第六十八話 日常のありふれた光景
フランス軍が蹄鉄砦に攻め寄せている頃。その遥か後方の人口数百人ほどの村は活況を呈していた。彼らはフランス軍にくっついて、兵士たち相手に洗濯したり、賭場を開いたり、酒を振る舞ったり、夜の相手をしてやったりする数百人の従軍商人の一団であり、そこへ食料等を積んだ行商人の馬車が押し寄せてひしめきあい、空き地という空き地に色とりどりの天幕が立って何十両、何百両にもなろう馬車がなんなんと連なり、広場一杯に溢れかえっている。
フランス兵たちは近距離で戦闘が展開していることもあって剣呑な表情をしており、いつもなら両手を挙げて迎え入れる商売女たちの視線を払いのけるように手を振っていた。
「こんなに人が集まるのは村が始まって以来のことじゃな」
「はい村長。まったく、彼らは黄金の精霊の使いたちです。家という家が貸し出されて、収穫した麦も相場の何倍もの値で売れます。村一同一晩で大金持ちになりました」
「異国の軍隊が来ると聞いた時は皆震え上がりましたが、彼らの行儀のよいことと来たら。訳の分からぬ言葉を喋ることを除けば全く無害で、金払いも良いいい連中でした」
あばら家の中で村の顔役たちと村長は金を数えるのに忙しい。村長は村で一番立派な、それでも簡素な家をフランスの将軍に貸し出して、何十枚という金貨を見返りに貰っている。他の家々も同様で、兵士を泊めたり、行商人たちに場所を貸したりで、普段では考えられないような莫大な金を手にしていた。
フランス軍は移動する巨大な市場だった。飲み食いをはじめ、娯楽も欠かせない。二万人近い男たちの需要を満たすために商人がやってくる。商人たちもどこかで物資を買い付ける。遠くから運んでくる者もいれば、近場で品を揃えて商いを始める者もいる。とにかく、何もかもが売れていくのだ。
◆
「道を開けろ、道を開けろ!」
無秩序に道路を占める行商人の馬車をフランスの騎兵隊と貴族の騎士たちが押しのけていく。その後ろから黒い旗を付けた馬車の一団が続く。彼らは商人ではなく、フランス兵だった。馬車の荷車の中には藁と羊毛が敷き詰められ、恭しくいくつもの樽がしまい込まれていた。続いて数百人の兵士たちが後に続く。彼らは『王都』から出発してきたボン将軍率いる師団の一部だった。
「なんですかあれは」
その様子を露店の酒場で見ていたボーレという若い商人が隣の若い身なりの良い男に尋ねた。
「あれか。あれはフランス軍の、火薬っていうのを運ぶご一行さ。ドカン!と雷みたいに爆発する粉なんだと。武器に使うらしい。しかし作るのが難しくて、目玉が飛び出るほど高価だから、ああやって兵士の護衛がついてるのさ。製法の秘密を知ればもうかるに違いない」
その発音が貴族特有のものだったのでボーレは驚いた顔をして男を見た。よく見ると、マントに隠れているが右腕が無い。
「あなたはひょっとしてどこかの領主様ですか」
「ん?まあ、そんなところか。今はただの旅人だよ」
「失礼しました」
「気にすることはないさ。それより、出発するなら、あの連中の後ろにくっついていかないか。こっから先はまだ戦いの真っ最中だ。兵隊と一緒のほうが安全だぞ!」
「いつ出発するんですか?」
「明日じゃないかな?」
「いや、一番乗りして麦を売りたいんです。腕のいい護衛もついてるから、心配いりません」
◆
若者ボーレは馬車を出した。馬車はでこぼこした道をがたがた音を立てながら進み、時々年老いた馬が過積載の荷物を引かせる主人を恨めしそうに振り返るのだ。
「そうしかめつらするなよ。この仕事が終わったら、お前にも楽させてやるから」
馬を宥めて、ボーレは右隣を見た。小さな馬車にぴったり寄り添うように一騎の騎兵がついている。サイズの合わない鎖帷子に鉄の兜。腰に弓を下げ、背中には長剣をさし、小柄だがさながら歩く武器庫のように頼もしい。しかし、それとは対照を成すように線の細い美しい横顔にボーレは目を細める。その視線に気が付いた騎兵が顔をボーレへ向けた。
「どうした。そんなふやけた顔をして」
その声は低いが確かに女の声だった。
「いや、もうすぐだなと思ってさ」
「……目的地には日暮れに着くだろう」
「そうじゃなくて。この仕事が終わったらそれなりの金が入るだろ? そしたら、結婚の資金になる。そうだろイーラ」
「……そうだな」
イーラと呼ばれた騎兵は顔を赤らめて俯いた。彼女は嬉しい事があると決まって俯くのだった。
「もう何年になるかな」
ボーレは愛おしいものを撫でるように記憶をなぞった。
辺境の村に生まれ、畑を耕していた自分とイーラが出会ったのはいつ頃だったろうか。彼女は村と取引する遊牧民の人間で、村に馬と羊を売りに来ていた。子供ながら馬に跨って走り回る彼女はとても強く、美しく見えた。彼女の一家と自分の一家が昔から交流があると聞いた時には、飛び上がるように嬉しかったのを覚えている。その日は一日星を見上げて、生まれの幸運に感謝したものだ。彼女の母親は戦士であり、彼女もまたそれを継いだ。身に着けている鎖帷子と兜は母親から譲り受けたものらしい。成人を済ませると、彼女は戦士として修業を積むために旅に出ることになった。彼女と共に生きたいと思い、自分は畑を捨てて行商人になることにした。畑を売った金で一頭の馬と荷車を買い、彼女を護衛に雇うことにして旅をしてきた。勝手に畑を売ったので両親は激怒し、半ば村から追い出されてしまったが。行商人の旅は決して楽なものではなかったが、彼女と共に苦難を乗り越えた。戦士としての彼女は卓越した弓の使い手で、賊が出るような危険な道を進んで利益を上げたことも一度や二度ではない。今回もそうだ。
