第七十三話 戦場を数える
「突然村が生えてきた……」
フランス軍の若い兵士ジャックは右肩に担いだ銃を担ぎなおして呟く。青い制服の上には茶色のローブのようにゆったりとした外套を着こんでいる。『蹄鉄砦』にいた頃に従軍商人から買った一品でジャックはこれを街の相場の倍で買う羽目になっていた。
彼の視線の先には冬でも青々と茂る大草原の緑とその中に点々と垂らされたインクの染みのような土色と暗褐色の家屋の群れがある。草の海にぷかりと浮かび上がった城のようにジャックには感じられる。
なぜこんなところに村があるのかわからなかったが、とにかく今日は屋根と壁のあるところで
眠れそうだ、とジャックは頬を緩ませた。横を歩く古参兵のヴィゴと、徴募兵の少女ワフカレールも同様に安堵のため息をついている。
唐突に『蹄鉄砦』を出発すると言われて数日、司令官であるボナパルトに率いられ、千人の銃兵の仲間たちと共に吐く息が白くなる世界を歩き、野宿してきたのだ。
「焦げてる。昨日今日じゃない。だいぶ前に焼かれたんだ」
村に近づいたところで古参兵のヴィゴが一軒の屋敷に目を止めた。およそ建物と呼べる家屋はほとんど綺麗なままだがその屋敷だけが焼き払われて柱や石造の部分だけが辛うじて形をとどめているだけだった。
ヴィゴは黒く焦げた屋敷の門に顔をしかめた。
「どうしたんですかヴィゴさん、怖い顔して」
ジャックののんきな声にヴィゴは低く唸るような声で答える。
「扉を見ろ、焦げてるが不自然な板と釘が扉の縁にある」
「ほんとだ。でもなんで?」
「誰かがここに人間を押し込めて、逃げられないようにして火を放ったんだ」
「そんな!」
ワフカレールは美しい翡翠の瞳を大きく見張り、ジャックは後ずさりした。
「なんでそうだってわかるんですか?」
「昔、嫌ってほど見たんだ。こういうやり口を……多分ここの連中は見せしめに焼かれたんだろう」
ジャックは周囲にある廃墟が突然巨大な墓石に思えて身震いした。
「誰かいる」
ワフカレールは廃墟になった屋敷の横に立つ丸太小屋を指さした。大きさはまるでくらべものにならないが、木の匂いがまだ残るような真新しい丸太小屋の中から、ぼろきれをまとった中年の男が冬眠中のクマのような険しい表情でジャックたちを見ていた。
「おじさん、おじさん!」
ワフカレールがグルバス語で話しかけると男は妙にうれしそうな顔をした。
「クルーミルの兵隊か!」
「この村に何があったの?」
男はニコニコと妙に明るい笑みを浮かべてワフカレールにしゃべりはじめた。
「この先の白馬丘でダーハドとクルーミルの兵隊が戦ったんだ。そんでその後ダーハドの兵隊連中が
この宿場村に押し寄せてきて、そら、そこの屋敷はここらの顔役の貴族の屋敷だったから、連中がその一族と召使をまとめて押し込んで火をかけたのさ……見せしめにな。かわいそうに。でももっと可哀そうなのはこの村の連中さ。殺されはしなかったが、全員追放されて村は捨てさせられた」
「おじさんはこの村の人?」
「違う。俺は墓堀人だよ。白馬丘でクルーミルの兵隊が大勢死んだんで、いろんなとこから俺みたいな墓堀人から死体漁りやら、御主人サマの死体を捜す召使やら家族やらが大勢来たんだ。で、いつの間にかそんな連中がこの宿場村に住みついて、小屋だのなんだの建てはじめたんだよ。片付けもあらかた終わって、殆どいなくなっちまったけどな、ちょっと前まではちょっとした町みたいだったんだぜ」
男は櫛が抜けたように欠けた歯を見せて笑う。
「あんたら戦いに来たんだろ? もし死んでも俺がちゃんと埋めてやるから安心しな! 割り増し料金をくれたら運び先の業者も呼んでやるし、墓石も綺麗なのを選んでやるよ」
「ありがとうおじさん。でも遠慮しておく!」
ワフカレールがニコニコと手を振ると男は毒気を抜かれたように一瞬目を丸くして、再びにやけた笑顔を見せながら小屋の中に引っ込んでいった。
