第八十六話 勝利者たち
「生き残ったか」
煤に塗れた右手で額に流れる汗をぬぐって古参兵のヴィゴは呟いた。戦場を幾度となく潜り抜けて来た彼の経験が、急速にしぼんでいく戦場の熱気、怒号の波が去っていくの正確に把握していた。あちらこちらで兜を槍先に掲げて、降伏の意志を示す集団が見える。
日が傾き、血塗れになった大地を鏡映ししたように赤く染まり出した空には無数の黒い影が旋回しているのが見える。死臭を嗅ぎつけた鳥たちが喜びの舞を踊っているようにヴィゴには感じられた。
夥しい死者を涎をたらして待ち構えているのは鳥ばかりではない。戦いが止んだとみるや、周囲の村からは死体漁りに来た人々が死体から何もかもをはぎ取ろうとせわしなく動き回っている。武器や防具、指輪に懐の僅かな銀貨。いずれも死者には必要のないものだろう。
その一方であちこちで助けを求める声が戦いの雄たけびに取って聞こえる。折り重なる死体の山を縫うようにフランスの軍医、ラレによって新設された救命部隊がまだ助けられそうな者たちを担架に乗せて救護所へ往復しているのがヴィゴには見える。
「救える者は全て救うんだ。敵も味方も回収しろ!」
救命部隊の陣頭にはラレ本人が立っている。彼らにとっての戦いは始まったばかりだった。
ヴィゴは戦場に溢れる生者と死者の営みについて自分の気持ちを整えるために銃の火皿に鼻を寄せて火薬の臭いを嗅いだ。鼻腔を満たす煙い感触が嫌に心地よく感じられるのだ。
「よくやった」
傍にいたランヌ将軍が血脂で汚れたサーベルを拭いながら言う。彼もまた最前線の渦中にあって兵士たちと共に剣の届く距離で戦っていた。
「はあ……ああああ……」
徴募兵の少女ワフカレールが糸が切れたように草むらに倒れ込んで大きな息を吐きだした。戦いに勝った後にやってくるのは勝利の高揚感よりも先に緊張からの解放である。生死の境から急激に引き上げられる感覚にワフカレールはまだ慣れ切っていなかった。
「大丈夫かい。水、飲む?」
若い兵士のジャックが倒れ込むワフカレールに水を差し出すと、ワフカレールは返事の言葉もなく水筒にかじりついた。
「さあ、兵を集めて、戻って食事にしよう。温かいスープがあるはずだ。俺はボナパルトに報告をしに行かなきゃならんから後のことはヴィゴ、お前に任せよう」
ランヌはサーベルを拭き終わると鞘に納めて朗らかな笑みを浮かべてみせた。
「承知しました」
ヴィゴはそれに応じるとへたり込むジャックとワフカレールの肩を叩く。
「食事だ。生き残ったんだから、腹が減ったろう」
二人は顔を見合わせて生存を祝福するように笑った。
◆
ボナパルトは戦場の中央、羊毛軍団の兵士たちの前に姿を見せた。白馬に跨ったボナパルトをみるや、兵士たちの間では地響きのような歓声が上がった。
「勝利! 勝利!」
盾が鳴り、剣が打ち鳴らされる。
「戦場の主! 勝利の人!」
勝者を意味するグルバス語がボナパルトに降り注ぐ。ボナパルトはそれに応じて二角帽を脱ぎ、それを振って兵士たちに応えた。整列する兵士たちの前を進む中、ボナパルトは一人の兵士に目を止めて馬を降りた。
「お前、川辺の都のモートだったな!」
名前を呼ばれた兵士は驚きの声を上げた。
「俺を知ってるんですか!」
「閲兵の時にいただろう。お前の活躍を見ていた。その右手は矢傷だな。立派な事だ」
ボナパルトは懐からハンカチを取り出すとその若い兵士の右手の傷口にあてがった。
