第九十話 盾と秤
勝敗は決す。グーエナスは出血で覚束なくなる足を部下たちに支えられ蹄鉄砦の地下倉庫、またの名をホルスロンの宝物庫へと落ち延びた。武器を持って続く者は三百足らずで全員が傷を負っている。力尽きた敗残の群れを、倉庫に逃れていた避難民たちが絶望と恐怖、不安の三色で彩られた表情で出迎える。
倉庫は巨大な岩盤をくり抜いた洞窟である。僅かばかりの松明が辛うじて暗闇を照らし、人熱のじっとりとした汗の匂いと山と積み上げられた穀物の香り。そして血と汗の不快な臭いで充満していた。
青銅製の大扉の向こう側からは異国の叫び声が聞こえ、扉を打ち破ろうとする鋭く重い音が乱打されている。
こうなる覚悟はついていた。が、いざ目の前にその現実が付きつけられるとなると人々は背中に流れる冷たい血と全身を震わせる死の現実を感じずにはいられない。
「我が力及ばずだ」
額に汗を浮かべ、血の気が引いた唇でグーエナスは言葉を吐いた。その言葉は眼前にいる避難民を代表する長老に向けられたものだったが、あるいはこの場にいる全員に向けての無念の言葉だったかもしれない。その声色はか弱く、長老には全軍を鼓舞していた勇将の声とはとても思えなかった。
「我ら一同、既に覚悟はついておりますれば、最期まで閣下に従いまする」
その言葉にグーエナスは少しおいてようやく頷いた。今や、首を動かすことすら鉛の塊を持ち上げるように思われる。
兵力と火力で勝る敵を接近戦に持ち込み、最大限の損害を与えた。最期は倉庫に火を放ち敵に麦の一粒さえ与えぬようにする。もはやそれが唯一取りうる選択肢だろう。出来る事ならば選びたくはなかった最悪の選択肢ではあるが、他に手もない。グーエナスは半ば身を放り出すように思考を進める。
「コルネス」
火をかけろ、敵に何も渡すな。グーエナスの喉がそう言葉を紡ぎ出そうとしたその刹那、倉庫のうちに鋭い声が響いた。それは、赤子の泣き声だった。グーエナスはその泣き声に聞き覚えがある。戦いの前、若い騎士の妻が連れていたあの赤子の声だ。あの声がする。
あの赤子は、生きようとしているのか。まだだ。まだ終わりではない。グーエナスは電撃に打たれるように意識を覚醒させた。まだ、打つべき手が残っているではないか。
「コルネス、紙と筆を持て」
その声は力に満ち溢れており、コルネスは主の顔を見なおした。血と煤に汚れているが、その瞳には輝くような生気がみなぎっている。
「ボナパルトと開城交渉をする」
「なんですと。降伏すると仰るのですか」
長老は雷に打たれたように目を見張った。降伏、この期に及んで降伏という選択肢がありうるのか。
「そうだ。穀物と引き換えに残った者の身の安全を保障させる」
「正気を失ったのですか。我らを敵の手に委ねると仰るのですか。では戦って斃れた者たちは一体なんのために死んだのですか!これは裏切りだ!裏切りだ!」
長老の声は非難と悲鳴が入り混じっている。多くの者たちも城主の変節ぶりに声もなかった。
「降伏すると仰るなら、なぜ最初からそうしなかったのです。なぜ今になって……我々はどの面下げて生き延びられましょうか!」
「無意味な問いだ。城壁と守備兵があるうちは戦う。それが失われた故、策を変える。それだけの事だ」
グーエナスは自分の声が突き放すような色合いを帯びているのを自覚している。
「戦って斃れた者たちは、お前たちが生きるために戦って死んでいった。お前たちが道連れになって死ぬことを、彼らは喜ぶだろうか?」
「しかし……降伏したとして、助かる保障はどこにもない。扉を開けて出て行けば、皆殺しにされる。敵に凌辱され、穀物を奪われるよりは……」
「故に死ぬのか。それは名誉を追ってではない、死への逃避だ。確かに保障はない。だが、私はお前たちに命じる。敵の手にかかって死ね。私は城主として、城内にいるお前たちに命令する権利がある。ゆえに命じる。敵に相対せよ」
死ぬにしても、それは逃避であってはならない。断崖の向こう側に跳躍する死でなければならない。死の崖を飛び越えて生きるか。あるいは滑落するか。いずれにせよ跳ばなければならない。最期の一呼吸まで、希望を追わねばならないのだ。あの赤子はそう叫んでいる。グーエナスにはそう思える。
老人は苦悶の表情を浮かべて背後を振り返った。避難民の表情は不安と、そして生への希望のまだら模様を描いている。誰もが追い詰められて思考の袋小路にはまり込んで不気味に沈黙していた。その中で、赤子の泣き声だけが響き続けている。
◆
グーエナスが書き記した降伏文書は大扉の上にある通気用の小さな窓から外に放られ、すぐさまボナパルトに届けられた。
「降伏?」
