第六十九話 裏切者たち
ボナパルトの司令部は白い布で出来た味気の無い天幕である。『草長の国』の貴族たちがそれぞれ粋を凝らした複雑な文様のついた色とりどりの天幕を持っているのと比べれば、驚くほどに質素だった。一方で中にはその質素な天幕には不釣り合いなほど豪奢な赤色の絨毯が敷かれている。クルーミルがボナパルトに贈った逸品である。
参謀長のベルティエと、副官のウジェーヌを従えて天幕の中に入ったボナパルトは軍への補給を担うネーヴェン商会代表者であるリニーヴェンの姿を見止めた。
「リニーヴェン殿。体調はいかがか」
リニーヴェンは差し出された通訳官に頭を下げると、自分の手を差し出した。彼もまた、クルーミルと同様に精霊の力を使った会話ができた。
「ボナパルト様。問題ありません。父からボナパルト様の健康と武運を祈っていると言伝を預かっています」
「君の父君には助けられている」
フランス軍は武器弾薬といった重要物資を除く食料品や日用品の調達と輸送をネーヴェン商会をはじめとする商人たちに委託していた。リニーヴェンは都市の組合で契約を受けた行商人たちが軍の補給拠点に到着し、穀物袋に砂を詰めて重量をごまかしたり、酒を水で薄めたりして不正していないか、正確に物資を届けているかを監督する立場にあった。物資が届けばリニーヴェンは領収書にサインし、商人はそれを組合に持って帰って晴れて契約金を受け取る仕組みになっている。
「ボナパルト様、ここ数日補給品を積んだ馬車の到着が遅れています」
「何が起きた?」
「盗賊の類が出ていると、商人たちは言っています」
「盗賊か……」
ボナパルトの軍が前進するにあたり、敵対的な諸侯は逃げ出し、中立的な諸侯も活動を避けている。治安を維持する者が居なくなれば街道で馬車を襲撃する盗賊の類は増えるのが常だった。
「警備を増やすよう指示しておこう」
ボナパルトは簡単に指示を済ませると面会を求めているという貴族を通すよう命じた。
◆
ボナパルトの天幕に連れられた貴族の男は整った顔立ちをしており、長い黒髪を束ね、自信に満ち溢れたような深い緑色の瞳を持っていた。そして、右腕が無かった。
「あなたは」
リニーヴェンは後ずさりするのを見てボナパルトは眉をあげた。
「王の友にして雷鳴の主ボナパルト様に剣のサオレがご挨拶申し上げます」
貴族は跪いてボナパルトに挨拶すると、立ち上がり、リニーヴェンを向いて軽やかな風のような笑みを浮かべた。
「おや、いつぞやの少年! こんな所で君と会うとは精霊の導きはなんと幸いかな!」
「その腕は、僕が……」
リニーヴェンは目を背けた。
「知り合いか?」
ボナパルトに問われて剣のサオレは屈託なく白い歯を見せた。
「はい。私は閣下が王都を巡って争っている時、サーパマド伯の命を受けて伝令狩りをしておりました。そこで閣下への通信文を持ったこの少年と出会い、捕らえようとしたところ見事に腕を撃ち抜かれたのです」
サオレは全く自然体でそう語るのでボナパルトは危うく重要な言葉を聞き逃すところだった。
「サーパマド伯の命を受けていた? すると貴殿は我々の敵か」
「はい閣下」
ベルティエが血相を変え、腰のサーベルに手をかける。それとほぼ同時にサオレを連行してきたフランス兵も銃口を向け、傍に控えていた参謀たちが司令官とこの大胆な敵の前に身体で壁を作った。
「閣下、招じ入れる相手はもう少し調べておくべきですな!」
ボナパルトを除く全員がグラス満杯に注がれた水のように張り詰めた。
「御託はいい。用件を言え」
「もう少し驚かれるかと思いましたが!」
ボナパルトは見慣れた手品に無感動な子供のように不貞腐れた顔をして兵士たちに武器を降ろすように合図する。
「では単刀直入に申し上げます。私は閣下の側にお味方したく参上致しました」
「つまりは寝返るというわけか。私がそれを歓迎する理由は?」
「私は閣下が必要とする情報を持っています。取引しましょう」
「貴殿が私を必要としているのであって、私が貴殿を必要としているわけではない。対等だと思うな。どうするかは情報による。話せ、全てはそれからだ」
「これは手厳しい。いいでしょう。私は目と耳の悪い閣下が必要としている情報を差し上げます。すなわち、前面から来るダーハド王の援軍と、後方でうごめく者たちの計画を」
「続けろ」
「ダーハド王は蹄鉄砦を救援するために一万五千の兵を送り出しました。彼らは大街道のルートから国境の山脈を抜け、通常十五日の行程を十日で駆け抜ける手筈になっています。その指揮官は鉄のヴィオス公。東部地域はこの名を聞くだけで震え上がります。ダーハド王に敵対した者たちを処刑した張本人ですから」
