第八十八話 業火の灯
白馬丘の戦いから数日。ボナパルトと護衛隊は蹄鉄砦へ舞い戻った。先の会戦でフランス軍が奪った軍旗が三十本以上、砦にいる人間に見せつけるように掲げられる。その中でもひときわ大きい赤字に金糸で剣が描かれたヴィオス公の将旗は投石機で城内に投げ入れられた。始め、それが意味することはただ一つ。
「ヴィオス公の旗だ。ハドリアド伯の旗も。軍旗を奪われたというのか。敗れたというのか、敗れたというのか……」
連日続く砲撃で崩落した胸壁から身を乗り出したダーハド派の騎士の一人がうわごとのように繰り返す。野戦を避けて籠城した軍にとって、外部からの救援は最大の希望である。救いがあればこそ昼夜を問わず鳴り響き、石壁を砕く砲撃を耐え忍べるというものを。騎士だけではない。砦にいる全ての人間が絶望という怪物に貪られた。
「次の援軍は早くとも春の半ばまでは無いだろう。それまで砦は持ちこたえられるのか」
「もはや抵抗は無意味だ。援軍が失われた以上、降伏条件を交渉するほかない」
「どんな条件があるというのだ」
砦の中、大広間では諸侯が狼狽し堂々巡りの議論を続ける。フランス軍の砲撃で天井の一部が崩落し、日光が差し込む広間では諸侯が寝不足と焦燥で充血した眼を揃え、泡を飛ばす勢いで喋り続けている。喋らぬことには誰もかれも不安で胸が潰されそうなのだ。
「砦には東部地域から集めた兵糧がある。これを明け渡すのを条件に安全を約させよう。敵も冬に包囲戦を続けたくはなかろう。吞むはずだ」
「臆病者め。我々は誓いを立てたのだぞ。我々は敵の攻撃を一度退けたのだ。さらなる援軍が来るまで城壁を死守する他なし!」
「左様。我らは既に一戦交えておる。敵が交渉に応じるとは思えぬ。奴らからすれば我らの条件等無視して押し通す事ができるのだから……」
「しかし戦えば犠牲が出る。敵もそれは避けたかろう。交渉の余地はある」
「ではなぜ敵は使者を遣わしてこぬのだ?矢文の一つもないのだ?これは我らを殲滅するという無言の威圧ではないか」
「我らの側から城門を開き跪くのを奴ら待っているのだ」
「ではそうする他あるまい」
「貴公に誇りは無いのか!」
「援軍が失われた以上降伏するのは当然のこと。恥ずべきは敗れたヴィオス公であり我らではない」
「ここに至っては跪いても許しがあるとは限らんぞ。我々は既に一戦交えている」
「兵糧がある、兵糧があるのだぞ……交渉材料になるはずだ」
「そんな保証はどこにもない。奴らが武器を捨て丸腰で出てこいと言ってきたらどうするのだ。黙って従うのか? それで、奴らが約束を守る保証がどこにある。出て行って皆殺しにされるだけではないか。ならば剣を握って城壁で死んだほうがまだ名誉というものだろう」
「落城すれば皆殺しだ。我々は皆殺しだ!」
「黙れ!」
恐怖に錯乱した貴族の顔に隣の貴族が拳を叩きつける。悲鳴も上がらず崩れ落ちた男が持っていた盃が代わりに鋭い金属の悲鳴を上げて一同の苛立ちを滾らせ、恐怖とそれに逆上する怒りの混合液が沸騰する。殴り合いが始まろうかというまさにその瞬間、諸侯の体を圧す大音量が場に響いた。グーエナスがその巨躯を奮い、大盾を床に打ち付けたのだ。全員の視線が彼に集中する。
「卿らは、皆死人の眼をしているな」
「グーエナス殿、我ら如何にすべきでしょうか?」
「死人に語る言葉はない。聞いていれば卿らは絶望し現実を見なくなっている。降伏を唱える者は自らの生殺与奪を敵に委ねており既に死人も同然。抗戦を唱える者も、表向きは勇ましいがその実はいかに死ぬかのみ頭にあり、これでは生きていると言えぬ。そのような者たちに語る事など無い」
「しかし伯」
「だが、卿ら生きようというのならば私に考えがある。勝とうと望むならば私の言葉を聞け」
勝つ?勝つ方法があるというのか。諸侯はグーエナスの言葉に顔を見合わせた。援軍は撃滅され、包囲軍の数は増すだろう。次の来援はいつになるか分からない。そんな状況で勝つことなど可能なのだろうか?
