第八話 女王の夕食
ボナパルトは『剣造りの市』の郊外にテントを連ねて野営している自軍を閲兵した。
兵士たちはこの地にきて初めて受け取った食べ物や酒に早速順応しているようで、久しぶりに腰を据えた食事を楽しんでいる様子だった。街のほうからは商人たちがやってきて、言葉も通じないのに身振り手振りで兵士たちにこの地の物産を売りつけている。軍隊というものは巨大な胃袋であり、消費者である。
商人という生き物はどこの国でもたくましいものだとボナパルトは半ば呆れ、半ば本気で感心し、兵士たちに武器を売り渡さないように厳命して、それ以外の取引は各人の自由に任せた。
兵士たちは制服のボタンや戦場で拾った小物、あるいは金貨などを商人に売り商人は酒や菓子などを売っているようだった。硬貨はどのような模様が彫られていようと、金や銀である限りはこの世界でも流通しているらしく、商人たちは天秤を持ち出して慎重にその重さを測ってる。
日が落ちる頃、ボナパルトはクルーミルの招待に従って彼女の屋敷を訪ねた。招き入れられた食堂は暗めの色のレンガ造りで部屋はほんのりとろうそくに照らされ落ち着いた食事を楽しめるような造りになっている。
「ようこそ「王の友」ボナパルト。偉大なる王グルバスの娘にして『草長の国』の王クルーミルが貴女を歓迎します」
美しい白色のドレスに身を包んだクルーミルがうやうやしく挨拶する。ボナパルトの他には給仕をする召使がいるだけで他の要人の姿は無い。
「招待に感謝します。他の方が見えませんが」
「貴女と二人で話がしたくて。堅苦しい挨拶はこれぐらいにしましょう。楽にしてください」
「そういうことならそうするわ。クルーミル女王」
「クルーミルとお呼びくださいボナパルト」
「わかった。私の事もナポレオンでいいわ」
「ところで貴女のナポレオンボナパルトという名前はどこからが称号でどこからが名なのですか?」
「……ナポレオンが名でボナパルトは家の名前よ」
「そういう風習があるのですね。私たちは家の名前をつけません。名で呼び、同名の人物は称号で区別します。貴女の世界の習わしで呼ぶなら、私の名前はクルーミル・ヘレセンナトになるのでしょうか」
「そう。ヘレセンナトって言うのね」
ボナパルトは興味なさそうに答えた。
「昼、私の事を話しました。今度はあなたの事を私に教えてください」
「知ってどうするの」
「友の事を知りたいと思うのは変ですか?」
「別に私の事など知っても面白くないわよ」
「貴女は本当はそういう話し方をするんですね。今までと違う」
「部下の前だと威厳を出さないといけないでしょ? 楽にしろって言うから楽に話してるけど、いけなかった?」
「その通りですね。私の前では取り繕わなくて構いませんよ。貴女と気の置けない友になりたいのです」
「……ところで、いつもみたいに手を繋がなくても普通に会話が成立しているわ。どういう事?」
「ここには呪いがかかっています。私が貴女と話す時に使うのと同じ呪いが。それを媒介にしてここに精霊を呼び出して話をさせてもらっています」
「呪い?」
「万象を司る精霊をご存じありませんか。その精霊の力を借りているのです」
「信じがたい話だけど、手を触れて会話する力があるんだから信じるほかないわね。精霊ってのは他に何ができるの。火を起こせるの? 雷を落としたり、水を酒に変えたり出来るの?私にも使える?貴女のほかに、この力を使える人は?」
「順番に答えましょう。そういう事ができる精霊もいます。しかし全ては精霊の気まぐれ。念じたからといって必ず火を起こしたり、雷を落としたりはできません。貴女に使えるかどうかも分かりません。精霊が応えてくれ易い人もいれば、全く応えてくれない人もいます。精霊に気に入られる術というものは長い間研究されていますが、彼らは私たちの理解を越えます。運命と呼べるものかもしれません」
「なにそれ。都合がいいのか悪いのか……」
「私と同じ、会話をする術を持つものは他にもいます。精霊を呼び出せる素質のある人間は交信者として王の庇護下にあり、王の召集に応じる義務を持ちます」
「それはいい。そういう人間を集めて頂戴。あなたたちと意思疎通を円滑にしたい」
「今の私の召集にどれだけの交信者が来てくれるのか分かりませんが、集めてみましょう」
「それと……言葉を学ぶ必要がありそうね。精霊抜きで話ができるようにしたい」
「なぜですか?」
「運任せというのは私の性に合わない。精霊の気まぐれで話せたり、話せなかったりしたらいざという時困る。」
