第七十一話 矜持
ボナパルトが作戦を決した二日後。剣のサオレは大街道を進む『斧打ちの国』の指揮官ヴィオス公の陣営を訪ねていた。ヴィオス公の天幕は豪奢なもので、青地に金糸で細やかな動物の絵が刺繍されている。家具も運び込まれており宮殿の一室と称してもよかった。豪奢な家具とは対照的にヴィオス公本人は中肉中背で外見にこれと言った見どころがない。茶色の瞳、茶色の髪を持っていて、大貴族というよりも仕事に追われて疲れている自由農民の男という印象をもつ。
「剣のサオレ殿ではないか。その有様は一体どうしたことか」
調度品に囲まれた部屋に集まった諸侯の前でヴィオス公はやや芝居がかった態度でサオレに問いかけた。
「ダーハド王の剣、鉄のヴィオス公に至急にお伝えしたい事がございます。私はダーハド王に対して、忠誠の義務を果たさんと悪霊使いのボナパルトの軍営を偵察しておりました」
剣のサオレは豪奢な赤い絨毯の上に崩れ落ちるように跪いた。その顔は青黒く腫れあがり、左手の爪は小指を除いてすべて剥がされて包帯の下にはグズグズと血がにじんでいる。
「しかし不運にも敵に捕らえられ拷問を受けました」
「貴族を拷問にかけるなど。あやつらは道理を知らぬ卑劣な獣よ。して、いかにして逃れた?」
「敵方に内通者がでて私を逃がしてくれたのです」
ヴィオス公は眉を上げた。
「敵方に内通者……裏切者が出たというのか? ふーむ。信じがたい話だ。もっと詳しく話していただけるかな」
ヴィオス公はサオレに椅子を与えて座らせた。召使が持ってくる盃に注がれた酒を飲み干してからサオレは言葉を続けた。
「ボナパルトは蹄鉄砦を包囲し、ちょうど今から三日前に総攻撃を行いました。結果は失敗。多くの兵士を失った挙句、城壁を越えることができませんでした」
その言葉に集まっている諸侯から次々に弾けるような笑い声と嘲笑の声が漏れた。
「流石は盾のグーエナス伯。守城にかけてはグルバス屈指だ」
「奴ら、大砲とやらの威力を吹聴しておきながらしょせんはこの程度よ」
取り巻きたちにひとしきり勝ち誇らせた後、ヴィオス公はサオレに続きを話すよう促した。
「城攻めに失敗したことでこれまで勝ち続けて来たボナパルトの権威は失墜し、陣営には不穏な空気が漂いました」
「ボナパルトの兵士たちの様子は?」
「これまで連戦連勝を重ねていた分、衝撃は大きく意気消沈して狼狽えていました。準備不足の中、寒空の下に野営させられていることもあり兵士たちは口々に自分たちの隊長を罵って反乱の気配さえありました」
剣のサオレはヴィオス公に甘美な酒を注ぐように言葉を吐いた。それはボナパルトから授けられた巧妙な偽情報だった。サオレに与えられた任務、それはヴィオス公の判断を迷わせる偽情報をもたらすことだった。偽情報を相手に信じ込ませるには、真実と嘘を織り交ぜて話す必要がある。サオレの身体にある拷問の傷は、ヴィオス公を騙すためにサオレが自ら提案して傷つけさせたものだった。
「しかも後方ではレスナスト殿率いる騎士隊が補給馬車を襲撃しはじめ、呼応した諸侯たちが立ち上がろうとしています。王都から驢馬の市に至るまでの諸侯は、クルーミルに降伏した者たちと、ダーハド王に味方する者たちとで殺し合いになっているでしょう」
サオレの訴えにあちこちで失笑が起きた。
「混迷の挙句、身内同士で殺し合いとはな」
「草長の国の田舎者たちに相応しいではないか。互いに殺し合わせておけ」
「右往左往する連中の顔が思い浮かぶわ。前の征服の時もそうだったな」
「然り、然り。偉大なる王の軍勢の威光を前に戦う前から分裂した奴らの無様さと言えばない」
サオレは奥歯を強く噛んで腹の底から煮えたぎるように沸き上がる思いをかみ殺して言葉を続けた。
「さらに全面からはヴィオス公の大軍勢。完全に包囲されたボナパルトは迷走した挙句、兵士たちをバラバラに分散させた挙句、僅か数千の兵を率いてヴィオス公と戦う計画です」