「お前は全軍の模範だ。新聞に名前を載せてやる。二日後には王都中の人間がお前の名前と活躍を知ることになるだろう。戦役が終わった後、お前が酒場に行くと皆が口をそろえるだろう"ああ、ここに勇者が来た!"とな」
ボナパルトは兵士の手を引くと全軍の前に引き出した。全ての兵士たちの眼差しがボナパルトとその兵士に注がれる。
「この者は諸君の代表だ。諸君らの働きの前には伝説の英雄も赤面するだろう! 諸君らは比類ない勇気を発揮して戦場に踏みとどまった。おかげで私は勝利を得ることができたのだ。 これからも諸君に期待してよいか? お前たちを頼みにしてよいか!」
ボナパルトの問いかけに兵士たちは喉が裂けるほどの声で応じる。自分たちは騎士たちの数合わせではない。自分たちは戦場の端役ではなく勝敗を左右する要なのだ。目の前にいる人物はそれを承知している。名のある貴族ではない一介の兵士に過ぎない自分たちの名前を覚え、褒めたたえてくれるのだ。
「然り! 然り!」
ボナパルトは鷲が獲物を掴むごとく兵士たちの心を握りしめると、戦場の興奮と勝利の高揚とを追い風に天高く飛翔した。兵士たちの心はボナパルトの翼に導かれて栄光の輝きに満ちていくのだった。
◆
兵士たちの熱狂を制した後、ボナパルトは指揮を務めたランポンとソチタロト公の元へ向かった。
「司令官閣下、勝利をお祝いします」
「貴官らが踏みとどまってくれたおかげだ。弱体な徴募兵たちをよく訓練し、よく統率したなランポン」
ボナパルトが肩を叩いて労をねぎらうとランポンは大きく安堵の溜息をついた。
「よい戦でした。ボナパルト殿! 実に良い戦でした!」
そこへソチロタト公が鼓膜に響くような声量で割って入る。老将の全身は白髪まで返り血で赤黒くなり、眼と歯だけが不気味に白く残っていた。
「公の活躍も聞いている。よく踏みとどまってくれた」
ボナパルトは血に塗れた鎧を気にするでもなくランポンにしたように肩を叩いて公にねぎらいの言葉をかけた。
「司令官閣下、ソチロタト公は戦いに際して自らの馬を斬り、全軍の範としました」
「ほう、馬を?」
その言葉にボナパルトは僅かに眉を上げる。
「なにか意外ですかな?」
「馬を斬れば逃げられなくなる。公はその覚悟で戦いに臨まれたのだな」
「そうです!」
老将は笑った。
「そうか」
ボナパルトは老将の笑みに陰を見いだせなかった。
「今回の戦いは実に良い戦でした。羊毛軍団の兵士たちは実に素晴らしい兵士です。皆、実に勇敢で指揮官を信じ、戦場に踏みとどまり敵に敢然と立ち向かいました。在りし日の我が精兵たちを思い出します」
「貴殿の兵はどうしたのだ?」
「かつての戦であらかたが失われました!」
老将はこともなげに笑みを崩さなかった。
「たとえ友軍が逃げ出そうとわが軍は決して後ろを見せませんでした。それを率いた我が息子も娘も、みな我が誇りでした」
ボナパルトはそれが過去形で語られている事に気が付いた。おそらくこの老将軍は常に一所懸命なのだろう。どの戦場にあっても、全力を尽くして本気で戦ってきたのだろう。策略や駆け引きもなく、ただ正面にいる敵に相対してきたのだろう。
フランス軍とこの世界の軍隊の決定的な違いの一つがそこにある。
フランス軍の指揮官たちにとって兵は指揮官のモノではなく、フランスという国家のモノなのだから、失われたところで個人の影響力にはなんら関係ない。指揮官は与えられた任務に向かってひたすら邁進すれば良い。無論損害が少ないほうが良いには違いないが。
