞳もとても魅力的ですもの。嫉妬で身を焦がしたのでしょうね」
旦那様は身を乗り出して私を見つめ、
「あなたの方が美しいと思うが...。透き通るような白い肌、トパーズ色に輝く髪、深い湖を思わせる碧い瞳、そして知性あふれる会話。あなたの価値を分からないなんてラシェル王国の王太子は相当の馬鹿だな。うん? とすれば、この状況は私にとって僥倖という事か......」
小さくつぶやいた最後の方の言葉ってどういう事かしら? なんとなく腰のリボンを固く締めなおした。でも、ここは考えすぎず謙虚に
「そのようにおっしゃって頂くと、とても嬉しいですわ」
私はにっこりと微笑んだ。
それを見た旦那様はなぜか驚いたように目を見開き、そしてブランデーグラスを見つめ、何かを考えている様子だった。沈黙が長い、しかもお酒のせいか耳もほんのり赤い。
私を信用して妹さんのことを話してくれたのは嬉しいが、私は一刻も早く契約書の手直しをしたかったので旦那様に部屋を出て行って欲しかった。でもあからさまに言うわけにもいかず
「あの...旦那様、そろそろ」と言いかけた時、旦那様が急に立ち上がり
「私が真剣に恋をしたことがないのは昨日までだ...」
「え? どういうことでしょうか」
旦那様はガウンを脱いでソファにいる私の傍に座った。
上半身に何もつけていないんですけど。結構、筋肉質なのね。いやそうじゃなくて
「近いです。旦那様!」
「私たちは神の前で誓った夫婦だ。当たり前の距離だろう?」
私は思わずソファの端に身体を寄せるが、旦那様は覆いかぶさるように私を囲った。
私は慌てて
「いえ、旦那様は女性不信では?だから愛することがないっておっしゃったのですよね? し、白い結婚ですよね?」
旦那様は私の両腕を取って立たせ、しっかり纏っていた私のガウンを器用に取り払い、下に着ていた夜着のボタンを外し始めた。
「私が嫌いか?」
旦那様の熱い眼差しに見つめられて、私の心臓が跳ねた。
「そ、そういうわけでは...。い、いい人だと思います」
その途端、私は彼の胸にしっかりと抱きしめられた。
「そうか...クリスティン、愛することはないという言葉は取り消す、すまなかった。私が軽率だった。契約書も無し」
「え、無し?!」
「ああ、あなたを大切にする。こんな気持ちは初めてだ」
愛おしむように片手で私の頬を撫でて、顎を上向けさせた
「ちょっと旦那様、心の準備が......」
「エリオットと!」
「エリオット様、まずはお友だちか・・・・・」
彼の唇で次の言葉をふさがれてしまった。
そしてその後は...、キスの嵐と甘い言葉にあらがえず、私たちは本当の夫婦になった。私って案外チョロかったのね。
白い結婚のはずだったのに、想定外の事態への対処が甘かったわ。新しい契約書が必要だと思うけど、彼の嬉しそうな顔を見ると言い出すことが出来ない・・・。
◇◇◇
その後、エリオットのたっての願いで、私達は一か月後に盛大な披露宴を催すことになった。お蔭で、すぐに準備に忙殺され、その間の事業はジョシュにまかせっきりになった。ジョシュごめん。
エリオットは『あなたを愛せない』と言っていた頃の"冷徹公爵"の面影もないほど私に甘く、私たちは貴族社会でおしどり夫婦として有名になってしまった。
商会はエリオットのバックアップもあって無事設立。まずは人材派遣業から始め、公爵家の領地の主産業である牧畜業を利用してカフェを開き、傍らで化粧品も開発。化粧品部門はお義母様に広告責任者になって貰ったのが良かったのか癇癪を起すことも無くなり、私たち夫婦とも良好な関係を築いている。
ジョシュとケイトリンは恋に落ち、昨年結婚。
ケイトリンの事はまだお義母様には話してないが、折を見て話すつもりでいる。たぶん受け入れてくれるだろうと思っている。ケイトリンには傍で守ってくれる人がいるのだから、何も心配はない。
ラシェル王国の王太子がどうなったかって? 風の噂では、なぜか幽閉中に知り合った若草色の髪をした少女と寄り添い『これこそが真実の愛』と言って、ノラを断罪したとかしないとか。四大公爵家もさすがに頭の痛い事だろう。そのうち王家は潰れるのじゃないかしら。
私たちには二歳の息子がいる。現在は第二子を妊娠中。
いま私の心は、私を愛する二人の男の狭間で揺れる。
「おかあしゃまは、おとうしゃまよりぼくにキスをいっぱいくれるよ!」
「キスの数で愛は分からんぞ。お父様はほら、こんな風にお母様とキスを...」
「ん…」
「えーん、おかあしゃま!」
息子が私の足にがっちり抱きつく。
勘弁して!
--- End ---
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