「ベルティエ」
ボナパルトは目の前の貴族に鋭い眼光を注ぎながら、参謀長の名を呼んだ。
「デュマから敵軍について報告が入っていたな。規模は?」
「およそ九千から一万三千との報告です」
「ほぼ正確な情報だな」
「はい」
ボナパルトは貴族に話を続けるよう手で合図した。
「私は右腕を失くして戦場に立てなくなってからというもの、貴族たちの間を渡り歩き使者を務めていました。そこで耳にした情報です。加えて、閣下の軍勢の背後ではレスナストという若い貴族が騎士を集めて、閣下の脆弱な補給線をかく乱しています」
「規模は?」
「私が聞いた話では一千。もっと集まるでしょう。二、三千は。閣下は急速に前進して軍の集結を不可能になさいました。しかし、諸侯は無力化されたわけではありません。閣下の目の届かない所で徒党を組み、古い戦争をやろうとしています。数人規模で馬車や、村に火を放つ古い時代の戦いを。私はここに来る途中で殺された商人の死体や焼き払われた馬車をいくつか見てきました」
「そんな情報は入っていないな」
「閣下の目と耳が悪いのです。閣下は聡明ですが、目と耳を塞がれればどのような賢者も正しい判断はできません。彼らは閣下の目と耳を塞ぐことにしたのです」
「……補給線への攻撃か」
ボナパルトにとってサオレのもたらした情報は、やはり。というものであってまさか、というものではなかった。強力な軍隊を打ち破る方法の一つは補給の破壊である。敵がその手に出るのは当然だった。
「補給線の防御はどうなっている?」
ボナパルトはベルティエに問う。
「不足しています。補給路を巡回する警備部隊を出してはいますし、街道には守備隊もいくらか配置していますが……数百、数千にもなる民間の馬車を全てカバーするのは不可能です」
ボナパルトは右手の人差し指を柔く噛んだ。
フランス軍は巨大な軍勢だが、占領地を全てカバーするには足りない。そもそも民間の経済規模に比べれば軍隊などほんの一握りの存在に過ぎないのだ。ボナパルトといえど全知全能の神ではない。全てを見張り、守ることは不可能だった。
「敵は卑怯者です! 兵士ではない商人を襲うなんて! 卑劣です!」
横でそれを聞いていたリニーヴェンは顔を紅潮させ、叫んだ。
「敵の弱点を突くのは戦いの基本だ」
ボナパルトはフランス語で呟き、首を振った。目の前にいるこの少年にとって問題は戦術や戦法、戦争の習わしの是非や合法性という問題ない。彼にとって商人が襲われるということは、自分の過去と重ね合わされるものなのだ。この少年は、そういう民間人への攻撃で母親を亡くしているのだから。そういう心の問題になる時、人は頑なになるしかない。
「いかがしますか、閣下」
ベルティエがボナパルトへ問いかける。ベルティエとしては、軍事レベルで目下の事態に対処する必要があった。
「……ベルティエ」
ボナパルトはベルティエを傍に呼んだ。
「各部隊からの定時報告はどうなっている」
「……途絶えがちです。この世界に来てから、道に迷ったりして伝令が遅れることは頻繁にあったので、まだご報告していませんでした」
「ふむ……」
ボナパルトは腕を組んだ。補給が襲撃され、伝令が阻止されるとなると事態は深刻である。いかに前線に大軍を擁し、戦場で無敵を誇ったところで補給が途絶すれば飢えに苦しむことになるし、伝令が阻止されれば各地の軍隊は孤立し、頭を失った巨人になる。クルーミルとの連絡が途絶するのは致命的だ。
「信じがたい話だ。もしそれが本当なら貴殿が現れたのは都合が良すぎる。まさに必要としている時に必要としている情報を持った人間が都合よく来た。いささか、話が出来過ぎていないか?」
「勿論この時に参上したのは偶然ではありません。閣下が必要とする時だからです。だからこそ、閣下は私に価値を見出すでしょう」
なるほど。この男はわが軍の事情もある程度把握している、そう言いたいのだろう。とボナパルトは推し量った。裏切りを成功させるには条件がある。すなわち相手がそれを歓迎すること。なんの利益もなく「裏切ってきました、受け入れてください」などと言う話は通らない。こちらから寝返り工作を仕掛けたのなら話は別だが、向こう側から飛び込んでくる裏切者は自分の利用価値を証明しなくてはならないのだ。
「貴殿が敵の偽情報を持ってきた可能性もある。草長の国の貴族である貴殿は本来なら女王に仕える人間ではないか?それがダーハドに寝返り、今また我々に寝返ろうとする。そんな事を繰り返す無節操な裏切者をなぜ信用できる?」
