第八十五話 白馬丘の戦い(前編)
ボナパルト率いる軍勢は宿営していた宿場村から三キロ東の『白馬丘』に布陣した。
「丘」と呼ばれるものの起伏はほとんどない。僅かばかり痩せて朽ち果てたような木々があるばかりの一面の草原である。それでも騎兵の動きを妨害するには十分な障害物になり得るので、フランス軍はその頼りない木々を背に布陣した。全軍の最前線に薄い膜のようにランヌ将軍率いる銃兵隊が展開している。両翼をボン将軍の半旅団が四角い方陣を組んで固め、中央をランポン将軍率いる徴募兵、羊毛軍団とマルモン将軍が指揮する二十門ものグルバス製の三ポンド砲が固めている。その後方にはデュマ将軍率いる騎兵隊が配置されて予備兵力としておかれるという教科書的な陣形だ。
「白馬丘……ここは縁起の悪い土地です」
慌ただしく移動する兵士たちを馬上で監督するボナパルトにクルーミルの家臣、ノルケトが告げる。ボナパルトはそれを無視して望遠鏡を覗き込み、隣のベルティエ参謀長が持つ地図を横目で見ては指示を飛ばしている。
「ここは先に女王陛下の軍勢がダーハドの軍と戦って大敗した土地です。それをご承知ですか」
フランス軍の前面の草原の至る所には土を掘り返したあとや、討ち死にした戦士を称える「柱」が立っている。ノルケトにはそれが不気味に思えてならない。
「精霊の加護も得られないでしょう。この土地はダーハド王に捧げられた土地です。おお、これは精霊の導きか……!」
「うるさい」
ボナパルトはハエを追い払うようなわずらわしさでノルケトの口を塞いだ。
「精霊ごときに私の戦いを左右されるものか。お前たちの敗北と私の戦いになんの関係がある」
ボナパルトは望遠鏡をしまい込む。
この『白馬丘』が二度も大きな戦いの舞台になったのは偶然ではない。個人個人の決闘ならともかく、数千、数万の軍勢が激突する場所となるとこのだだっ広い草原でも適した場所は限られる。根拠地からの距離、利用できる地形……もろもろの条件がこの場所を戦場に設定したのだ。精霊の導きなど無関係だ。とボナパルトは状況を分析する。
そういう意味ではかつてクルーミルがこの地を戦場に設定したのは間違いではなかった。彼女に戦場を見定める目があったとみるべきだろうか。それとも優秀な軍人が配下にいたのか。彼らはみな、あの土の下に埋もれているのか。ボナパルトは少し過去に思いを馳せて首を振った。
地平線の淵には陽光を反射して輝く鎧の軍勢が迫っているのが見えた。赤く染め抜かれた旗。『斧打ちの国』の旗。
「司令官閣下、敵が見えました」
目を細めた副官のウジェーヌが主人が投げたボールを拾った犬のような忠実さでボナパルトに報告した。
「見えてるわ。……兵を整え、戦場を設定し、策をめぐらす。ここまでは計算通り」
ボナパルトは冷静に地平線から湧いて出てくる敵軍を見定めた。鎧の反射が多い。武具もそれなりに揃っている軍勢だろう。最前列を走り回る馬が前の戦いよりも少ない。騎兵戦力は後方に隠しているのか。……そして何より軍の展開が明らかにもたついている。
行軍に適した隊形から戦闘に適した隊形に変換する速度、それは軍の強さを示す一つの指標である。訓練され、団結し、強力な指揮官に率いられる部隊ほど素早く配置を終える。前回対峙したダーハド王は見事な展開をしてのけた。
「王の軍勢と比べれば展開が鈍い、配置に付くのにもたもたしているように見える。敵の指揮官は統率力に難ありね。見ればわかる」
「見るだけでそんな事までわかるなんて、さすが義父上です。でも、敵はわが軍の二倍ですよ。平地では数がモノを言います。クレベール将軍の師団はまだ影も形もありません。敵が猛攻撃を仕掛けられたら……」
義父への尊敬と心配との間で顔色を目まぐるしく変化させるウジェーヌを見てボナパルトは少し笑った。
「まあ見てなさい。この会戦はこの世界で記録に残る大勝利になるわ。安心なさい」
ボナパルトは余裕のある笑みを見せようと口角を意識して上げた。ウジェーヌの純粋な尊敬の眼差しを受けながら、ボナパルトは口で言ったことと逆の事を考える。
戦の九割は準備とよく言うが、戦場の土壇場でひっくり返った戦例は数多い。準備するだけで戦に勝てるならダレイオスはアレクサンドロスに勝っただろうし、パウルスはハンニバルをカンナエに埋葬した。それで私はイタリアで敗戦の将として捕らえられるか、断頭台に送られていたに違いないだろう。