一方でこの世界の軍隊は貴族の私兵から成る。兵の損害はそのままその貴族の影響力や支配力に直結するのだ。多大な犠牲を出すに値する見返りや意義が貴族個人に無ければ真面目に戦えば戦うだけ損をするだけになる。フランス軍のようにただひたすら勝利を目指せばよいというものではない。
他の諸侯が利無し、勝機無し、と見るや損害が増えるまえにさっさと兵を引いてしまう中でも愚直に己の持ち場を維持しようと努めていたに違いない。ただ一人、損害を省みずに"真面目に"戦っていたのだ。そして一人損をしてきたのだろう。
恐らくこの老将は自分が損をしているのだ、という事に気づいていない。割に合わない戦いをしてきたのだ、という意識はないのだろう。ただひたすら戦ってきたのだ。そう思いボナパルトはその愚直さに目を細めた。それは一独立勢力の指導者として失格だ、悪徳と言ってさえ良い。しかし、一方で部下としては得難い才能に違いない。疑う事なく、己の損得を省みない。部下としてはこの上ない美徳だった。
人間、それぞれ相応しい場所というものがあるに違いない。ある場所では落ちぶれる人間が、別の場所では輝けるのだろう。ボナパルトは自らについては未だそれを見いだせないが、目前の人物についてはその答えを得ていると感じた。
「よい戦いだったか。ソチロタト公」
「はい、実に良い戦いでした!」
「これからも貴殿に羊毛軍団を委ねたい。私に力を貸してくれるか?」
ボナパルトはその燃え尽きた灰を思わせる瞳で老将を覗き込む。
「そうです!」
老将は陽気な笑顔を崩さなかった。
◆
「司令官閣下!」
自らの司令部に戻ったボナパルトをクレベール将軍が獅子が獲物を前にしたような笑みと長い両腕で出迎えた。
「ぐえッ……!」
自分より二回りほど巨大な大男に抱きしめられてボナパルトは文字通り窒息しかけた。
「見事な勝利ですな司令官閣下! 閣下はこの宇宙と同じぐらい偉大な方だ!」
自軍より優勢な敵を相手に平野で側面攻撃を完成させた司令官をクレベールは心の底から賞賛する。
「分かったから腕を放せ。息が詰まる!」
クレベールの腕を振りほどいてボナパルトは呼吸を整えた。
この獅子を思わせる男は褒めるにしろ貶すにしろ率直過ぎる。
「貴官の攻撃は実に華麗なものだったな」
「勿論ですとも。敵はあらかた逃げ散りましたがどうなっていますか。我々と衝突した敵集団は奇妙な事に戦場に踏みとどまらず離脱していきましたが」
クレベールはにこやかな笑みを即座に獲物を突け狙う狼のような険しいものに切り替える。それに応じてボナパルトも表情を凍らせる。互いの功績を褒めたたえ合う戦友から、次の死と破壊の部隊を設定する冷徹な指揮官のそれに。
「ノルケト殿の話によれば、離脱したのは草長の国の一団だ。詳細は調べさせているが、おそらく内部分裂があったように思われる。逃げ散るなら逃げ散るに任せていいだろう。敵の指揮官ヴィオス公は戦死したとの報告が入っている」
「ほう、敵の指揮官は死にましたか」
「そのようだ」
ボナパルトは平然と言い捨てた。
「降伏した敵はおよそ一万。武具を没収して『驢馬の市』に護送する。組織的に離脱したのは二千余り。これはデュマの騎兵とミュラの軽騎兵三千騎で追撃させている。再度攻撃に出るのは不可能とみて良い」
「すると敵軍は完全に消滅したとみていいわけですか」
「そう見るべきだ。最大の懸案である敵の野戦軍は殲滅した。が、未だに後背には敵の散発的な抵抗と蹄鉄砦が控えている。ただちに軍を返して蹄鉄砦を落としにかかるぞ」
「それが順当でしょうな。で、いつ出発しますか」
「明朝、夜明けと共に」
ボナパルトにとって勝利は未だ完成されていなかった。