「確かに。では私が貴女に我々の言葉を伝えましょう。貴女も私に貴女の言葉を教えてください」
「私の言葉……私に習わず学者連中に習いなさい。綺麗なフランス語を教えてくれるわ」
「貴女に教わりたいのです」
ボナパルトは答えなかった。
料理が運ばれてくる。羊肉を柔らかく煮た料理でこの国の伝統的な料理だった。トマトに似た匂いのするソースで味付けされている。ボナパルトはそれをフォークで突き刺すと、ナイフで切り分けずにそのまま嚙みついた。
「何かお気に障ったのですか?」
「……私の事を知りたいと言ったわね。私はコルシカって島で生まれた。そんなに大きくはないけど立派なところよ。コルシカは私が生まれる前に、フランスって国に征服された。私の故郷は征服された」
「……」
「私は征服されフランスの一部になったコルシカに生まれた。で、私はフランスの軍隊に入った」
「どうして? 自分たちを征服した者たちの下に?」
ボナパルトはガラス製のコップに注がれた酒を一気にあおった。ベルティエが言ったようにぶどう酒に似た味がし、強いアルコールが喉を焼いて脳を灼熱させた。
「強くなるためよ。クルーミル、私は強くなりたかったの。だから耐えた。慣れない言葉にも、生活にも、コルシカ訛りのフランス語を話すのを馬鹿にされても耐えた。耐えて、学んで、女だって事を隠して軍に入って、偉くなったわ」
「なぜ女であることを隠すのですか?」
「私の国では女は軍人にならないものだからよ」
「不思議な風習をお持ちなのですね。この国では男も女も武器を取ります」
「この世界は知らない事だらけだわ」
「……それで、貴女は故郷を取り戻せたのですか?」
「いいえ。いいえ。私は故郷を追われた。私の目指したものは、故郷の人々が望んだものと違ったから」
「それでも、戦うのですね。貴女は」
「……」
私はもっと強くなる。もっと強くなり、もっと偉くなる。そうすることでしか失ったものを埋め合わせることができないから。頭の中にこびりつく、学友たちの嘲笑。「コルシカ島から来たんだってな。俺たちの親父たちが征服した、チビのお前みたいにちっぽけな島さ」「さあ。下手くそなフランス語を喋ってみてくれよ」……今もボナパルトを苛むフランス人の嘲笑の声。
「お前の親父は俺たちのパオリを裏切ったのだ」「裏切者の子め」故郷の人々から向けられた生まれに対する軽蔑。コルシカ人にもなれず、フランス人にもなり切れない。礎にすべき何物もボナパルトには無かった。
奪われた故郷。弱かったのだ。強くなることでしか、その傷は埋め合わせられない。権力だ。それを追い求めて、こんなところまで来た。もしクルーミルが本当に私の望むものを差し出すというのならそれは……ボナパルトはそれを既のところで口に出さなかった。それはあまりにも野心的に過ぎ、クルーミルに知られるわけにはいかなかった。
「クルーミル、貴女はなぜ戦うの? 民を安んじるためって言ってたわね。でも、それだけじゃないんでしょ?貴女は王になりたいんでしょ。それはどうして?」
「この世界を一つにして分かたれることないようにするために。父王グルバスはこの世界を一つにしました。そして、私たち三人に分け与えました。それ以前、父王グルバスはその父が残した国を兄弟と分かち合いました。王が死ぬたびに国は分かたれ、兄弟同士が統一をかけて争います。私が抵抗をやめ、兄のダーハドに屈すればこの代の流血は終わります。しかしそのあとは?ダーハドの子供たちが再び同じことをするでしょう。私はこれを終わらせたい。私がこの世界を統一し、国を分かたないようにする」
クルーミルの赤い瞳が、ろうそくの火を反射して燃え上がるように見えた。
「それは大変な事業になるわね。今までの習慣を変えるとなると、どれだけ大変なことになるか」
「ええ。抵抗は多いでしょう。今の私には何もない。ようやく街一つ取り戻しただけの女王に過ぎません。
でも、だからこそしがらみも少ない。何もないのが今は武器です。私は、これを成し遂げる」
「あなた、意外と気宇壮大なのね」
「そう思わせてくれたのは、貴女ですナポレオン。貴女が来てくれたから、私はできる気がするんです。貴女は強い。とても強い意志を持っている。私も貴女のようになりたい」
「そう。それはよかったわ。……私のようにね」
それは果たして良いことなのだろうか?ボナパルトは言わなかった。
「これからも力を貸してくださいね」
クルーミルは美しい花が咲くように微笑んで見せた。
ボナパルトの心が少しだけ揺れた。
2023.12.03 一部加筆