第九十二話 再会
ボナパルトを乗せた馬車が王都の『白の精霊門』に達したのは出立から二日目の夜だった。
日没後には門が閉ざされる決まりなので、ボナパルトは馬車を降りて大門の脇にある小さな出入口をくぐる。
閉門に間に合わなかった行商人や旅行者たちが城壁の内側に招じ入れられるボナパルトを何者かと羨望が入り混じった表情で見やる。正体を知れば、数万の敵を破った凱旋将軍にしてはこのように地味に帰還したことに驚いたことだろう。
「ナポレオン!」
城壁の内に入ったボナパルトはそこで意外な人物に出迎えられた。
いつものドレス姿ではなく、地味な麻色の服と灰羊色のローブに隠れているが見紛うことない輝くような金髪を靡かせる人、クルーミル本人に。
僅か数人の供回りを連れて待ち構えていたクルーミルは濡れた捨て犬を思わせる風体のボナパルトを見るなり、燃えるように赤い瞳をさらに爛爛と輝かせて駆け寄り、小柄なボナパルトを抱きしめた。
「ぐえっ、クルーミルどうしてここに」
「一刻も早くお会いしたいと思いまして。ご無事で何よりです」
クルーミルから伝わる交信の感触は小鳥のように飛び跳ねて歓びに満ちている。
久しくクルーミルの感覚を味わっていなかったせいか、ボナパルトはそれが温かい湯舟に身を揺蕩えるような、あるいは冷える晩に飲む熱いミルクのような心地よさを感じ、そっと腕をクルーミルの背に回した。
「元気なのは手紙で知らせたでしょ」
「やはり直接お会いしないことには。どうしてもっと早く連絡をくださらなかったのですか?盛大にお出迎えしましたのに。連絡が来たのは半刻前でしたよ」
「安全上の理由よ」
「積もる話もありますが、長旅でお疲れではありませんか?お食事になさいますか、それとも先にご入浴を?どちらも支度させております」
「仕事よ。貴女と話すことが山ほどあるわ」
素っ気ない態度のボナパルトを見て、クルーミルは人懐こい笑みを浮かべた。
「はい。ではそうしましょう」
◆
二人は王宮に戻ると早速クルーミルの執務室に詰める。
執務室に足を踏み入れたボナパルトはふと部屋に充満するインクと紙の放つ独特な臭いに気が付いた。壁を見れば立てかけられた木板には何枚もの手紙がピン止めされており、机を見れば山積みになった紙束がある。
「仕事熱心なようで感心だわ」
ボナパルトは視線を一瞬、繋いでいるクルーミルの左手に向けた。彫刻を思わせる品の良い柔らかな輪郭の指、その先端や爪が黒くなっている。日頃から手紙を書いてインクに触れている証拠だ。
「貴女ほどではありませんが、努力しています」
ボナパルトの目にハサミとところどころ切り抜かれた手紙が見え、その不自然さが気になった。
「クルーミル、この手紙は?」
「これですか?貴女からの手紙です」
ボナパルトは戦場から毎日のように報告を送っている。
「なんで切り抜いてるの?」
ボナパルトは手紙を拾い上げる。文章はフランス語で書かれていた。当初は通訳を介してグルバス語で書き送っていたのだが、途中で通訳が潰れてしまい、仕方なくフランス語で手紙を送り、王都に残留するフランス人がそれを読み上げ、クルーミルに伝えるという回りくどい方式をとっていた。
一度使い始めると、敵にはフランス語を読める者がいないことから、自然の暗号文として機能し、勝手が良いことに気が付いたものだ。
「それは、その……私宛の部分を取っておこうと思いまして」
クルーミルは言葉を探すように手に力を込めたり抜いたりしてボナパルトの手を揉んだ。
「はあ?」
ボナパルトは机にある切り抜かれた手紙の破片を見つけた。
「『今朝は宿泊した民家の屋根に白い鳥二羽を見る。村長は吉兆と言う。これより蹄鉄砦へ向けて移動する。私の体調は好ましい。健康に留意されたし、ボナパルト』」
それは殆ど業務的な報告書の末尾に書いたささやかな挨拶文だった。
「……貴方、こんなの集めてるの?」
「いけませんか!」
クルーミルは暖炉の炎に照らされる以上に顔を赤くした。
「この話はやめにしましょう。スーイラに菓子と茶を持ってこさせますから」
クルーミルはボナパルトから手を離すと机に出しっぱなしだった手紙を両手でかき集めて引き出しの中に押し込んだ。
◆
しばらくすると焼き菓子と飲み物が運ばれてきた。焼き菓子には蜂蜜がかけられており口当たりが良く、噛むとざらりとした食感と甘みがあった。
飲み物のほうはといえば、夕日を溶かしたような色をしていて、ボナパルトにとって嗅ぎなれた香りがあった。
「紅茶……?」
「どうなさいました?」
奇妙な違和感を覚えてボナパルトは菓子をつまみ上げた。よく見てみると菓子の表面には白い粉がまぶしてあり、甘さは間違いなく砂糖のそれだった。
「紅茶に砂糖」
どちらも草長の国のような気候の土地では産出しなさそうな代物だった。
「戦乱で中断していた交易路が再開したので、西方の諸都市の隊商が献上してきた品です」
隊商。ボナパルトには上陸して間もない頃、西方から来たという隊商と硝石の取引をした覚えがあった。
「それらは、我々の脅威になる?」
『西方の諸都市』とやらが一体どれほどの規模なのか、どんな国なのか、知りたい事は多々あったがボナパルトの懸念事項は第一にそれだった。彼らは軍事的脅威足りえるか。
「彼らは強国であると聞いていますが、彼らが我が国に攻め入った事はありません」
「それはなぜ?」
「西方には広大な荒地が広がっています。草木は僅かで、水はオアシスが点在するのみの荒野が。数百人程度の兵力なら問題になりませんし、数万の大軍は移動するだけで消耗しつくします」
「確かに」
人間、食わずとも数日は生きていけるが水が無ければ半日も持たない。荒野を越える事は容易な事ではないのだ。
「その荒野を越えて隊商たちは『斧打ちの国』へ、そこからさらに東方の国々へ向かう…と聞いています」
「この世界のシルクロードと言ったところかしらね。この国は貿易の中継地、か」
後半部分はボナパルトの独語だった。
「実はその西方の諸都市から、傭兵を雇い入れる事になっています」
ボナパルトは眉を上げた。
「諸都市の間では著名なアンブローツィ団という傭兵団で、規模は二千人と聞いています」
「有名な傭兵を遠くから雇うとなると、金がかかるんじゃない」
「それが向こうから売り込みがありまして、随分安く契約できたのです」
クルーミルは得意げな顔をしてみせる。
「ま、二千人を統率して荒野を越えて来られる力量があるのなら、統率力皆無ってワケじゃなさそうね。到着したら会ってみましょう……到着したらね」
「はい」
クルーミルは焼き菓子を頬張りながら頷く。そして何度か咀嚼して、砕けた菓子を紅茶で流し込むと話題を転じた。
「東部地域の事についてお話ください」
それこそ、最優先の話題だった。