「フランス軍の仕事は僕たちにとって大きな転機になる。彼らに小麦を売り払えば、村に戻って畑を買い戻して、イーラの一族に結婚を認めてもらう結納金を支払って余りある金が手に入るはずだよ」
「そうだな。母様も認めてくれるだろう……麦だけでそんなに儲かるものか?」
「積んでるのは殆ど麦だけど、実はそれ以外のものも積んでるんだ。行商人はあちこちで関税を取られるだろ?街に入れば入市税、街道を行けば、それぞれの領地の貴族がなにかと税を取りに来る。これは麦だから麦税を取る、そっちは油だから油税、羊毛を積んでいるな、うちの羊毛組合を保護するための保護税を上乗せだ…… フランス軍に物資を降ろす商人にはそれがない! 全く、おとぎ話のような話さ。フランス軍に物資を届ける行商人には女王から特別の免税状が発行される。これさえあれば、関税を全て無税でやり過ごすことができるんだ。全ての行商人が喉から手が出るほど欲しい特権だよ。フランス軍に納入する小麦を積み、空きスペースに免税になった日用品を積み込めるだけ積み込み、売りさばいていけば冗談のように儲けが出るってわけさ」
ボーレをはじめ、多くの商人たちが笑いが止まらない話だった。
「金が入ったら、力のある馬車馬を買って、馬車も大きなやつにしよう。子供たちが入るぐらいに!」
「全く、気の早い男だ」
イーラは半ば呆れたような口調で言ったが、その口元は確かにほころんでいた。家族に囲まれて行商の旅をするのも悪くない。きっと賑やかで楽しいものになるだろう。
「まったく、戦争ってやつは儲かるね。戦士は名誉を手に入れて、商人は富を手に入れる。みんな幸せだ」
ボーレは全く悪意の欠片もなく無邪気な子供のように笑った。ふと視界に岩が映る。そういえば、草原が荒地になるあたりだ。ごろごろと大小さまざまな岩が転がっていて、馬車も揺れる。
「……ボーレ!」
突然イーラが鋭く叫んだ。直後、風を切る鉄の音がしてボーレは右足に弾けるような痛みを感じた。一瞬遅れて、それが矢であることに気が付いた。顔を上げると、街道の外れから数騎の騎兵が飛び出してくるのが見えた。
「岩陰に隠れていたな! ボーレ、大丈夫か!」
「大丈夫だイーラ。このぐらい」
イーラは自らの油断を恨んだ。敵が潜む物陰があったのに、気を緩めてしまった。全く、一瞬の油断だった。矢をつがえると疾走してくる騎兵目掛けて矢を放った。矢は正しく敵の胸に命中したが、はじき返された。
「鎧をつけてる。それも上等な鎧だ! あれはただの賊じゃない!」
イーラは背中に背負っていた長剣を抜いて舌打ちした。敵は五騎。もう少し早く気づいていれば、弓をよく引いて威力のある矢を放てたろうに。
「馬車を捨てて逃げろ!」
「ダメだイーラ!」
イーラは手綱を離して両手で長剣を握りしめた。両足でしっかりと馬にしがみつき、馬上からでも十分なリーチがある長剣を振るのは、幼い頃からの熟練技だった。半人前の戦士に過ぎなかった自分を雇い入れ、世界への旅に導いてくれた男。幼い頃からともに苦楽を過ごしてきた愛すべき人とその未来を約束してくれる大切な品をこんな所で奪われるわけにはいかなかった。
ふたたび飛んできた風切り音をイーラは斬り捨ててみせる。飛んできた矢を切り捨てるのはほぼ直感のなせる業だ。しかし、三本、四本と連続で速射される矢を防ぐことはできなかった。矢が鎖帷子を突き破る。
「うぐッ……」
近づいてみれば対峙した騎兵たちはフードを被り、ぼろ布を纏ってはいるがその下には板金の鎧を身に着け、確かな家紋が見えた。東部地域の貴族たちだ。
「矢を受けても倒れないのは見事だ。惜しいな、敵でなければ召し抱えたかった」
「ほざくなよ」
襲撃者たちの尊大な言葉に血の混じった唾と共に応報したイーラは剣を振り上げた。うなりを上げて振りおろされた剣は、しかし空を切り、突き出された槍がイーラの喉を貫いた。敵のほうが技量に勝っていたのだ。
◆
若者ボーレには現実が受け止められなかった。地面に崩れ落ち、自分の血だまりの中に突っ伏しながら自分は何かの夢を見ているような気分になっていた。吐き気がするような全身の痛みはもう治まり、何も感じなくなりつつあった。視界が暗くなり、何が起きているのかもよくわからない。
「イーラ……」
自分の耳にすら届くかどうかわからない声色でボーレはともに商売をしてきた仲間、明日の花嫁の名を呼んだ。返事が返ってくる事はない。代わりに男たちの声がした。
「女は、やったか?」
「まだ息があるぞ」
「とどめを刺せ」
「レスナスト様、遠方に敵が見えます。どうやら感づかれようです」
「まだ遠い。油壺を持ってこい。焼き払え! 敵に物資を渡すな!」
ボーレには全てが失われたのが分かった。まだ自分が生きていることが恨めしいとすら思える。イーラが死んだ。一体なんの間違いだろうか? 焼き払うだって? 盗賊がなぜ? いや、そんなことはもうどうでもよい。自分ごと焼き払ってくれ。世界など燃えてしまえ。そう願ったのが彼の最期だった。