「全く縁起が悪いなあ」
ジャックはそう言いながら上着をバサバサと振って、悪い気を追い払おうとした。
「あの男、俺たちが戦いに来たのを期待してたみたいだけど、はずれですよね?」
その問いかけにヴィゴは答えずに手帳を開いた。
「ドゼー師団も、クレベール師団の奴らもどっかいって、ここにいるのは俺たちと、あとは司令官の護衛隊だけです。いくらなんでもこの数で戦うわけない。そうでしょ? 俺たちは多分、どっか安全な場所に移動してると思うんですよね」
黙りこくるヴィゴにジャックは自分の希望的観測に近い予想を披露してみせた。
「多分違うな。俺たちは前線に向かってる」
ヴィゴのぶっきらぼうな物言いにジャックは生えそろっていない顎ヒゲを撫でる。
「なんでわかるんですか?」
「行軍の時の太陽の位置から思うに、俺たちは敵の国境に近い東に移動してきてる。ここは幅の広い街道が通ってるだろ? 多分、ここで他の味方と合流する予定なんだ。都合がいい」
「敵に向かって進んでるんですか? じゃあなんで他の味方は離れたんです?」
「そんな事は司令官に聞け。だが、この分だと俺たちと合流するのはボン師団の連中と徴募兵のハズだ。ドゼーやクレベール師団の連中と合流するならわざわざ分離する必要が無い」
ヴィゴは背嚢からインクを取り出すとその場で手帳のいくつかに印をつけ始めた。方位磁針があればもっと正確にわかるのにな、とぼやく。
「ワフカレール、この街の名前はなんていうんだ? 正式な名前だ」
「え? ちょっと待ってね」
ワフカレールは当たりを見回すと十字路に立っている石碑に歩み寄ってその文字を読んだ。
「クローネト伯の宿場村……って書いてある」
「クローネト伯か。分かった。とすると『驢馬の市』から東に……」
「ヴィゴさん、その手帳、地図ですか?」
ジャックは身を屈めて手帳を覗き込んだ。手帳の見開きは赤と黒の線や細かな字の書きこみで複雑な幾何学模様を描き出していた。それぞれに意味があるのだろうがさっぱりわからない。とジャックは感心した。
「将校みたいですね」
「将校だって?」
ヴィゴは整えられた口ひげを撫でた。
「将校か。いや、俺はただの兵卒でこれは趣味みたいなモンさ。それより、靴の手入れをしておけよ。他の部隊と合流するんだ、そんなぼろ靴じゃみっともないだろ」
「ヴィゴさんの靴だってぼろじゃないですか。ワフカレールは裸足だし……」
ジャックはヴィゴの言葉に何か避けるようなニュアンスを感じ取ったが、あえてそれを口にしなかった。
「俺は替えの靴がある」
ヴィゴは背嚢の中から真新しい靴を取り出して見せた。
「私も綺麗な靴あるよ」
ワフカレールも背負っていた袋から新品の靴を持ち出して見せた。
「『王都』で二足靴を支給してもらっただろ。履く靴と、閲兵用の綺麗な靴を分けてなかったのか、お前」
「え、そんな。ワフカレールは聞いてたの?」
「ううん。私は裸足のほうが歩きやすいから履いてなかったの。歩くときは草のところを歩くと痛くないよ」
「二足とも履き潰してボロボロになってますよ。どうしよう……」
「そこらの商人から買ってこい。今ならまだ、閲兵があるのをみんな知らないから靴が売れ残ってるはずだ」
「ああ……」
ジャックはがっくりと肩を落とした。従軍商人はなんでも売ってくれるが、相場は街の何倍もするのが常だった。
◆
日も暮れてボナパルトに率いられた銃兵組が各々の寝床を確保していた頃、ボナパルトの義息子にして副官のウジェーヌは熱い湯の入った容器を炊事所で受け取り、司令部のおかれた小屋に向かっていた。
この世界で何度目かの満月があたりを薄い青に染め上げて、見回す限りの草原がわずかに降りた霜と反射して輝いているように見える。方向を失いそうな幻想的な世界にウジェーヌは自分の意識が一瞬遠のくのを感じて、慌てて首を振った。意識を失いかけたのはこの景色のせいだけではない。ここ数日、行軍に次ぐ行軍で満足に睡眠をとっていないのだ。
