湧かないチカラ
20代後半。結婚候補もいなければ、仕事ではストレスを抱えるばかり。もう死んでも楽になろうか、という思いが頭をよぎる。
閑散としたホームの上で、タケシは、自分の表情筋の繊維一本一本が枯れ木のように干からびているのが分かった。
上司に唾をかけられながら言われた直接的な言葉と、周りの冷ややかな間接的な目線がまだ脳裏に泥のようにこべりついてる。寒いとも暑いとも言えない、5月のどんよりとした曇り空。疲れ切った人間のため息で押し固められたような空気を吸いながら、ふとした考えが脳裏をよぎった。
いつも目にする「人身事故」の文字が真実味を帯びてきた。当事者はどんな気持ちで線路に飛び込むのだろうか。
タケシはボーッとしながらも、目の前でスマホを打ち込む女子高生2人を眺めながら考え込む。あとは猫背で白髪混じりの会社員と、奇抜な色の傘をもった老婆が見える。明らかにこのホーム上の人間は、皆疲労している。ここに限った話じゃない。人間は皆ヘトヘトになってこの社会をやり過ごしている。高校生たちも数年すればこの輝きのない社会に押し込められて、後悔の日々を送る。罵倒の声や冷ややかな視線に萎縮しながら、きっと俺のように抜け殻のような顔をしてホームに立ち尽くすのだろう。
「ちょっとおじさん、危ないよ」
スマホを持ちながら女子高生が注意する。タケシは無意識に線路の淵を歩き始めていた。一歩一歩、適度に力を抜いていく。生死のリスクがタケシを興奮させていた。
右側のホームに倒れれば、またあの生活が続く。左側なら人身事故という新しい刺激が待っている。
タケシは強く左側に体を翻した。無重力の瞬間に、感覚が異常に研ぎ澄まされているのが分かった。
周りの驚きの声と、力強く近づいてくる足音が聞こえる。そして次第に、音ではなく地響きに近い振動がが身体中の皮膚で呼応し始めた。電車が近づいてる。車内では目立った音を立てない乗り物は、外部の世界ではこんなに不吉な音を立てて移動している。
俺は疲れたんだ。みんなより少し疲れ過ぎたんだ。
タケシは自分のワイシャツが放つ匂いに初めて気がついた。魚が腐ったような生ゴミのようで、わずかに酸っぱい成分を含んでいる
半分故意に、半分自然に、足を擦らせて、為すがままの重力に身を預けてみた。
タケシは幼い頃から身体能力が高かった。
頭から線路に飛び込んだはずなのに、まるで重心の自然補正機能があるかのように、足から着地していた。自分の心は乾ききっているはずなのに、脊髄とか細胞とか、意志ではコントロールできない何かが生存本能を駆り立てたようだ。
右側に駅員から伸びる手が見える。それでやっと外部の刺激が伝わり始めた。周りの人間が仰々しく何か叫んでいる。電車は背後から確実に近づいていて、まだ淵を歩いていた時のリスクの名残を味わっていたい気持ちもあった。ただ、直立することだけに筋肉は使用されていて、駅員から伸びている手をつかみたくても肩からまるでピクリとも動かない。
「なにやってんだ」とか「ほら、早く」とか、怒号に近い自分へのエールが若干気持ちよくて、少し幸せさえ感じていた。そしてはっきり、生きたい。とそう思った。
果敢な男たちが線路に降り立ち、ホームへとタケシを抱きかかえ上げた。そこからの記憶はなくて、またこのホームという地獄に送り戻された感覚と、自分の心の奥底に生きたいと思う気持ちがあると自覚した驚きで満たされていた。
依然として抜け殻のまま、不意な転落として駅員室で色々と話をして、気づけばいつも通り自宅の部屋でうずくまっていた。
死に損なって、恥もかいた。
自分に何度も言い聞かせながら、青白い部屋の明かりを反射させる窓を眺めた。
今日が何曜日かも分からないし、これから何をすべきかもすっかり興味がなくなっている。ただ自分が空腹なことだけ、はっきりと自覚していた。
無性に暖かいご飯が食べたくなって、何か美味しいものを想像しては、無念に諦める。またしても考えとは裏腹に、自分の身体の内部で生存本能が起動していることが分かった。
食う。働く。寝る。働く。