「昨夜、私の元に密書が届いた。我々を包囲している草長の貴族のうち、我々に内通している者からの矢文だ」
グーエナスは懐から一辺の布切れを取り出した。
「包囲外で戦うレスナストからの書だ。東部地域の諸侯が立ち上がり、フランス軍の後方を脅かしていると知らせておる」
その言葉に諸侯は声を上げた。
「それだけではない。西部の諸侯も一時はクルーミルに服属したが、フランス軍の大部分がこの東部地域にくぎ付けになっている今、叛旗をひるがえす予兆があると伝えてきている」
グーエナスは低いが確かな声で言葉を続ける。
「この言葉、嘘か真か。諸君には確かめる事はできぬ。疑う者もあるだろう。だが私は諸君に確約しよう。ボナパルト率いるフランス軍は包囲を続ける事は叶わぬ。既に彼らの行動は限界に達している。五日、五日の内に敵は最後の総攻撃に打って出てくるだろう。それは敵の最後の足掻きだ。それを粉砕すれば勝利の道が開ける。敵は包囲を解かざるを得なくなり、状況は一変する」
グーエナスは昂るでもなく、遜るでもなくただ平然と言う。諸侯は熱を帯びた身体が急速に冷え、そして温まるのを感じた。生存と勝利。そうだ、戦うのはそのためなのだ!
「そうだ、グーエナス伯の言う通りだ。勝つ、戦って勝つ!」
「勝利!」
勝利、の言葉が唱和され、諸侯の瞳は輝きを取り戻していく。グーエナスの言葉を信じた。そうでなければ、信じたかった。
◆
「グーエナス様」
諸侯が散会した後、がらんどうになった広間にはグーエナスとその腹心のコルネスだけが残った。コルネスは三十代を過ぎてなお青年の良く言えば若さ、悪く言えば幼さの残る顔立ちに針金のようにとがった黒髪を持っている。瞳は今は充血で赤みを帯びているが、本来は澄んだ空色を持っていた。
「なにか、コルネス」
「砦は完全に包囲され、遮る物のない城壁に近づく者はたとえ夜であっても城壁からの明かりが捕らえます。レスナスト様の矢文は……」
「お前は騙せんな。そうだ。この布切れは私が昨夜用意した偽物だ」
グーエナスは微笑を浮かべると諸侯にレスナストからの矢文だ、と称した布切れをコルネスに渡した。
「では……」
「砦の外の事は一切分からぬ。情報の遮断は城攻めの基本だ。……ボナパルトはよく心得ている。コルネス、情報は流すだけではない、遮断することでも相手を操れるのだ。あの男は旗を寄越す一方で降伏を勧めたり、脅迫する言葉を一切寄越さなかった。何か敵の言葉があればそれを基準に議論もできようが、全く無かった。おかげで諸侯は抗戦にも降伏にも決心がつかず右往左往だ。このように浮足立ったところを攻撃されれば砦は脆い」
コルネスに対してグーエナスは弟子に武術の初歩を教える師匠のような口ぶりで説いた。
「投げ入れられたヴィオス公の旗は本物だ。ヴィオスの事だ、生きて敵に軍旗を奪われる事はあるまい。あの男は死んだ。間違いなく。援軍は失われた」
コルネスはかけるべき言葉を探して足元を見た。
「だからこそ諸侯には希望を見せねばならなかった。絶望や恐怖では敵に立ち向かえん。それは敵に向かって逃げているに過ぎん。希望こそ死の恐怖に立ち向かう唯一の武器なのだ。生こそ。残るものこそ……」
グーエナスは相手に聞かせるというよりも、自分に向かって語り掛けるような口調で話すと、木椅子に腰かける。
「ヴィオスとは古い付き合いだった。あの男は小心者の癖にそれを隠そうと尊大な態度をとる男でな。何かと敵を作りがちの男だったが、与えられた仕事は人が嫌がるような事でも必ずこなす男だったし、意外に気の利く男で私や妻の誕生日には必ず贈り物を寄越したし、屋敷に行けば好物を食卓に出すような男だった。草長の国に攻め入った時には反乱の鎮圧や兵糧の徴収を抜かりなく行い、派手な武功にこそ恵まれなんだが欠かせぬ男だった。……だが、会戦の指揮官としては不適格だった」
コルネスは腰を下ろした主を見下ろして驚いた。常に威風堂々としている伯が老け込んだ老人のように見えたのだ。
