第八十九話 静かな嵐
蹄鉄砦にヴィオス公の旗を投げ込んだ後、ボナパルトは司令部に戻っている。司令部、といっても兵士たちのテントよりも一回り大きく、机と参謀たちが詰めている以外はなんの変哲もない簡素なものだ。草長の国の貴族たちが戦場に持ち込む宮殿の一室のようなテントとは比べ物にならない。
女王の代理として戦場に来ているノルケトなどは、司令官のテントには相応しい威厳というものがあり、家具を置けとは言わないがせめて絨毯ぐらいは敷くべきだろうと思ってやまない。クルーミルが出陣するボナパルトに贈った豪奢な赤い絨毯はかさばるという理由で持ち込まれなかった。
ボナパルト不在の間に包囲戦の指揮を執っていたレイニエ将軍とドマルタン将軍から詳細な報告を受ける。報告はかんばしくない。
「包囲中、敵に目立った動きはありませんでした。しかし、わが軍の状態は悪化しています。あの要塞が難攻不落である所以が今にしてみればよくわかります。寒さ、飢え、渇き、それによって引き起こされる兵士の病気。我々は薪一束、麦の一粒、水の一滴、全て運んでこなければならず、その上兵士たちはこの寒さの中、野宿です。既に三百名を超える兵士が風邪や肺炎を起こして後方送りになっています。師団の一割が、です!」
レイニエは堰を切ったようにボナパルトに訴える。
「リニーヴェン殿、補給状況についてどうなっているか」
話題を振られて補給部門を管理するリニーヴェン少年は背筋を伸ばした。
「正直、状態はよくありません。蹄鉄砦に至るまでの道には地元の騎士たち、いや、強盗がうろついて恥知らずに補給馬車を待ち構えています」
リニーヴェンの言葉は棘を持っている。商人への攻撃に対する嫌悪を彼は隠さない。
「行商人たちの馬車に護衛をつけて動かすことで被害は抑えられていますが、その分効率は悪くなっています。加えて東部地域全体で商人への攻撃が活発化しているので、物流が麻痺していて、軍需物資をさらに遠くから買い付けてくる必要がでています。費用もかさみますし、日程も遅れています。詳細はこちらに」
リニーヴェンはそう言うと一冊の本と言ってよい量の紙束を渡した。経理に関するものだ。
「よろしい。おおむね想定の範囲だな」
ボナパルトはそっけなく呟き、机の上に置かれた地図に目をやった。地図の上にはベルティエが刺した色とりどりのピンが立っている。それぞれが部隊の配置を示す。
ボナパルトは自分の決断に若干の不愉快さを覚えて、人差し指で机を叩く。司令官は全能の神でなければならないが、全能の神ではない。
自分で戦場を設定したはずが、妙に敵の術中にはまっているような気分がしてならない。それは自分と敵将の知恵比べ、その差し引きの結果だ。自分は敵の裏をかいたが敵もまたこちらの弱みに付け込んでいる。敵将にこちらの最も弱い部分を突きさされている、そんな気がしてならない。
砦は堅牢であり、守備兵は接近戦に長けた訓練と装備を持っている。対してフランス軍はそうではない。兵力と火力の面から見て、負けるとは思えないが野戦より多くの犠牲が出るのは明らかだ。敵の指揮官は我々を待ち受けて、砦の中で出血を強いる気だ。
しかし、それとは承知で攻撃を仕掛けるほかない。短期的には包囲を続ける事は補給が尽き果てることを意味する。長期的にはフランス軍が砦を攻撃すれば必ず落城するという認識を敵に植え付けるために。
全く、この一戦だけに全てがかかっているなら戦いとはどれだけ楽なのだろうか。次がある。その次もある。いつまであるのだろうか。『斧打ちの国』にはいくつの城や要塞があるのか。その全てを攻略して回る事は不可能だ。火薬も兵力も有限である。もはや、今回のように"贅沢"な城攻めはできないだろう。……はたして、いつまで、どこまで、フランス軍は、自分は無敵なのだろうか?