ヴィオス公はサオレの瞳を覗き込むように見つめた後、側近の者を呼んでひそひそと話をした。蹄鉄砦への攻撃が失敗したこと、レスナスト率いる一隊が後方で襲撃を行っていること。それらの情報はある程度ヴィオス公の元にも届いている。サオレの言葉が偽りでないことが確かめられた。
「数千人でわが軍に対抗できると踏むほどボナパルトは愚かではあるまい? 何か策があるのだろう」
「ご明察です。ボナパルトは軍勢を二手に分け、自らが正面に立ってヴィオス公と戦う間に、もう別動隊を側背面から襲わせる挟み撃ちを計画しております」
言葉を続けようとしたサオレをヴィオス公は右手を挙げて制止した。
「……話は読めた。剣のサオレ殿を逃がした内通者というのは、別動隊の指揮官。そうであろう?」
サオレは口角だけを上げて僅かな微笑を作った。
「流石はヴィオス公その通りです。別動隊の指揮官クレベールはボナパルトの指揮の失敗と対応に不満を抱き見切りをつけ、別動隊として本隊から離れるのを機会に偉大なる王ダーハド王の下に帰順したいと申し出ております。願わくば偉大な王の下で傭兵として雇ってほしいと」
「ほほう……」
ヴィオス公はヒゲの生えていない顎をさするように撫でた。
「クルーミルの異国の傭兵も、しょせんは傭兵に過ぎぬというわけだな。よかろう! そのクレベールとやらの降伏を受け入れる。わが軍に降ったあかつきにはこの鉄のヴィオスが偉大なるダーハド王へとりなしをしてやろう」
ヴィオス公は胸を反らす。彼の常識からすれば、傭兵団が内部分裂を起して裏切ってくるというのはそれほど珍しい事ではなかった。異国の地の傭兵団、それがボナパルトの軍勢に対するこの世界の一般的な見方である。
「よろしいのですか、傭兵共を軽々しく信用しても」
「構わん。ここで連中を受け入れたところで我々になんの損がある?それに、ダーハド王は常々あの異国の連中の持つ武器や技術に関心を抱いておられた。それを献上したとなれば私の覚えもめでたいというわけだ」
「しかし、偽降伏という事もあり得ますぞ」
「そんな事は百も承知よ。案ずるな、用心はする。そちは心配性だな。今は連中の分裂を祝おうではないか!」
ヴィオス公は側近を下がらせると諸侯に高らかに宣言した。
「この戦は勝利したも同然! 敵は分裂し戦場に出る前に半死人も同じ。ひとたび会戦が始まれば奴らを切り刻もうではないか!」
陣中の諸侯はその言葉にまるで酒宴の席のように笑い声をあげた。
「偉大なる王万歳!」
「勝利を!」
「王に忠誠を誓いながらクルーミルに味方した裏切者たちを柱に括りつけてやるのだ。奴らの宝物も家畜も一切を奪い尽くし、奴らの館に火を放ち、裏切者の汚れた血を炎で浄化してやろうではないか!」
ヴィオス公はさらに煽り立てるように言葉を重ねた。
「クルーミル側に降伏した村や街は王の庇護下から外れている。見せしめにせよとの王のお言葉だ」
諸侯の目つきが変わる。戦いが終われば、後は勝利者の当然の権利として敗者から全てを奪い去れる。この世界でそれは一般的に貴族の館や財産に限られる。民衆は王の財産として庇護され手出ししないのが常識である。それが外れる。貴族の屋敷一つと民家一つでは貴族の屋敷のほうが奪えるものが多い。しかし、民家は百も千もあるのだ。それを全て奪えるならその富は莫大なものになる。
「勝利の栄光と富は目前だ!」
諸侯たちは熱狂の渦と化した。豪奢な絨毯を踏み鳴らし、腰に下げた剣をガチャガチャと鳴らして王への忠誠と戦いへの意欲を叫んだ。その熱狂の中でただ一人、サオレだけが凍てついた氷の像のように沈黙していた。
「案ずるなサオレ殿。王に対する貴殿の忠誠はしかと承知しておる。貴殿の領地と民は略奪から外してやる。案ずるな……」
ヴィオス公の囁くような言葉にサオレは静かに目を伏せた。血に汚れようと、偽りを重ねようと、誰に跪こうとも、自分の民を守らねばならなかった。