ボナパルトは裏切者、という言葉を通訳に伝えた時に自身の心に不愉快な冷たい血が流れるのを感じた。
裏切者。その言葉はボナパルトの古い記憶と結びつく。
祖国コルシカと独立の英雄パオリを裏切り、フランスに味方した父親。憎むべき父親。しかし、その裏切りの見返りに父親が受け取ったフランス貴族という地位は、自分を栄達への階段に導いた。もし、父がフランス貴族という地位を得なければ自分はフランスの軍学校に入学することはできなかった。自分は、裏切者の父親から人生を授けられたのだ。自分は生まれながらにして、裏切り者の共犯者だった。自分には他人の裏切りを批判する資格などないのだ。とボナパルトの内なる声が囁く。心の奥底に空いた巨大な空洞である。
『裏切者』という言葉が出た時、サオレの顔から初めて笑みが消えた。
「それは撤回していただきたい。私は裏切者ではありません」
「ほう?」
ボナパルトは突き刺すような口調で返した。
「私はこの国の貴族です。領地と領民があります。私が忠誠を尽くすのは領民に対してです。すなわち、私には彼らの生業と安全を守る務めがあります。彼らが畑を耕し、羊を追い、糸をつむぐのを守る義務が。これは私の生まれの義務です。私に血が流れ続ける限り、領民への忠誠を怠ることはできません。一方でクルーミル女王に仕える事や、ダーハド王に仕える事は契約事に過ぎません。私は、王に仕える。王は私を、ひいては我が領民を保護する。そういう契約に過ぎません。然るに、王がその務めを果たせぬ時、私もまた義務から解放されます。私は我が領民を守ってくれる強き者に従います」
「貴殿が言う情報が真実なら、私は前方と後方に敵を抱えて包囲された形になる。形勢は極めて不利だ。ダーハド王のほうが依然として、強いのではないか?」
「守ってくれる強き側と申し上げました」
「ダーハド王は貴殿の領民を守ってくれないと?」
「左様です。ダーハド側の貴族たちは古い戦争を始めました。戦に巻き添えは必然です。が、彼らは積極的に民を巻き込む戦いをしている。私の一族や、縁戚の民が被害に遭いました。見過ごせません」
「よし。貴殿を受け入れよう。やってもらう事がある」
「その前に閣下。裏切者と言う言葉を撤回していただきたい」
サオレは断固とした口調で告げた。
「撤回しよう」
ボナパルトがそういうと、サオレは人の好い笑みを浮かべて跪いた。
「いまより我が身を閣下に捧げます。閣下の愛するものを愛し、憎むものを憎みます。その弓の放つ矢となりましょう」
「それで、貴殿は情報と引き換えに何を望むのだ」
ボナパルトは贋金を疑う商人よりも疑い深く目を細めて剣のサオレを見定めた。
「私の領地と爵位の安堵。女王へのとりなしです」
「貴殿が裏切れば、ダーハド側の貴族はその領地を襲うだろうな。私が守ってやらねばならんわけか。その領地はどこにある?」
「閣下の御手に。『金具の街』の市内外百余りの家が我が領地と領民です」
ボナパルトは興味深そうに眉をあげた。『金具の街』はテーケルネトの街である。その街の中に剣のサオレの領地と領民があるのだ。この国は複雑なモザイク壁画のように、貴族たちの領地が散らばっている事だろう。
「テーケルネトの街だな」
「左様です。……我が一族と彼女の一族は親しい間でした。彼女の父親の亡骸を埋葬するよう命じたのは閣下だと聞きました。お礼を申し上げます」
ボナパルトは跪く若い貴族を見つめた。人間には感情の問題がある。それは経済的、物質的な損得を超越して人を突き動かすものだ。自分自身がそうであるように。しかし、他人のそれをアテにすることはできない。他人の事など、表面に表れる損得でしか測りようがないのだ。心が存在すると分かっているが、それを信じることはできなかった。
◆
天幕を出て、身体を猫のように伸ばした剣のサオレに、リニーヴェンが話しかけた。
「サオレさん」
「あの時の少年……いや、ネーヴェン商会のリニーヴェン殿か。何用かな」
「僕はあなたから右腕を奪ってしまった。なんてお詫びすればいいか」
少年の表情は悲痛なぐらい暗かった。
「……あの時、私たちは互いに剣を抜いた。何も謝ることはない。僅かでも狙いがズレていれば、私は躊躇なく君の喉を掻き切ったろう。互いにやるべきことをやった。そこになんの遺恨があるだろうか!」
サオレは声を上げて笑った。
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