文書を読んだクルーミルの腹心の一人、ノルケトは嘲笑を含んだ声をあげた。身にまとっている鎧は敵の返り血に汚れている。彼もまた砦の戦いに加わり激戦の渦中にいた一人だった。
「盾のグーエナス殿ともあろうお方が、血迷われたようです。この期に及んで降伏など受け入れられるはずがない」
その言葉に草長の国の騎士たちが頷く。攻城戦の最終局面、追い詰められた敵にあるのはただ殺戮あるのみだ。降伏するならばもっと早くすればよい。抵抗し、追い詰められてから降伏などそんな虫の良い話は受け入れられぬ、というのが彼らの総意である。
ボナパルトは彼らを横目に血で汚れた手紙をしばらく眺め、腕を組んだ。
グーエナスが提示した降伏の条件は倉庫に蓄えてある穀物を引き渡すのと引き換えに、城内に残った全ての者の身の保障、安全な退去を求めるものだった。この条件が受け入れられない場合には倉庫に火を放ち全てを灰にするという一言もある。
ボナパルトの思考はグーエナスがこのような条件を出してきた理由に向いている。さて、どういうつもりなのか。降伏し、穀物を明け渡すことでなんの利益を得られるのか。彼の兵はあらかたが失われ、今更降伏したところで残る者はなにもない。
避難民を生かすことだろうか。しかしそれは数カ月分の穀物を敵に渡してでも生かす価値のあるものだろうか?今になって良心が痛む、というのならばグーエナスは立派な男だが、大した男ではない。援軍が失われた城で激しく抵抗するだけの士気の高さを維持できる指揮官がそのように凡庸とは考えられない。なんらかの情報や戦訓を持ち帰らせるためか。だとするならば、拒むべきか。
しかし。となると、敵は全員が玉砕すると言う。これは大きな意味がある。
"侵略者に屈することを潔しとせず、女子供まで自決したのだ"という抵抗の物語が生まれることになる。それは砦が持ちこたえる以上に、今後の展開に大きな心理的影響を及ぼすだろう。逆に、降伏を受け入れれば「降伏すれば命までは奪われない」と今後敵が降伏を選ぶ可能性が高まる。すなわち、勝ちやすくなる。やはり、グーエナスは容易ならざる指揮官だ。あの状況からこちらに選択を迫っている。
ボナパルトは思考を巡らせながらふと顔を上げ、横に立っている義理の息子ウジェーヌの顔を見た。
「ウジェーヌ、どう思う」
問いかけられてウジェーヌは姿勢を正し、目を泳がせてから答える。
「降伏を受け入れるのが良いと思います」
「理由は?」
「既に砦は陥落し、目標は達成しました。この上、穀物が手に入るのならばそうするべきです。避難民を見逃す事は我々にとって不都合にはなりません。それに……」
「それに?」
「女子供を殺すのは嫌です」
その控えめな言葉にボナパルトは鼻を鳴らして笑った。
「嫌、か」
「はい」
その一言はボナパルトにとって美しい鈴を鳴らしたような響きがあった。そうか、嫌か。そのような感情で物事を判断するか。ウジェーヌは指揮官としてまだまだ未熟であるに変わりない。だが、それでよいのかもしれない。受け入れるのも、受け入れないのも一長一短でどちらにもメリットがあるように思える。天秤が水平になったとき、最後に決めるのは好き嫌いという次元の問題なのかもしれない。それこそ、勝利者に許された特権であるし、勝利者たらんとする所以なのだろうから。自分の望むように物事を決せられる、というのが勝利者である事の究極的な価値なのだ。そうだ、そうなりたいのだ。
ボナパルトは義理息子の己の不見識を恥じるような照れた顔に明るい日の光を見た。
「よかろう。受け入れる」
「なんですと」
ノルケトは仰天してボナパルトに詰め寄った。
「何を仰っているのです。数千人の避難民を解放することになるのですぞ。彼らは我々へ再び敵対するかもしれません」
「その時はその時だ。数千の避難民と引き換えに数カ月分の穀物が得られるなら良い条件だ」
「しかし閣下。閣下は砦への攻撃をお命じになりました。すなわち、城内を皆殺しにすることをです。敵が穀物を焼き払う事も計算のうちだったはず。それをこの期に及んでひるがえしますか。」
「ああ」
ボナパルトの言葉はいっそ清々しい。
「状況が変わった。攻撃前、敵には城壁があり、守備兵がいた。たとえ穀物が焼き払われようとも、これを撃滅する必要が軍事的にも政治的にもあった。穀物か、砦の撃破かを天秤にかければ砦の撃破が優先された。だが今や城壁は砕かれ、守備兵は壊滅した。ここで私が問題にしているのは避難民と穀物だ。状況が変われば判断が変わるのも当然ではないか?」
「しかし、一軍の指揮官がそう簡単に判断を変えるのは」
ボナパルトは首を振った。
「状況が変われば判断が変わるのは当然ではないか。私は自分の判断を変えることになんの躊躇いも感じない」