おぼつかない足取りでウジェーヌは司令部にたどり着く。崩れかけの扉の前に護衛の兵士が立っている事を除けば、とてもここが数万を超えるフランス軍の最高司令部と思えない。
小屋に入ると、蝋燭が煌々と輝いて部屋をオレンジ色に照らしていた。隙間風が吹き込んでくる、粗末を絵に描いたような部屋にあって不釣り合いに立派なテーブルに二人の人間が額を突き合わせて影を落としていた。
一人はウジェーヌの義父全軍の司令官であるボナパルト。もう一人はその忠実な参謀のベルティエ将軍だった。
「司令官閣下。お湯をお持ちしました」
その声に気がつく様子が無かったので、ウジェーヌはもう一度大きな声で同じことを繰り返した。
「……ウジェーヌか。よし。ベルティエ、今日はもういいぞ」
ボナパルトのその言葉の最後に引きずり込まれるようにベルティエは音もなくその場に座り込み、寝息を立て始めた。
「まだお仕事をなさっていたのですか。義父上」
ウジェーヌは座り込んで眠るベルティエの肩に毛布をかけてやった。
「……デュマから報告が入ったわ。敵に四千の援軍があったみたい」
ボナパルトは左手に持っていたコンパスを机に投げ出した。机には無数の赤と黒の線、そして色分けされたピンが刺さっている。そしてウジェーヌが持ってきた熱い湯をコップに注いで飲み干す。
「……友軍の合流は間に合いますか?」
不安げなウジェーヌの問いかけにボナパルトは柔らかな微笑で返した。
「間に合う。デュマの騎兵主力はここから六時間の距離、王都からの援軍は十二時間の距離に位置している。クレベール師団は七時間。連絡は槍のサオレが連れて来た騎兵連中にやらせて、二時間おきに報告が届く。あいつらは使えるわね。五十騎一組で送り出せば、妨害を受ける事は決してない」
ボナパルトは行儀悪く地図が広がっている机に腰かけると、定規を手に取って地図を指した。
「……敵は大街道を進んでる。会敵は早くても四十時間後。敵に翼が生えない限りね」
その冗談にウジェーヌはくすりと笑った。
「彼我の距離と行軍は完璧に計算してある。私のほうが戦場に先着し、有利な位置で陣を敷ける。敵は強行軍で疲労困憊。こっちは壁と屋根付きの宿場でぐっすり熟睡って寸法。おまけに後方にはドゼー師団が展開して、王都との連絡線も確保してる。後退することもできるし、負けても立て直しが効く」
どうにでも動ける。とボナパルトは消え入るような声で呟いた。
軍を進めるも下がることも、負けた後の事も、何もかもを計算して土壇場で作戦を変えられるよう万全の態勢を整えている。
「後退……することもあり得るんですか?」
「さあね。正直なところ分からないわ。戦場では何が起きるか分からない。だから何が起きても大丈夫なように備える。どこにでも行けるようにね。私はいつもそうよ」
私はどこにでも行けるようにしている。……どこに行くかなど未来は全く分からないのだから。ボナパルトはそう言いかけて口をつぐんだ。
ウジェーヌは蝋燭灯りを反射して輝く司令官の目を見た。自分や参謀長と同じく、いやそれ以上に不眠不休で働いて軍勢を管理しているにもかかわらず、青灰色の瞳はほとばしるような生気にみなぎり、光っているようにすら見えた。
「ウジェーヌ、あなたも寝ていいわ」
立ち上がったボナパルトは壁に掛けている灰色のコートを羽織った。
「義父上は?」
「兵士たちの様子を見に行くわ。ちゃんと寝泊まりできてるか確認しなきゃ」
「こんな夜更けにですか」
「抜き打ちの視察ね。あなたは寝てていい」
「いいえ……いいえ! 司令官が起きているなら、自分も起きています。お供します」
「……そう。いい子。じゃ、ランタンでも持ちなさい」
ボナパルトは二角帽子を被ってコートの襟を立てるとウジェーヌと共に小屋を出て、兵士たちの眠る村を歩き始めた。