予定通りに始める事は簡単だが、予定通りに終わらせる事のなんと難しい事か。自分が勝利の絵を描いているように敵も同じ絵を描いているだろう。二つの意志が一つの場に置かれた時、どちらかが折れ砕けるほかない。そして折られるのは自分ではない、とボナパルトは信じていた。
ボナパルトが副官たちを伴って全軍中央の先頭へ馬を進めると割れるような雄たけびが戦場に満ちた。ある者は叫び、別の者は盾と剣を打ち鳴らす。槍が大地を打って巨人の足音のような響きが伴う。
ボナパルトは軽く二角帽を上げると兵士たちの熱狂は水を打ったように静まり、その奇妙な静寂の隙間を縫うようにして白衣を纏った男女が「精霊よ、我らを見守り給え」と呪文を繰り返し唱えながら行進した。
ボナパルトは精霊の類を信じていなかったが、一方で手が触れるだけで会話が出来る他、この世界には不思議な力が存在するということを認めざるを得ない。ボナパルトらしからぬ、迷信じみた行いを見てフランス兵は首を傾げるものだった。
祈りの言葉が終わるとボナパルトが口を開いた。ボナパルトは目に見えぬ精霊に語り掛ける術など持たないが、眼前にいる兵士たちを奮い立たせる事に関してはそれこそ魔術的な力を持っていた。
「兵隊! 待ちに待った戦いの時である。これより先は諸君の両肩にかかっている。諸君らの先には富と栄光が広がり、後ろには屈辱と死がある。いずれをつかみ取るかは全て諸君の才覚次第である。この世界の全てが諸君らを見ているぞ。諸君らの手で新たな伝説を作ろうではないか。千年先に子孫に語られる戦いをしようではないか!」
◆
フランス軍の右翼。ボン師団の第三十二半旅団が二列横隊の陣形を組んで布陣する、その百歩先にヴィゴ、ジャック、そしてワフカレールたち銃兵組が膝をついてまばらに陣取っている。
「銃の扱い方は練習した通りだ。ハンド・カノンより操作が面倒かもしれんが使い勝手はいいはずだ」
「うん、やってみる」
三人の手に握られているのは、見た目こそ他の兵士と区別ないマスケット銃だが銃身の内にはライフリングが施されている。弾丸に回転を加え、射程と命中率を飛躍的に高めた武器。ライフル銃を装備していた。ジャックとワフカレールの首には黄金に輝くメダルが下げられている。王都で授与された勲章だ。
「ジャック、銃がマスケットでもライフルでも俺たちの仕事は変わらない。戦列の前に飛び出て行って、敵を狙撃する。列の先頭にいるヤツ、旗を持ってるヤツ、偉そうな飾りかなんかをつけてるヤツが狙い目だ。敵の騎兵が見えたら素早く味方の陣地まで逃げ込め、いいな」
ヴィゴがかみ砕くように改めて自分たちの任務を話す。
「分かってますよ。……でも、四人一組で戦うよう命令を受けたのになんで俺たちだけけ三人なんですか?」
フランス兵の散兵は二人一組で行動するのが常だったが、徴募兵の銃兵組は四人一組に改められている。身軽さは落ちるがその分、不意の接近戦や騎兵の急襲にも対抗し得るし、逃亡の可能性も減る。
「それは」
「それは俺が参加するからだ」
唐突に横から顔を出した人物にジャックは叫び声をあげて姿勢を崩してひっくり返った。
「ラーンヌさん!」
ワフカレールが喜びの声を上げて人物の名を不正確なグルバス訛りで発音した。
「ははは、また会ったな。ラーンヌでもいい。俺がお前たちと一緒に行く」
「ランヌ将軍ご自身が最前列に出るんですか?」
ジャックの仰天の声にランヌはいたって落ち着いていた。
「そうだ。文句ないな、ヴィゴ?」
「閣下のご自由に」
ヴィゴはランヌの眼差しを直視しないように、さりげなく敵のほうを見ながら応じた。
直後、陣形の中央から落雷のような響きが二度、三度にわたって響き渡った。会戦の始まりを告げる号砲である。
「ボナパルトが始めたな。よし、全員立て、行くぞ!」
ランヌが叫んで立ち上がると草原に膝をついて座り込んでいた者たちが一斉に立ち上がった。ワフカレールも立ち上がろうとしたが突然膝に力が入らなくなって、立ち上がり損ねて転んでしまった。
「大丈夫かい?」
ジャックが差し伸べた手に掴まってワフカレールはようやく立ち上がった。
「怖いか、お嬢さん」
ランヌの問いかけにワフカレールは首を振った。
「怖くはありません」
「頭はそうでも心が怖がってる。……実を言うと俺も怖い。目の前の殺意と敵意が怖くて仕方がない。だがそういう時、戦友の顔を思い出せば踏みとどまれるものさ、覚えておくといい」
ランヌはそういうと肉食獣を思わせるような鋭い笑みを浮かべた。
「よし、行こう。敵が待つほうへ! 勝利へ!」
ランヌはサーベルを抜くと振り返る事もなく戦列の百歩前、散兵線のさらに十歩前を駆けだしていった。