ノルケトはさらに反駁しようとした。それをボナパルトは右手を軽く上げて制する。
「私は決めた。それがすべてだ。誰が勝利者の意志に背く?」
◆
「彼らは条件を飲むそうです」
窓から投げ入れられたボナパルトの返信文を読んだコルネスは大きなため息をつく。それは緊張の糸がほぐれる音だった。
「そうか。起こしてくれ」
返事を待つ三十分ほどの間、グーエナスは既に立つことができなくなっていた。出血は夥しく、命の灯は消える寸前に揺らめく蝋燭のようである。コルネスは部下と二人がかりでグーエナスの肩を担いで起こした。
「皆の者。条件が定まった。これより開城する。胸を張り、堂々と私に続け」
グーエナスは精一杯声を張り上げたつもりだったが、それを聞き取れたのはコルネスともう一人の部下だけだった。しかし、その意味するところは全員が理解している。
「……コルネス。生き延びよ。生きて、国王陛下にこの戦いを伝えよ。私はお前の言葉に宿って戦い続けるだろう。生き延びよ」
それこそ、グーエナスにとっての最後の術だった。野戦で無敵を誇るフランス軍だが、攻城戦ではそうではない。この戦いで得られた戦訓を持ち帰らせる。それこそ、穀物と引き換えてでも手にしたい成果だ。と冷徹な指揮官としてのグーエナスは心のうちで唱える。
「……だが、俺は結局のところ、赤子を道連れに死ぬことができぬ男だった。ヴィオスを笑えんな。俺も存外、小心者だった。味方を欺き、謀り、死なせ、そして最期は敵に委ねるほかに無い。盾の名が泣く。全ては俺の弱さ故だ。だから精霊は俺を罰したのだろう」
「そのような事はありません。閣下は最善を尽くされました。寡兵で敵の攻撃を支え、最期まで陣頭にありました。誰が閣下の勇名を辱めることができましょうか。閣下の正しさを私が証明して御覧にいれます」
大扉が開かれる。傾きかけた陽光が地下倉庫の最奥まで照らし出すように差し込んで赤く輝いた。
「なんと美しい空か」
光のほうへ、長い長い敗残者の列が伸びて行く。母親に抱えられた赤子が新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んでけらけらと笑い声を立てた。
◆
「盾のグーエナスの臣、コルネスが勝者たるボナパルト殿に跪きます」
敗軍の兵を率いたコルネスがボナパルトの天幕に参上した。同行する者は僅か四名、その全員が負傷している。
これがボナパルトか。跪いてコルネスは初めて敵の総大将の顔を見た。噂は何度も聞いていた。ツォーダフ、ドルダフトン、ヴィオス、そしてダーハド王。王国が誇る名だたる名将を打ち破り続けてきた戦の精霊に愛された者。雷を吐き、見るだけで騎士を殺すと話す者までいた。しかし目の前にいるのは子供と見紛うほどの背丈の、少しも腕力や武勇に優れた人物には見えぬ人間だった。このような者に負けたのか。と思う気持ちは少なからずあった。だがボナパルトの眼差しを見た瞬間そのような考えは地平の彼方へ消し飛ぶ。全てを焼き尽くした後の青みがかった灰のような、静かに、そして何より熱く燃える瞳。この瞳の持ち主は間違いなく我らの宿敵に相違いない。
「城主であるグーエナス殿はどうされた」
「討ち死になさいました」
ノルケトの問いにコルネスは答え、亡骸を運び込ませた。
右腕が砕かれた巨躯の男の死に顔は厳粛であり、フランスの指揮官たちも草長の国の騎士たちも、その顔に戦場に立つ人間として自然と背筋を伸ばさずにはいられなかった。
「そうか。この男が」
ボナパルトは短く応じた。
「グーエナス様の盾を、勝者である閣下に引き渡します」
持ち込まれた大盾はボナパルトの背丈ほどもありそうだった。このような盾を振り回して戦う人間がいたことがボナパルトには素直な驚きである。
「ボナパルト様には、条件を正しく履行していただきたく存じます」
「承知している。城内にいる民間人は即時の退去を許す。兵士についても、武装解除の後に退去を認める」
「はっ……」
「それと、この盾は貴官に与えよう。戦利品として私が受け取ったのだから、どうしようが私の勝手だな。主の亡骸と共にこの盾を持ち帰れ」
「……は」
コルネスはボナパルトを見上げた。燃え尽きた灰のような青灰色の瞳が自分の瞳を覗き込んでいた。
「我々の世界の勇者がそうしたように。そうせよ」
ボナパルトはふと古代ギリシアの勇者たちの故事を思い出していた。
蹄鉄砦は落城した。守備兵約三千のうち生きて帰れた者は四百足らず。フランス軍も六百人近い損失を出す、死闘だった。
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