ボナパルトは思考の水底に沈んだ後、急速に浮上して首を振った。ネガティブなことを考えていても仕方がない。今はこの戦いに集中するべきだ。
「明日の昼にはクレベールとボンの師団が到着する。明朝、総攻撃だ」
「明朝、明朝ですと?」
レイニエが思わず聞き返した。
「そうだ。攻撃の先鋒は貴官の師団だ」
「しかし、我が師団だけでは足りません」
「戦っているうちにクレベールとボンが来る。二人の師団は到着し次第即座に戦闘に参加させる」
「非常識な!」
「敵もそう思うはずだ。レイニエ。戦いの初歩を確認しよう。攻撃側にとっての武器は攻撃の場所とタイミングを指定する、主導権を握ることにある。攻城戦では場所は限定され、タイミングも攻撃準備で悟られる。敵はわが軍が準備万端整って仕掛けてくると思っているはず。意表をついてこっちのタイミングで仕掛けてやる」
「ですが、後続の到着が遅れれば我々の攻撃は各個撃破の好餌になります」
「そのぐらいの危険は承知の上だ。不意を打てばそれだけ犠牲も減らせる。取り掛かれ」
「……はっ」
「ドマルタン。砲兵の炉に火をいれろ。今晩から夜通しで砦に焼弾を打ち込んでやる。砦の中には二つ目の防壁があるが、急造では石造というわけにもいかんだろう。木の板、荷車、よく燃えるだろう。奴らに夜通し消火活動をさせて眠らせるな」
「はっ!」
「兵の視察に行く。ウジェーヌ、来い」
ボナパルトは椅子から立ち上がると灰色のコートを受け取り、二角帽を深く被った。嵐が吹き込むように司令部は慌ただしく動きだした。
◆
ボナパルトは野営地を歩く。供回りをするのはウジェーヌと護衛隊長のベシエールだけである。
兵士たちは赤茶けた土に穴を掘り、穴の上にテントの布を敷いて風よけにしており、何日も風呂に入っていない体は寒風で吹き付ける赤茶けた土を浴びて汚れていた。ある兵士は銃剣を研ぎ、また別の兵士は毛布を頭から被って必死に目をつむって夢の世界に逃避を試みている。また別の兵士は焚火あとの炭化した木を突きまわして暇を持て余しているようだった。
「兵隊」
兵士たちのたまり場にボナパルトが足を踏み入れると、彼らは汚れた顔から浮き出るように白く見える歯を見せる。
「司令官閣下! みんな集まれ、司令官閣下がこられたぞ!」
部隊長が声をかけると、ねぐらからぞろぞろと兵士たちが這い出てくる。ボナパルトは出てきた兵士たち一人ひとりの顔を見比べるように眺めると、頬をつねったり、耳を引っ張ったりして励ましてやる。
「司令官閣下!」
レイニエの報告通り、兵士たちは健康的とは言い難かった。ボナパルトの目に映る兵士たちは寒さでかじかんだ指は赤く、爪は紫色に変わり、野菜不足に落ちくぼんだ瞳は痛々しさすら感じ、声は渇きで掠れていた。
「閣下、我々はいつまでここにいるのでしょうか?」
「我々は銃弾も剣も怖くありません、しかし、こんなところで凍死するのは真っ平です」
兵士たちは忌憚なくボナパルトに不満をぶつける。
「早くここを去りたいか」
ボナパルトは帽子を脱ぐと両手に持って弄ぶ。
「当然です閣下」
「明朝、砦に総攻撃を仕掛ける。諸君らに期待して良いか」
そう告げると兵士たちは顔を見合わせた。
「明後日には諸君らは帰路につくだろう。街では暖かく快適なベッドが待っている。私はここに至るまでに最善の手を尽くしてきた。敵は希望は打ち砕かれ、失意の淵にある。銃剣で奴らを崖から突き落としてやろうではないか。雷の一撃でこの長引き過ぎた戦いを終わらせよう!」
命令を受けて兵士たちは沸き立った。
「この地獄から出られるならどこへでも行きます閣下!」
ウジェーヌはその光景に眉を上げる。寒さと飢えに苦しんでいる兵士たちが戦意を高揚させているのだ。
「ウジェーヌ、よく覚えておきなさい。人間はここよりマシだと思えば、地獄に飛び込むのだって躊躇しない。希望は人間をもっともよく輝かせるわ、燃えるのと、よく似ている」
「では、閣下、兵士たちを計算づくでここに……?」
ボナパルトの瞳は燃やし尽くした灰のように青灰色に輝き、ゆっくりと一度瞬きをして肯定を示した。
「少し違うわ。状況をそのように見せているだけ。状況を乗りこなしているように見せているだけよ。だがそれが必要な時もある」