一度死んだような人生なのだから、それだけを単純に繰り返してみようと思う。そしていつか何かの拍子にぽっくりと死んでいくのだ。
タケシはすくっと立ち上がって、根拠なくすっきりした気持ちで、カップ麺を作り始めた。
数日後、タケシが線路に直立した事実など知らぬ人に囲まれながら、日々が再開していた。最初はあのホームで起きたことを誰かに見られていた可能性に怯えていたが、食う・働く・寝るのリズムに徹していく気持ちを引き締め、その繰り返しうに勤しんだ。最も苦痛な時間は言うまでもなく「働く」で、相変わらずこの時間は苦しかった。しかし、無に近い「寝る」を重要視することで、毎日の睡眠時間が整い初め、不思議と心に活気が戻ったのが分かった。かつての睡眠の状態については思い出せないほど、ずさんな品質の「寝る」を過ごしていたのだろう。前まではくたくたすぎてむしろ寝ることで疲れている感があったが、今では回復の役割をきちんと果たしている気がした。一方で、「食う」は健康的とは決して言えない質を繰り返していて、問題視はしているが、やり過ごすことで精一杯だ。
タケシは、仕事以外の時間について腰を据えることが初めての経験で、その新鮮さに引き込まれていった。「寝る」「食う」の質を向上させるための「働く」と捉えることで、すっきりと「働く」の重圧を解消している。
どこか落ち着きのある精神を掲げながら、誰かと話したいと思った。
偶然にも、高校の友人のヒロキからラインが入る。
あんなに女と口下手だった男が、入籍したらしい。自分のことのように嬉しくなって、驚いた反面、自分にとって結婚という言葉がすっかり遠のいていることに、改めて実感を覚える。食う・寝る・働くがうまく整わないと、なぜか次に進んではいけないような気がする。無意識にラインは後で返そうという気持ちになった。
ふとテレビを点けると、少子高齢化の話題に関して老人たちが色々と述べている。俺はなんだかむしゃくしゃして、「寝る」に徹することにした。目を瞑れば、何もない自分だけの世界に逃げ込めるからだ。
上司は相変わらず皮肉な存在だった。これまでは、仕事が遅いとか、熱意が足りないとか、パフォーマンスや姿勢に対するうざったい言葉だったのが、段々と人格否定に繋がる発言に変わっていった。1番胸につっかえたセリフはこれだ。
「だからお前は結婚できないんだ」
その前後にも色々とイラだつポイントがあったのだが、やはり自分が気にしているポイントに重なってくると、滅入るものがある。「働く」の時間が終わっても、ずっとその言葉はついてまとわりつき、「寝る」の導入に悪影響を及ぼし始めていた。上司へのイラつきではなく、無視し続けていたいその事実が、突きつけられる惨さに心底悲しい気持ちになる。そして、結婚相手の候補になる存在がいない事実も、ついて回ってくる。
あのホームの淵を歩いている時に、全身の力を緩めていった時のように、体から力が消えていった。そして、軽くなって風でも吹けば飛んでいなくなりそうな時、ヒロキが結婚相手をアプリで見つけたことを思い出した。
タケシも、一か八か、ここで勝負に出ることにした。
指を弾いてアプリをダウンロードして、当たり障りない言葉を並べた。写真も、1年前だが十分通用するであろうものを使用する。週末、髪を着て、服を買おう。
まだ結果は出ていないのに、タケシの無味な毎日に少し緩急がついてきて、気づけば、「働く」は一種のつなぎのように、時間の経過に過ぎないものになっていた。
アプリを開いている時間が何よりも幸せだった。さまざまな女性が展開されていいて、好みでスワイプできる。気づけば、「食う」を忘れてこのことに徹している時もあった。
性欲とは異なる、そばに女性がいてほしいという渇望が、タケシの心を埋めていった。そしてその女性と気持ちの良いセックスをして、元気な子供を授かりたいんだ。
女性と半分ずつ遺伝子をこの世に残したいという気持ちは、線路に落ちていく空中で感じた「生きたい」という感情に似ていた。