「王もそのことを承知だろうが、ただちに動かせる軍勢はヴィオスの軍しかなかったのだ。あの男の軍はドルダフトンやツォーダフの軍が帰国するのと入れ違いでこの国に駐屯するため支度をしていたのだから……本来であれば王の手足として能力を持つ男が、頭の役目を負う事になったのだ。私が籠城を選んだためにな。気の毒な事をしたろう」
「ですがそれはグーエナス様の責任ではありますまい」
「いや、私の責任だ。王は不利と判断すれば撤退して良いと仰せであった。それに背き、この砦での籠城を決断したのは私だ。ヴィオスを死なせたのも、忠勇な諸侯を死なせるのも、私なのだ。無論この決断を間違っているとは思わん。蹄鉄砦は欠かせぬのだ。きたる再侵攻の重要な拠点であるし、王に草長の国を諦めさせぬためにも」
グーエナスは大きなため息をついた。
『草長の国』は盤石な一つの国ではない。それは『斧打ちの国』にも同じことが言える。『斧打ちの国』もいくつもの有力な大諸侯をはじめとした貴族たちが王を戴く形でまとまっている。中でも最有力なのはダーハド王の妻の一族イルバト家であり、この一族こそダーハド王こそ『草長の国』を継承する者であるとして攻撃を主張する派閥なのだ。グーエナスもこの一族に連なる者である。
クルーミルが力をつけ、『草長の国』から『斧打ちの国』の勢力を完全に駆逐した場合「やはりグルバス王の遺命通り、大山脈を国境にクルーミルに『草長の国』を委ねて良いのではないか。同じ王家の兄妹国として並立するになんの不満があるか」と和平を唱える声も出てくるだろう。あるいは、王自身そう考える節があるのではないか、とグーエナスは思う。
イルバト家にとって『草長の国』あと半歩のところで奪い去られた国なのだ。手元から零れ落ちた物は、最初から自らの物でなかったものに比べて、なんと惜しいものだろうか。戦いは既に引き返せない場所まできている。グーエナス自身は『草長の国』をクルーミルに委ね、ダーハド王と共に併存することに異存はない。グルバス王の血を分けた兄妹なのだから、骨肉の争いのなんと空しい事だろう。だが物事は既に個々人の感情で動くものではない。個々人の感情という水滴は集まって大きなうねりを生み、それは氾濫する大河のごとく人の手に負えなくなっているのだ。精霊の与える運命を考える時、グーエナスは年月の重みに双肩を潰される思いだった。
「思えば、なんと罪深い事か。敵を殺すだけに飽き足らず、味方を謀り、死なせるのだ」
コルネスは全身の血が凍るのを感じた。主の言葉は、死に臨んで己を振り返るような口ぶりだったからである。主は、敗北と死を直観しているのだ。諸侯を前にはおくびにも出さず。
「グーエナス様、勝つと仰ったのはグーエナス様ではありませんか。指揮官がそのような態度でどうなさいます」
その言葉にグーエナスは僅かに頷いた。
「その通りだ。コルネス、その通りだ。指揮官は絶望を許されぬ。ボナパルトは恐ろしい敵だ。あの男を雷鳴の主と呼ぶ者もある。それは全く以て正しい。雷鳴は嵐を呼ぶ。あの男が持ち込んだものはまさに嵐と呼ぶにふさわしい。大砲と称する武器や銃。それだけではない。奴らはこの年の収穫月以来延々と戦い続けている。かような軍隊がこの国にあるだろうか。かような規律を持った軍隊があろうか。あの者たちはまるで異なった世界から来たような者たちだ。それを『斧打ちの国』に入れるわけにはいかん。王には時間が必要なのだ。兵を募り、組織し、国境を固める時間が。我々は戦う。そうしなければならないのだ」
グーエナスは勢いよく立ち上がる。その反動で木椅子の足が軋み砕けた。コルネスはニ、三歩後ずさりした。主の全身が急速に膨れ上がり、背丈の何倍も大きくなったように感じられた。主は絶望の淵を覗き込んだ後、対岸の光に向かって飛翔しようとしているのだ。
「戦うからには勝つ。ボナパルトは五日以内に総攻撃を仕掛けてくるに違いない」
「なぜそう言い切れます」
「私が寄せ手ならそうするからだ。あの男は戦機を逃さぬ。敵軍は勝利し、士気が高まっている上に蹄鉄砦は包囲に適さん。大してわが方は城壁は半壊し、援軍は失われた。状況は最高だ」
そこにこそ、我が活路がある。グーエナスのその言葉にコルネスは大きく息を吸い、新鮮な空気で肺を満たした。