彼女が欲しいのは寂しいからのもあるが、本能的に欲しているものがあるのだと思う。容姿がいいとか、一緒にいて楽しいとか、世の中で一般的に言われる異性への条件の裏には、人間が生き物として相手に求める「少しでも良い形で遺伝子を残したい」という動物らしさが隠れているのだろう。
母親からの熱烈な説得によって実家に向かうバスの中で、充電切れしそうなスマホをバッグに葬った。田舎に近くなった頃、久しぶりに野良犬を見た。雑種で泥に汚れた痩せた犬。しかし、何か凛としていて、耳も剃刀のように立ち、目も澄んでいる。
今の俺も犬ならこんな感じだろう。
身体は色々と老化しているが、内面はまだ汚れ切っていないことを祈っている。そして、どこか雌犬との遭遇を期待している。気付くとバスはトンネルに、遠心力を得ながら緩やかにカーブしながら入っていって、なんだかそれがいやらしく感じられた。
出会ってそうそう、母親の表情がボロボロになっているのが分かった。おかえり、もなく、開口一番に焦りながら「早く車に乗って」といい、荒々しくドアを閉めた。
「なんかあったの。電話でも落ち着いてなかったけど」
「帰ったら分かるけど、今お父さん、大変なの」
「何が」
母ちゃんは黙った。小さい頃から、この女はこうやって黙って会話を急停止する。
交差点で右折しながら、母ちゃんとミラー越しに目が合った。その時始めて、もっと頻繁に実家に帰ってくるべきだと思った。
庭に荒々しく駐車すると、母さんは俺を気にかけず荒々しく車から飛び降りた。玄関を開き、階段を駆け上がる。
俺は父さんに何かあるのだと思った。予想は的中した。
2階の屋根から、父さんは薄白いシャツと皮膚を纏って、飛び降りようとしている。
「あなたどこにいるの、タケシも探してっ」
母さんの怒号は意味が無さそうだった。
「そこからじゃ死ねねぇよ」
すっかりもやしのように細くなった親父に、俺は聞こえるか聞こえないかの声で伝えた。父さんは俺を一瞥して、地面を見る。
「もう何もかもわがらねぇんだ」
そう言いながら、親父は踵を返して室内に戻っていった。泣きながら息を殺して見守っていた母さんが、父さんを抱きしめていた。
俺の遺伝子はこの2人から作られた。そしてずっとずっとその事実は変わらない。であれば、少しでもいい遺伝子を持った女性を早く見つけたい。そう思った。
やっと冷静になった母さんの話を聞くと、2ヶ月前に町役場を定年退職してから、重度のうつ病を発症したらしい。原因も聞き出せず、ただずっとそばにいて自傷・自殺行為をしないように看護をしているのだという。俺はドライかもしれないが、巻き込まれたくなかった。不思議と母さんも、俺に何かを求めているわけでも無いらしく、
「あんたはあんたの生活をしっかりね。父さんは私がどうにかするから」
と、男らしい目つきで伝えてきた。タケシの脳内では、ピアノの不協和音のようなものが広がっていた。
書棚で昼寝を試みる。本棚の本に目がいくが、ほとんどがうつ病に関する本だった。興味本位でめくってみる。早起きして太陽の光を10分浴びよう。深呼吸をしてから眠ろう。何か些細なことを人と話してみよう。色々と、道徳の教科書のような内容が並んでいる。父さんにはもう手遅れかもしれないが、なぜか、本能的に自分もこれらを心がけようと思った。
早起き日光浴・深呼吸・些細な会話。どれも自分の生活には取り入れられていない。そういえば、「寝る食う働く」だけのシンプルなサイクルを徹底していたよな。そのベースに、この3つを取り入れていこうと思った。
気付くと寝込んでいて、母さんの味噌汁の香りで目が覚めた。準備はしていなかったが、今日は泊まっていこうと、そう思った。
久しぶりに家族を体験して、自分が父親になった時のためにそこに所属している感覚を取り戻したい。
結婚はできないかもしれないが、人間として家族を築く幸せを、思い出したい。そう思った。
母さんの作るカレーの匂いがして、父さんと俺は同時に腹がなった。
父さんが言った言葉は、まるで部屋に彫刻でも置いたような物々しさを醸し出して俺の心に聞こえてきた。
「俺ら、生きてるんだな」
もっと頻繁に実家に帰ろうと、その時また思った。